第4話

 夕食時間帯に合わせて予約しておいた和食屋の引き戸を開ける。中からは「いらっしゃいませ」と割烹着姿の可愛らしいお婆さんが出迎えた。


「めぇさん、こんばんは」

「あら、こんばんは」

「今日、お客さんは?」

「うふふ。貸し切りにしてあるのよ」

「えっ、貸し切り、いいんですか?」

「あぁあ、いいのいいのぉ。先客さんが奥の個室でお待ちですよ。さぁどうぞぉ」

「ありがとうございます」


先頭を歩くめぇさん。白髪頭に赤色のかんざしを付け、五十度ぐらいに腰を曲げ、ゆっくりと前に進んでいく。


「猛、あの方って?」ベビーカーを押しながら槙野に小声で尋ねる。

「料理長のお母さんだよ。めぐみさんって言って、年齢は確か80ちょっとだったかな」

「80歳・・・。あ、もしかして、お名前がメグミさんだから、めぇさん?」

「そそ。行きつけのお客さんはみんな『めぇさん』って呼んでる」

「そうなんだ。可愛らしい愛称だね」

「うん」


 予約していた時間よりも10分も早く到着してしまった三人。先に来ていた金子によってセッティングされた個室には、料理長自慢の特別メニューがテーブルいっぱいに並べられていた。


「お疲れ様、金子ちゃん」

「お疲れ様です。あ、そう言えば、料理長さんが、もう一品特別メニューがあるからお楽しみに、って言ってました」

「そうなんだ。楽しみだな」


 荷物を降ろしたり、類以の衣装を直したりしていると、部屋の奥から独特のリズムで刻まれる足音が聞こえてきた。その数秒後、襖の隙間から恰幅かっぷくのいい男性が一人、大皿を持って立っていた。


「料理長」

「よぉ、槙野。今日は予約してくれてありがとなぁ」

「いえいえ。こちらこそ、貸し切りにしていただいたみたいで、ありがとうございます」

「気にしないでくれよ。槙野の息子さんの記念すべき日なんだからよぉ」

「ありがとうございます」


料理長は大皿をテーブルのど真ん中に置く。類以でも食べられる食材で作られたお寿司風ケーキだった。


「これはお店からのサービスな。代金には含んでないから安心しろよ」

「え、でも・・・」

「いぃの。こうやって赤ちゃんの誕生日会をお店でやってくれる人なんていないからさ、思わず嬉しくなってやっただけだから」

「すみません。ありがとうございます」


槙野と荻野は深々と頭を下げる。遅れて金子も頭を下げる。


「槙野、その綺麗な女性が奥さんで、小さいのが息子か」

「はい。妻の茉菜と息子の類以です」

「っとなると、その見るからに天真爛漫そうな子は?」

「彼女は、同じシェアハウスに暮らしてる金子ちゃんです」

「おーほほっ。住人みんなでお祝いか。いいなあ」

「騒がしくなっちゃったら、すいません」

「ガハハッ、いいじゃねぇか。楽しんでくれたほうが料理も喜んでくれるからよ」

「はい」

「んじゃぁ。一生の思い出作ってくれ」

「はい。ありがとうございます」


 襖を閉めて出て行く料理長。その人柄の良さに触れた荻野は「やっぱりこのお店でよかったね」と言う。


「だな」

「猛、ここに連れてきてくれてありがとう」

「礼なら言わなくていいよ。代わりに料理長とめぇさんに伝えてあげて」

「ふふっ。そうね。後でもう一度お礼伝えるね」

「あぁ」


 店に来てから30分近く経過したタイミングで合流してきた百井。遅れたことについてのコメントはなく、しれっと料理に手を出しては「美味しい」「これ私の好きな味だ」などと勝手に興奮する。そんな百井に対して何も言及しない三人。類以をお祝いすることを目的としているため、1人で楽しそうにしている百井のことは放っておくことにした。これ以上、邪魔をされたくない気持ちのほうが強かった。


 1歳のお祝い時にする一連の儀式を行って、楽しい時間を過ごした。類以は疲れているはずなのに、一度も嫌がったり泣いたりすることなく、常にくしゃくしゃの笑顔でいた。「類以君は将来大物になるかもしれないですね」と金子が発した何気ない一言に突然涙を流し始めた荻野。嬉しくて泣いたのは初めてのことだった。


