第6話
6月24日、荻野は類以を連れて柄本の自宅を訪ねた。空気が全体的にジメっとしていて、じんわりと滲む汗が衣服と肌を嫌な感じで貼りついていく。
荻野に誘われて一緒に付いてきた金子。玄関の扉を開けた柄本の変わり果てた姿を見て目を真ん丸とさせ、言葉にならないと言った様子で驚きの表情を浮かべていた。そんな金子のことをみて、たまらず柄本は吹き出すように笑い出す。それに金子と荻野も面白くなって、ともに笑い声をあげてしまった。
「今日はわざわざ来てくれてありがとな。外暑いだろ、早く上がりなよ」
「お邪魔します」
ベビーカーから降ろされた類以。金子が抱き上げるその瞬間に、柄本のことを瞳で凝視する。
「こんにちは。また会ったね、類以君」
類以はそこまで人見知りをするタイプではないが、かといって積極的なタイプでもない。心を開けば人が変わったぐらいに前のめりになる。
ただ、類以は「あー」と言うだけで、それ以上も以下もなかった。2回会っただけではまだ心を開かないのも当然か、と荻野は笑った。
玄関からまっすぐ伸びた廊下の先にある扉が開いた先に、柄本の妻と息子がいた。女性は穏やかそうな見た目で、柄本とはタイプが180度違うように思えた。
「こんにちは」
女性は顔つき同様、おっとりとした喋りかたをする。でも、品のある声質だった。
「こんにちは」
「柄本錦の妻の
「荻野茉菜です。こちらこそ、柄本さんにはお世話になりました」
フフッと柔らかな笑顔を浮かべる日和。目尻にできる皺が人柄を表しているように見えた。
色目が茶色で統一されたリビングに置かれたベビーベッド。中には小さな男の子が寝ていた。水色のタオル生地の布団を小さな指先で握っている様子が可愛いらしい、ぱっと見は女の子に見える子供だった。
「すいません、食後の眠気に勝てなかったみたいで・・・、タイミング悪いですよね」少し申し訳なさそうに笑った日和に、荻野は手を振って「そんなことないですよ」と優しく微笑んだ。
「寝ちゃってますけど、息子の
「そうなんですね。律君、初めまして。今日はお邪魔しています」
荻野は小声で挨拶をする。ベッドの中で律は微笑み、幸せそうな表情を浮かべた。
日和は、まだ金子の腕の中で抱かれたままの類以に視線を移す。
「あ、もしかして」
「はい。息子の類以です。今、1歳1か月です」
「類以君、初めまして」
金子は類以の顔を日和に向けて、類以が話せない代わりに「はじめまして」と、少し声色を変えて言う。ただ類以は無反応で、空気に耐えられなくなった金子は「すみません、ハハッ」と苦笑いしながら、自分の声色で話す。
「自己紹介が遅れてすみません。金子ミサです」
「ミサちゃん、初めまして。日和です。よろしくね」
「よろしくお願いします」
そんな自己紹介を交わしたタイミングで「三人とも固まってるね~」とと言いながらリビングに入ってきた柄本。手にはお盆が持たれていて、その上にはお茶が入ったガラスコップが3つ置かれている。
「それは仕方ないじゃないですかぁ。だって初めましてなんですよ?」
金子がそう言って口を尖らせると、柄本がニコッとする。
「日和、言った?」
「ううん」
「どうしたんですか?」
「実はね、日和は荻野さんと同じ年なんだよ」
「えっ、そうなんですか!」
「はい。一緒なんですよ」
同じ年齢だと知って、どこかホッとした荻野。日和は自分より大人びていて、年上に見えていた。
「日和、お茶ここに置いておくから」
「うん。ありがとう」
「荻野さんも、金子さんも遠慮なく飲んで。お茶しか出せなくて申し訳ないけど」
「全然。気にしないでください」
「ありがたく、飲ませていただきます」
「あ、そうだ。あの、これお口に合うか分かりませんが」荻野が持ってきた茶菓子を手ぶらになった柄本に手渡す。
「えっ、いいの?」
「はい」
「ありがとう」
「お気遣いいただいてありがとうございます」
「いえいえ」
なんとなく落ち着いてきたところで、柄本はソファに置いてある黒のリュックサックを背負い、日和に話しかける。
「ちょっと俺やることあるから、仕事行ってくる。ついでに買い物してくるから」
「ありがとう。買い物助かる」
「すいません、なんか忙しい時に来ちゃいましたよね」
「気にしないでよ。俺が勝手にやりたいことしに行くだけだから。だからさ、三人で女子トーク楽しみなよ」
