序章③ 明音の想いと止まった世界の空
――意外と義理堅いのかしら?
目の前でリアカーを引く一歳年下の男の子。
せめて一緒に歩こうと伝えたが、何があるか分からないから体力を温存しておいてほしいと頑なにリアカーに座らせてきた。
正直揺れてお尻が痛かったから少し歩きたかったけど。
途中からバックパックを敷いて快適になった明音は、やることもなく今朝の出来事を考える。
神の試練。そんなモノが本当に起こるなんて今朝まで信じていなかった。
ただ、夢で見たお告げが鮮明で目覚めた後もはっきりと覚えていて。
今日まで半信半疑で準備を進めていたけど、まさか本当に時間が止まるとは思わなかった。
家にいるはずの父や母は今日になって突然姿を消した。近所のおばちゃんや友達も同じ。
学校に来たのは試練に挑む前に自分が生活していた場所を見納めておきたかったから。
けど、内心では動いている人を探していた。
――扉に挟まった後輩を見つけるとは思わなかったけど。
助けを求めてくる秋灯を見て、警戒心より安堵が勝った。
少しきつめな口調になってしまったが、動いている人間。
しかも自分と同じ学校の生徒を見つけられたことは純粋に嬉しかった。
――それにしたって挟まってたのは笑えるわね。
思い返し、笑いがこみ上げてくる。
叫び声が切実で、それが静かな構内に響いていた。
今も目の前で頑張っている後輩に対し流石に声を出して笑うの躊躇われたが、あの光景はあまりにシュールだった。
――ちゃんと神様に説明しなきゃね。いるかわからないけど。
秋灯の言葉を信じるなら参加者ではなくイレギュラーでこの場所にいる。
父や母、参加者でない人間がどうなっているかわからないが、朝から見かけなくなったということは試練に関係のない人間はどこかに移されたのだろう。
時間を停止させたのが、お告げの通り神様ならその神に秋灯を保護してもらわなければならない。
《神の試練》。お告げの内容について秋灯に伝えていないことが一つだけあった。
それは、元の生活にはもう戻ることができないという事。
神様に告げられたことは、参加者は途中で敗退するか、神に選ばれるか二択であって、そのどちらでも今までの生活に戻ることはできないと言われた。
敗退が死ぬ事なのかわからないけど、きっとそれに近いのだろう。
明音にはどうしても叶えたい願いがある。
いつからその願いを持ったのか経緯は分からないが、心の奥底で燻っていた大きな願い。
普段何気なく過ごしながら、それでも頭の隅にあって神様にでもならないと決して叶えられない願いが。
ただ、秋灯は違う。一緒にいるのはこの行きずりの期間だけ。彼は試練とは関係のない人間だ。
動いている人に出会えたこと、しかも同じ高校に通っている後輩だったから余計に安心してしまったが、まだ覚悟が決まっていないと感じた。
日常はもう終わった。もう戻ることはできない。
昨日までの自分を振り払うように明音は強く頬を叩いた。
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「‥‥‥‥‥‥‥綺麗だ」
「‥‥‥‥‥‥‥綺麗ね」
純粋にその言葉が湧いてきて、それ以外に表せなくて。
乏しくなった語彙でそれを見上げる。
テレビの映像で目にしたことはあっても、実際に見るのは初めてで。
北極や人のいない未開の地にでもいかないと見れなかったはずの満点の星々が頭上にあった。
夜空の高い位置に南北を横断するように天の川が流れ、普段は真っ黒と点のような光くらいしか見えなかったはずが、赤や青、紫と色彩を帯びたいくつもの光子が輝きを放っている。
宇宙の奥で小さな光が無数に重なり合い、大きな雲を作っているようで。
昨日まで気にも留めなかったが、こんなに多くの星に見下ろされていたのか。
人の明かりが消えた世界の夜空は本当に綺麗だった。
焚き火を囲みながら地面に仰向けになり、かれこれ一時間。
日の出ているうちにテントの設営と食事を済ませ早々に明日に備えていたが。
暗くなってからはずっと夜空を見続けていた。
「綺麗ね、本当に。言葉がそれしか思いつかないわ」
綺麗、美しい。
もっと趣のある言葉で表したいが、それは無粋な感じがして。
ただただ、感動していた。
虫の音も人の喧騒も排斥され、焚火のぱちぱちとなる火花だけが夜闇に包まれた世界に響く。
その後も言葉少なく時々感嘆を漏らしていたが、秋灯が改まって話しかける。
「白峯先輩‥‥‥ひとつ聞いていいですか?」
「何よ急に?」
視線は頭上に固定したまま、言葉だけ明音に向ける。
「神の試練は、世界を変えたいほどの願い持つ者が選ばれるって言ってましたけど、先輩の願いってなんですか」
「‥‥‥‥唐突。それに不躾ね。願いなんて人の根っこに関わるんだから、もっと慎重に聞きなさいよ」
「すみません。気になってしまいまして」
出会って数時間。同じ高校に通っていたが話したこともない。
デリケートな質問だが、どうしても聞いておきたかった。
怒らせたかなと秋灯が心配になるくらいの間を開けて、ぽつぽつと明音が話し出す。
「私の願いなんてありふれてるわよ。この世界は酷くて、理不尽で、大抵よくないことが起こる。生きているうちに幸せを感じるなんて何度あるかわからない。ただ、それってあんまりじゃない。どんなに文明が進歩しても幸せになれない人がいるなんて」
明音は抑揚のない声で淡々と続ける。
「世界が良くなってほしい。生きている人全員が幸せになってほしい。現実が見えてない子供みたいな願いだって分かってる。でも、それでも私は世界を変えたい。世界中の全員が人生の最後に残す言葉が『あぁいい人生だった』って胸を張って言えるようなそんな世界であってほしい。私の願いはそれだけよ」
焚き火の影に隠れて明音の表情はわからない。どんな顔で今の言葉を口にしたのか。
神の試練に選ばれるくらいだから、本気で望んでいることなのだろう。
ただ、なんとなく。悔いているような、物寂しいようなそんな感じがした。
「いい願いですね。とっても優しい願いだと思います」
「子供みたいって思ったでしょ。やっぱり人に伝えるのは恥ずかしいわね」
「そんなことは」
「もう寝るわ。あんたも早く寝なさい」
明音は話を終わらせ、自分のテントへ向かう。
人の願いなんて色々あるが、願いを聞いても明音の心の内までは分からなかった。
何を経験し、考えて、その願いへと至ったのか。
ただ秋灯は世界を変えたいと思う程の願いを持てそうにないなと感じた。
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