類以の朝食を作るときから食事会を終えて家に帰って来るまで、ジェットコースター並みの感情の乱高下に伴い、泣き笑いした1日だった。そんな今日も終わりが近付いている。


 類以にとっても夫婦にとっても初めて迎えた1歳の誕生日は、特に大きな問題もなく無事に幕を下ろした。槙野と荻野は、子供用のベッドで眠る類以の寝顔を見ながら心からの笑みを零す。


「今日はお疲れ様」

「猛も、お疲れ様。色々とありがとね」

「うん。茉菜もありがとう」

「ううん。金子ちゃんにもお礼言わないとね。色々気を遣わせちゃったし」

「そうだな。今度、金子ちゃんが好きな料理でも作ってあげるかな」

「そうだね」


槙野が類以の頭を優しく撫でる。


「来年も、再来年も、類以の誕生日を一緒にお祝いしような」

「当たり前でしょ?」荻野は悪戯に笑う。


「来年はどこのお店を予約するかな」

「食べられる物も増えてくるから、選択肢が広がりそうね」

「そうだな。類以はどんな感じに成長してくれるんだろうな」

「きっと人思いの優しい子に育ってくれるよ」

「どうしてそう思うの?」

「だって、今日の食事会では1回も泣かなかったし、カメラを向けられてもずっとニコニコしてたんだよ?」

「まあ、そうだったな」

「寝て欲しいって思ったときには既に寝てることもあるし、好き嫌いもしないで、作った料理は全部食べてくれるし。こういうところ見てたら、私とか猛に迷惑をかけないようにしてくれてるのかなって思っちゃうんだよね」


 類以は両手を挙げて熟睡している。やはりハード過ぎたか、と少し笑う槙野。荻野は微笑むことしかできなかった。


「類以がどんどん成長してくれてるのは嬉しいんだけどね。でもやっぱり、赤ちゃんの時期ならではのことって言うのかな、そういうのがあんまりないからさ、もっと手を焼いてくれても、迷惑かけてくれてもいいよって思うぐらいなんだよね」

「確かに。類以は扱いやすいというか、全然手がかからないよな」

「そうなの。ここまで順調だと逆に心配になっちゃう」

「そうだよな。初めての子育てだから、俺もどこまで介入していいのかがな・・・。まあ可愛がることは当然のことだけど」

「ふふっ。そうよね」


しきりに黒目をキョロキョロと動かす槙野。「猛、何かあったの?」と顔を覗き込むようにして尋ねる。


「ああ、いや。別に・・・」

「困ってることがあるなら言ってよ。私でいいなら訊くよ?」


荻野の優しい瞳に吸い込まれるようにして、槙野は口を開いた。それは、今までずっと黙っていた本音だった。


「俺さ、ずっと思ってきたことがあるんだ」

「え、何々?」

「類以とは戸籍上は親子関係にある。でも血は繋がってない」

「・・うん」

「だからさ、俺、茉菜との間に血の繋がってる子供がいてもいいんじゃないかって思ってるんだ」


何だそういうことか。とはならなかった。槙野が吐露した思いに、すぐには答えが出せない荻野。


「猛の気持ちも充分わかるよ。でも私はね、今は類以の成長だけをもうちょっとだけ近くで見守っていたい。だから、今はごめん。猛に気持ちに応えられそうにないや」


こう言うしかなかった。


槙野は納得したのか分からない絶妙な顔で、小さく頷く。


「そっか。俺のほうこそ茉菜のこと考えずに言って悪かった。ごめん」

「ううん」

「俺は茉菜がいいなら、いつでもいいから。茉菜の気分に合わせるから」

「ありがとう」


 夫婦になったとは言え、荻野と槙野は一度もやったことがない。二人とも童貞のまま結婚。お互いに愛し合ってはいるが、人前でイチャイチャすることが苦手なため、キスも、手を繋いで歩くことも、まだやったことがない。積極的にやりたいと思うことがなかった。今までは。でも、類以が1歳の誕生日を迎えたことを機に、考え直したほうがいいのかもしれない。


夫婦の間にもう1人、今度は血の繋がった子供を。


「俺たちもそろそろ寝るか」

「そうね。猛は明日仕事だもんね」

「うん。しかも1限から授業」

「じゃあ早く寝ないとじゃん」

「だなッハハ。じゃ、おやすみ」

「おやすみ」


 布団を首元まで被って寝始める槙野。その横のベビーベッドで寝る類以。二人の姿を見て、もう1人子供がいる未来を想像した。そこには満面の笑みで子供を抱く夫の姿と、下の子を見て幸せそうに笑う息子の姿がある。この瞬間、荻野は類以にいつか妹か弟をプレゼントできるようにしたいと思った。

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