第5話
誕生日の翌日以降も、荻野は普段通り類以の世話をして過ごしていた。その一方で、荻野はあることだけを考え続けている。そんなとき、絶好のタイミングが訪れようとしていた。
22時40分、槙野がお風呂から出てくるのを、音を立てないようにベッドの上で待ち続けた。既に寝ている類以は、少しだけ大きくなった身体を伸ばし、両手を挙げて熟睡している。そんな類以の甘い寝顔を見て、自然と笑みがこみ上げてくる。
「類以、弟か妹、つくってあげるからね」
類以を起こさないように、そっと頭を撫でる。伸びてきた黒髪が掌に当たって気持ちいいけれど、どこかこそばゆい。そろそろ散髪のことも考えなければ。
ドアが静かに開く。
「あれ、まだ寝てなかったの?」
シャワーで濡れた槙野の黒髪は、廊下の灯りに照らされて艶めいている。
「うん。ちょっと話したいことがあってね」
「話したいこと?」
「うん」
荻野はベッドから降り、類以からは距離を取り、槙野の耳元で囁くようにこう言った。「ねぇ、猛。私からお願いがあるの」と。すると槙野は「何?」と、頭を少しだけ傾けて呟く。
「子供、欲しいの」
「おう・・・、っえ」
動揺しているのか、髭の伸び具合でもチェックしているかのように、口元や顎を手で何度も触り始める。
「前に猛が言ったでしょ? 私と猛との間に、血の繋がった子供が欲しいって」
「言った。言ったけど・・・、でも」
「あれ、もしかして今じゃなかった?」
「ううん。全然、そんなことないよ」
「じゃあ、どうして?」
「まさか、本気になってくれるとは思わなくて」
「え、私が猛のお願いを叶えないとでも思ってたの?」
「いや、それは語弊があるっていうか・・・」
首にかけているタオルで顔面を拭う。明らかに焦っている様子を見るのは久しぶりで、自分までもが恥ずかしくなって、頬が自然と熱くなる。
「猛、今月の20日、一緒にホテル行こうよ」
「20日って、茉菜の誕生日じゃ―」
「そうだよ。え、何か問題でもあるの?」
「いやいや、ないけどさ。え、逆にいいの? 大切な日なのに」
「大切な日だからこそ、2人の時間を過ごしたいんだよ。それに、今年の誕生日プレゼントは、猛との初めてがいいの」
そう言った瞬間に、荻野の顔に近づいてくる槙野の顔。頬に不意打ちのキスをした。荻野の耳は真っ赤に染まる。そのまま槙野のベッドに倒された。その振動がマットレス越しに跳ね返ってくる。耳元で聞こえる槙野の吐息に、荻野はそっと目を閉じた。
そして、約束の日はやってきた。梅雨時の空模様は安定せず、雨が降ったり止んだりを繰り返している。この日は土曜日で、仕事が休みの金子は朝から料理を作り、仕事に行くわけでもないのに百井は朝から忙しなく動き回っていた。槙野は顧問をしている部活の練習終わりに、昔からあるケーキ屋に寄ってから、早々に自宅へ帰ってきた。
13時過ぎ。金子の歌を合図に茉菜の誕生日パーティーが始まった。テーブルの上には金子が作ったお祝い用のメニューと、槙野が買ってきた1ピースずつ4種類のケーキと、類以用のケーキが並べられ、五人は二時間近くパーティーを楽しんだ。
「金子ちゃん、今日は料理作ってくれてありがとう。美味しかったよ」
「いえ。お口に合ったようで、嬉しいです」
「あと、プレゼントもありがとう。大切にするね」
「はい」
「百井さんも、プレゼントありがとうございます」
「気にしないでください! あ、私の誕生日は10月23日ですからねっ。期待してますよ~」
百井夢花。お返しがあることを期待してプレゼントを渡してくるなんて。どこまで図々しい女なんだ。その言葉自体を、唾と一緒にゴクリと飲み込む。
「あ、はい。ちゃんと百井さんのことを考えて用意させていただきます」
「ありがとうございますっ! フフッ」
鳩時計の針は15時20分を指している。そろそろ家を出なければ。
「猛、片付けをしたら出ようと思ってるんだけど」
「分かった。その前に着替えてくるから」
「はーい」
部活用の荷物が入った鞄を抱えて、足早にリビングを出て行った槙野。
「申し訳ないんだけど、片付け手伝ってくれませんか?」
食器の後片付けをしようと荻野が声をかけたが、百井はそう聞いた途端、ソファの上に置いてあった小さなピンク色の鞄を手にして、「用事があるので、少し留守にしますね」と、首を少し右に倒して言う。正直驚いた。百井が外出することは誰も聞いていなかったから。
「あ、じゃあ―」
「ごめんなさい」
そもそも謝る気すら無さ気な態度が癪に障る。
「百井さん、夕ご飯はどうしますか?」
荻野のことを気にするように、代わりに話しかける金子は荻野のことを手伝う気満々で、服の袖を捲り始めていた。
「食べてくるから、用意しなくてオッケーだよ。気遣ってくれてありがとね」
「分かりました」
「じゃあ、お先に出まーす」
「いってらっしゃい」
笑顔で送り出す金子を見て、自分の精神の幼さに気が参る。
「荻野さん、早くやっちゃいましょ」
「そうだね」
類以を遊び場のスペースに座らせ、キッチンから目を配りつつ洗い物を進める。以前よりも家事に対するスキルを上げた金子。将来はきっといいお嫁さんになると、荻野は1人想像し、ニヤけた。
片付けが終わるとほぼ同時に降りてきた槙野。今から宿泊施設に行くとは思えないほど爽やかな格好をしていて、普段見られない一面に少しだけ頬が赤く染まる。
「金子ちゃん、類以のことよろしくね」
「はい。明日には戻られるんですよね?」
「そう。ごめんね、我儘言っちゃって」
「何言ってるんですか~。誕生日の今日ぐらいゆっくりしてきてください!」
「ふふっ。ありがとうね」
金子は首を横に振る。類以は遊び場からこちらに視線を送る。どこか不安そうな瞳をしていた。
「あっ、もし何かあれば連絡してね。すぐ飛んで帰るから」
「はい。分かりました」
「じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃいです!」
類以はこの家に来てから初めて、父親、母親、二人ともいない夜を過ごす。いないことでどんな感じになるのか全く想像ができないままに、金子に類以の世話を押し付けた。
でも、これはすべて槙野との間に血の繋がった子供を、類以に弟か妹をつくってあげるための営みなのだから仕方ない。うまくいけば四人で幸せになれる。いや、幸せになってやるんだ。そう心に誓う。
夫婦は結婚して初めて、家ではない場所で泊まった。いつもと違うベッドルームで、愛用している枕ではないからか、荻野はあまり熟睡できなかった。一方の槙野は馴化するスピードが速いのか、単なる寝不足なのか、睡眠環境が変わろうが寝られるタイプだった。
二人とも初めての経験にしては、互いにうまくいったと思った。槙野の情熱を間近で感じられて興奮した。一夜にしては刺激的で濃い時間を過ごした夫婦。窓からは燦燦と輝く太陽の光が届く。明けない夜はないように、夫婦にも明るい未来が訪れるはずだと信じて、荻野は槙野の頬にキスをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます