第7話
爽やかだったはずのリビングの空気は、いつの間にか重たくなっていた。それが理由か分からないが、寝ていたはずの律がベッドの上からけたたましい泣き声を部屋中に轟かせ始めた。
「律、どうしたの?」日和は優しく律に問う。これが原因だと答えるはずもなく、それを分かっているうえで、暴れる律のことをそっと抱き上げる。あらゆる手段で泣き止ませようとするが、一向に泣き止まず、日和の腕の中でバタバタと身体をねじる律。その声に反応した類以までもが、金子の膝の上で我がリズムを取り乱し始めてしまった。
「類以、大丈夫だよ~」
「すいません、律のせいで」
「大丈夫ですよ。それに、律君のせいじゃないですから、謝らないでください」
「でも・・・」
「気分転換も兼ねて、類以を連れて散歩に行ってきますね。30分ぐらいしたら戻ってきます」
「・・・分かりました。すいません、ありがとうございます」
「いえいえ。じゃあ、またあとでお邪魔させてもらいますね」
「はい。それまでには律のこと落ち着かせておきます」
今にも泣き出しそうな表情を浮かべる類以を金子から受け取り、縦に揺らしながらリビングの扉を開けて廊下に出る。廊下の壁には可愛らしいタッチの絵が額に入れられて飾られている。落ち着かせようとその絵を見せていると、ついに類以は荻野の腕の中で、まるで産まれたばかりの赤ちゃんのような声で泣き出した。
涙が鎖骨の付近を濡らしていく。
「類以君、慣れない環境で疲れちゃいましたかね」
「そうかもね。やっぱりまだ出かけるのは駄目だったかな」
「うーん。でも、結局は外の世界に慣れないといけないですし、今は訓練するしかないですよね」
「そうだよねぇ」荻野がそう呟くと、金子は突然テンションを下げ、「すみません」と謝ってきた。
「急にどうしたの?」
「私、ここに居たら駄目ですよね」
「えっ、どういうこと?」
「日和さんの話、私まで聞いて良かったのかなって・・・」
類以をもう一度抱き直し、一番落ち着いてくれるリズムを身体全体で刻んでいく。
「どうしてそう思うの?」
「柄本さんから直接誘われたわけじゃないのに、私は軽々しく荻野さんに付いて来ただけ。それに、私は結婚もしてなければ子供もいない。だけど、日和さんの過去の話を聞いてしまった。なんだか私だけ余所者っていう感じがしちゃって」
「それで?」
「そう考えるだけで心がザワザワしちゃって、苦しくなって。もしかしたらその不安の感情が類以君にも移っちゃったかもしれないです。だから、やっぱり聞いたら駄目だったんじゃないかって」
金子は涙こそ流していないものの、唇にはぐっと力が入っている。
「そっか。そう思ったんだね」落ち着いた声で言う荻野に、金子は静かに頷く。
「金子ちゃん、私の思ったこと、聞いてくれる?」
「はい」
「私はね、こう思った。きっと、日和さんは金子ちゃんにも話を聴いて欲しかったんじゃないかってね。日和さんは、過去の自分と同じような境遇にいる子供たちを減らしたいっていう気持ちが強いんだと思う。だから、将来結婚して子供を産むかもしれない金子ちゃんに、教訓にしてもらいたかったんじゃないかな」
「・・・、そっか」
「それに、類以の世話も見てくれてるから、私的にはこのまま居てくれたほうが助かるなぁ。それに、1人だったらこんなお話を聴けなかったかもしれないし。色々ありがとね、金子ちゃん」
「いえ・・・、はい」
類以も段々と泣き止み、落ち着きを取り戻しつつあった。ただ、扉が閉められたリビングからは、まだ律の泣き声が響いてきている。
「よし、気晴らしに散歩でも行こう! 金子ちゃんも来てくれるよね」
「はい。もちろんお供します」
荻野は類以のことをベビーカーには乗せず、あえて抱いたままの状態で外に出た。綺麗な薄雲が広がる空。梅雨空が広がっていたここ数日間、ろくに顔を見せなかった太陽の陽気に誘われて、金子は大きく身体を伸ばす。
「私、将来は結婚したいって思っているんです。もちろん子供も欲しいなって。でも、今の私には子供を育てられる自信がなくて。だから相手を探すことも躊躇ってしまって。ただ、日和さんの話を聞いてから、育てられる自信が産まれれば子供をつくればいいのかなって思ったんです」
「うん」
「もちろん年齢のこともありますけど、最悪、身寄りのない子供を育てるのでもいいのかなって。これ以上、類以君のような子供を増やさないために。だから、私も新たな歩みを踏み出そうかな、と」
「うんうん。私は金子ちゃんのこと応援するよ」
「はい! 応援してください!」そういう金子の瞳は希望に満ち溢れ、キラキラと星のように輝いていた。
30分ほど辺りを散歩して、再び柄本の家の前に戻る。呼び鈴を鳴らし、「荻野です」と名乗る。日和が「今行きます」と言ってから数秒後、玄関の扉が開いた。
「すみません、お待たせしました」
