第8話

 7月最初の土曜日。梅雨明けしておらず、まだまだ雲行きも怪しい中、荻野と類以はある場所へ出かけるべく準備していた。ただ、類以は朝から不機嫌で、何をするにも時間を要していた。


「類以~、そろそろ着替えてよ~」

「んん~!」

「出かける時間になっちゃうよ~」

「ん! んっ!」

「類以、もしかして行きたくないの?」


こくりと頷く類以。言葉の意味を理解しているのかどうかは別として、色んな「ん」だけを発し、頑なに断り続けた。


「もしかして類以君、ご機嫌ナナメですか?」そう言ってテレビの電源を入れる金子。

「うん。今日はいつにも増して頑固だね。ぜーんぜん動いてくれない」

「何なら私が類以君の機嫌直しましょうか?」

「え?」

「まだやることあるんですよね? 準備とか色々」

「うん。ある」

「なので、私が類以君の面倒見てますから、その間にパパっとやっちゃってください。今日は大事な日なんですから」

「ごめん、ちょっと任せちゃっていい?」

「もちろんです! えっと、この服に着替えさせたらいんですよね」

「そうそう」

「分かりました」


 荻野は類以の世話を一旦金子に任せ、自分の身支度に急いで取り掛かる。


金子は類以の機嫌を取り戻すために励む。


「類以君、着替えないとパパとママとお出かけできないよ?」

「ん」

「ん、だけじゃ類以君の気持ちが分からないんだけどな~?」


そう金子が言うと、類以は小さな手でぐしゃぐしゃになっている服を掴み、「ん~!」と叫ぶ。


「あっ、もしかして今日はこの服の気分じゃない?」


服から手を離すと同時に、類以は大きく縦に首を振る。


「そっか。じゃあ、違う服にしようか」

「ん」

「よーし、選びに行こうっ!」


 金子はフローリングに座っていた類以を抱き上げて、そのまま三階まで階段を駆け上がる。そして、部屋にいる荻野に声をかける。


「本当は広げられると困るけど、うん。嫌って言うなら仕方ない! 好きなの選ばせてあげて」

「分かりました。極力気を付けます」


金子は一着ずつタンスから取り出して類以の目の前に並べると、着る予定だった車がデザインされたものから一転、一番無難な緑色無地の半袖を選んだ。普段なら選ばない一着で驚く荻野だったが、行き先を考えての服を選んだようで、思わず関心してしまう。


「類以君、早速着替えようね」


着古した部屋着を脱がせ、選んだ服を着させる。その間、ご機嫌な様子でニコニコし続ける類以。荻野は着替えながら金子に、「ありがとう、助かった」と声をかける。金子は「いつでも頼ってください!」と自慢げに答えた。


 出発の時間まで残り7分のタイミングで、部活動の指導を終えた槙野が帰宅。ジャージー素材の服を急いで脱ぎ、襟付きシャツに着替え、帰宅から程なくして3人は目的地へと向かって出発した。購入したばかりの中古車に乗って。


 目的地までは、順調にいけば1時間半かかる。類以がいる状態で、ここまでの距離を走らせるのは初めてのことだった。ファミリーカーと呼ばれるタイプの中古車の乗り心地は思いのほかよく、類以に至っては搭乗して早々に瞼を閉じ、数分後には寝息を立てて寝始めていた。


運転席に座る槙野。槙野の顔がよく見える後部座席に座る荻野。2人の表情は少し硬く、緊張感に包まれている。


「私と類以のこと、受け入れてくれるかな」

「うーん、受け入れて欲しいけど、簡単にはいかないかも。俺の親父は厳しい男だし、母さんも自分の深淵をそう簡単に曲げるような人じゃないからなぁ。それに、どんなことでも納得するまで追求してくるから。罵倒されて、打ちのめされるかもしれない」


そう言ってフッと息を吐いた槙野。心配そうな表情をする荻野に、「でも、誠心誠意を伝えればきっと分かってくれるはずだから」と声をかける。実際問題どうなるか見当もつかない。イチかバチかの賭けに出る気分だった。


「茉菜はおれの妻として堂々としてて。親父や母さんに何を言われても必ず守る。もちろん類以のことも」


槙野の闘魂は燃え続ける。「よろしくね」荻野はハンドルを握る槙野に優しく声をかけた。


 午前1時半。槙野の実家に着いた。2台分の駐車スペースに車を停める。


「遅れちゃったね」

「仕方ないよ。大丈夫。そのこともちゃんと謝るから」

「うん」


道中で類以が突然泣き出し、落ち着かせている間に時間は刻々と進み、結局、到着予定時間よりも30分近く遅くなっていた。遅れることは事前に連絡済みだが、槙野の母からは「待ってる」と一言返信があるのみだった。


「よし、行こうか」一抹の不安を抱えながら降車し、鍵を閉める。自力歩行をまだしてくれない類以をベビーカーに乗せたまま数歩進み、外壁に付けられたインターホンを押す。


庭に植えられた草花が湿度を纏った風にに吹かれて揺れる。母が手入れした花壇には、あでやかな色をした花々が咲き揃っていた。


1度目の呼び鈴には反応が無かった。もう1度押そうと指を伸ばしたとき、「はい」と低く落ち着いた声がインターホン越しに聞こえた。それは、槙野の父親の声だった。


「ただいま戻りました。猛です」

「なんだ、猛か。開いてるから入って来い」

「はい」


 インターホンでの通話を終えた槙野が、荻野に手で指示を出す。それは、この場で待っていて、というものだった。「分かった」荻野はそう静かに答える。


槙野は玄関へと続く5段の階段を上り、扉のノブに手を掛けた。

「ただいま戻りました」そう声をかけながら家の中へと入る槙野。濃いグレーの雲の隙間から太陽が恥ずかしそうに顔を出す。ベビーカーを握る手は汗ばんでいくばかりだった。

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