「ありがとうございます」そう言って荻野と金子は揃って頭を下げる。
類以は見慣れない部屋だからか、頭を左右に動かし、何か観察しているようだった。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「はいよ」
自宅をから出て行った柄本。リビングには同じ年齢の女性二人と、少し年下の女性、1歳の男児と4か月の男児という、少しだけほんわかした空気感が流れ始める。
「今日はお誘いいただいてありがとうございます」
「いえいえ。錦からいろいろとお二人のことを聞いてて、実際にお会いしたかったので」
「そうなんですね」
「こちらこそすいません。錦が勝手なこと言ってしまって」
「気になさらないでください。私も日和さんと律君に会えて嬉しいですから」
同じ年齢だが、荻野は日和に敬語で話す。教師時代の名残なのか、癖が抜けない。一方の類以は金子の膝の上に座って、静かに律のほうを見ている。
「あの、お会いしてすぐにこんなこと言うのは本当に失礼だと思っているんですけど」
日和は咳払いし、表情を曇らす。
「類以君のこと、錦から聞いてます」
「え?」
「捨てられていたんですよね。シェアハウスの敷地内に」
荻野はハッとした。鼓動は無意識のうちに早くなっていく。
「捨てられていたなんて、言いかたが失礼なことは重々承知しています。でも―」
「いいんですよ。それが現実ですから」
ことの重さに気付いたのか、類以は金子に抱きついたまま離れようとしない。
「我が子を捨てるなんて、どんな気持ちなんでしょうね」
「私たちには分からない苦労があるんですよ、やっぱり」
「茉菜さんって、中学校の教員のお仕事をされていらっしゃるんでしたっけ?」
「はい。今は退職しているので無職なんですけどね。ですけど、そろそろ仕事もしないとなって思ってます」
「お仕事しながら類以君を育てるなんて大変じゃないですか?」
「そうかもしれないです。でも、私は周りに迷惑をかけたくないから、早く仕事に戻りたいんですよね」
荻野が愛想笑いを浮かべる余所で、日和は全く笑っていなかった。どちらかと言えば能面みたいな顔をしている。そして、こう呟いた。「まだ戻らないほうがいいと思いますよ」と。
荻野にはその意味が分からず、「どうしてですか?」と軽い気持ちで聞き返す。すると、日和はリビングに飾られた1枚の写真に視線を送った。同じように荻野と金子も視線を遣る。そこには、小さな女の子と、その子の横で微笑む男性と女性が写っていた。
「真ん中にいるのが私で、隣が両親なんです。私の母は小学校の先生で、父は保育士の仕事をしていました。でも、父は私が小学1年生のときに亡くなりました。当時まだ私が小さかったからか、なぜ父が突然死んだのか、本当の理由は教えてくれませんでした。だけど、何となく分かるんです。あの頃、父は仕事で毎日忙しそうにしていましたから」
暗い表情のまま語る日和。荻野は何も言わず、ただ静かに話しに耳を傾ける。
「母も学校の仕事が忙しかったみたいで、全然私の相手をしてくれませんでした。忙しそうにしていることぐらい、子供の私でも分かってたので、甘えることなんてできなかったんです。本当は寂しかった。周りの子たちは両親と色んな思い出を作っているのに、私は・・・って」
言葉を失った。なんて声をかけてあげればいいのか、見当もつかない。その一方で、金子は自由気ままに動く類以の相手をしながら、日和の話に耳を傾けていた。
「父が死んだあと、母が女手一つで私のことを育てようと毎日仕事と子育てを頑張ってくれていたんですけど、ある日体調を崩して、私のことが育てられなくなったんです。父方の祖父母は、私が産まれてすぐに病気で亡くなっていたので、頼れる状態ではありませんでした。母方の祖父母は自分たちの娘の世話があるから、私のことまでも面倒を見ていられないと言われ、結局施設に預けられました。だからなんですかね。両親と一緒に暮らせない子供の気持ちが、痛いぐらいに分かるんです」
知らず知らずのうちに荻野は泣いていた。瞳から涙がスーッと落ちていく。日和はどこか寂し気に、窓の向こう、晴れ渡る空を眺めていた。
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