日和の腕には、服を着替えた律が抱かれている。その背中はか弱くて、他人の子供でもつい守ってあげたくなってしまう。
「全然大丈夫ですよ。律君は落ち着きました?」
「だいぶ。どうやら甘えたかったみたいで」
「あ、なるほど」
「類以君も落ち着きました?」
「はい。一時的に不機嫌になったみたいで。もう今はすっかり。お騒がせしてすいません」
「いえいえ。お互い様ですから。ふふ」
「ですね」
荻野は類以の顔を日和に見せる。すると日和はニコッと微笑みかけた。
「律を抱いたままになるんですけど、話の続きをさせてもらってもいいですか?」
「はい。ぜひ」
靴を脱ぎ、再びリビングに入る。ついさっきまではベッドの横にあったはずのサルのぬいぐるみが、今はソファの上でグデッとしていた。まるで酔い潰れたおっさんみたいに。
「あ、お茶入れ直しますね」
「ありがとうございます」
二人は軽く会釈して、椅子に腰かける。机の上に置かれている造花のアレンジメントに、短い腕を伸ばし、何かしようとする類以。荻野は類以のことを抱え直し、「触ったら駄目だよ~」と優しく言いながら腕を握る。
「類以君、意地悪したら駄目だからね」と金子が目の前から、落ち着いたトーンで注意すると、「あー」と言いながら手を挙げる。荻野と金子は見つめ合い、うふふと笑い合う。
しばらくして戻ってきた日和。お盆から降ろされたガラスコップの中で2つの大きな氷が弾ける。律以を抱いたまま椅子に座る日和。そして、自然な流れで語り出した。
「私は錦と出会うまで、結婚する気も子供を産む気もありませんでした。でも、ある日訪れた写真館で、どこかかったるい感じで働く錦を見て、この人とだったら将来幸せになれるかもしれないって持ったんです。面白いぐらいに、恋の直観がビビッと反応したんですよね」
「えっ、それがお二人の出会いだったんですか?」手を口元に持っていく金子に、フフッと笑いながら、「そうなの。当時と今とが違い過ぎて、そばにいる私もびっくりしてる」と言う。
「付き合って四年目でプロポーズされて。私は子供が2人欲しかったので、錦にお願いして、すぐに子供づくりに取りかかったんです。そのときは将来に希望しか抱いていませんでした。錦と私と産まれてくる子供で幸せになるんだって。でも、ある日を境にその希望を失ったんです」
ごくりと生唾を飲む。日和の目は悲しそうなのに、どこか力強い。そんな眼差しを律に送る。
「幼馴染が、私より2か月前に子供を産んだんですけど、子供の父親と連絡が取れなくなったみたいで、彼女は子供を自分だけでは育てられないから、可哀想だけどって言いながら施設に預けたんです。私はそのとき一緒に居たんですけど、それを見てから急に子供を産むことが怖くなって。もうすぐ我が子が産まれてくるっていうのに」
律の頭を優しく撫でる日和。気持ちよさそうに目を閉じて、ふっと微笑んでいる。
「もしかしたら、私と錦の意思の違いで産んだ子供に辛い思いをさせてしまうかもしれないっていう恐怖心から、律にちゃんと向き合えなくなって。そのことを泣きながら相談したとき、錦が『俺はソイツとは違って逃げない。産まれたら責任もって世話をする』って断言したんです」
「えっ」荻野と金子は声を揃えた。その反応を見た日和は控えめに笑う。
「そうなりますよね。流石の私も驚きました。出会った頃は子供が嫌いだって言い張っていたのにって。でも、実際に生まれてきた律を見た錦が、『2人で守っていこう』って言ってくれて。そのとき私は家族で楽しい思い出をたくさん作るんだって、そう心に誓い直したんです。私が辛い思いをしてきた分、律には明るく、正しく生きて欲しいなって思ってます」
荻野は静かに2、3回頷いた後あと、日和と視線を合わせる。
「だから、荻野さんは無理して職場復帰をしなくていいと思うんです。類以君と思い出を作ってあげてください。荻野さんは槙野さんという素晴らしい旦那さんと、ミサちゃんというお世話上手な彼女がいるんです。子供はあっという間に成長しちゃうから、今しかない時間を存分に楽しんでください」
日和の目からは一筋の涙が零れていった。それを服の袖で拭うその動きはしなやかで、華があった。
柄本が仕事と買い物を済ませて帰って来るまで、話は尽きなかった。共通の趣味があるわけでも、似たような性格でもないのに、なぜか馬が合う。まるで昔からの知り合いだったみたいに。そして、この仲はさらに深まっていく。
柄本夫婦に手を振られながら、荻野と金子、類以の三人は帰路に就く。オレンジ色に染まっていく空。電線にとまっていたカラスが、まるでおじさんの心の叫びのような濁声を響かせながら滑空していった。その様子を、類以は面白そうに笑う。荻野と金子もニコニコとしながら類以と会話を交わす。平和な時間がただただ流れていく。
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