第3話

 朝食を食べ終えて三十分。槙野と荻野は近所にある写真館へ向かうための準備に取り掛かる。予約している時間まで残り四十分。少し慌ただしく動かなければ間に合いそうにない。そんな中で類以は呑気にぬいぐるみを抱いて、大人たちの動向をチェックする。


「茉菜、ネクタイ何色が良いと思う?」ソファの背もたれに掛けられている何本ものネクタイ。シンプルなものから柄付きのものまで、様々だった。


「そのスーツなら何色でも合うと思うけど、類以と合わせるなら寒色系じゃない?」

「分かった。って、類以が着る服の蝶ネクタイって何色だっけ?」

「緑だよ。ちなみに、私の着るセットアップは淡いブルーだから」

「分かった。二人に合わせる」


 そんな会話をリビングで繰り広げながら、留守番を任された金子が二人に代わって類以に衣装を着せる準備をする。「類以君、ぬいぐるみ置いてくれる?」指示に従う。「偉いね。じゃあ、この服に着替えよう」初めて袖を通す服だったが、特に嫌がることはなかった。


「金子ちゃん、類以の着替え順調?」

「はい。もう終わっちゃいました」

「早いね、さすが」

「いえいえ。類以君が私の言うことを聞いてくれるから、スムーズに着替えられただけですから」

「そう? なら良かった」

「着崩れしないようにしないとですね」

「だね」


 初めてのスーツ姿に着替えされられた類以は、金子に抱かれてベビーカーに移される。荷物を入れたリュックサックを背負う槙野は髪の毛もワックスで整え、いつにも増して清潔感が溢れている。一方の荻野は普段見慣れないセットアップ姿で、肩にかかるぐらいの髪の毛を一つにまとめていた。薄めの化粧だったが凛としていて、華やかさを増している。


「じゃあ、そろそろ」

「はい。いいお写真撮ってきてくださいね!」

「うん。行ってくるね」

「はい。お気をつけて行ってらっしゃい!」


 晴天に恵まれて、太陽は燦燦と輝いていた。類以はお気に入りのサメのぬいぐるみを手に持った状態で、ベビーカーの中で楽しそうにしている。最初は写真館に行く前に着崩れてしまうのではないかと不安だったが、移動中に思いのほか暴れまわらず、到着時には少し蝶ネクタイが曲がっていただけで、金子が着せた状態を保っていた。


 昔ながらの酒屋が経つ角を曲がったところに、ひっそりと佇むように写真館は建っていた。茶色くて正方形のガラスが格子状に入った扉を開ける。


ガラン


重厚なドアベルの音が鳴った。


「こんにちは」


荻野が誰もいない空間に声をかけると、奥のほうから「今行きます」とやけに威勢のいい返事が届いた。


「お待たせしました」


 奥の扉から顔を出したのは、あのときシェアハウスを出て行ったきり、誰もその所在を把握していなかった柄本だった。柄シャツにレザーパンツ、明るめの茶髪に金色のメッシュが入っていて、なおかつ緩めのパーマをあてているという、1年前とは大違いな風貌をしている。柄本は夫婦と類以を見るなり、険しい表情から一転、表情筋が一気に解れたみたいな笑顔を見せた。


「柄本さん、お久しぶりです」

「お、おう。え、予約してた槙野って・・・」

「はい、フフッ。私です」


照れながら小さく手を挙げる。柄本は目を見開き、そして頬を緩ませて「結婚したんだ」と呟いた。


「はい」

「そうか。なんかお似合いじゃんか」

「ありがとうございます」

「1年の間に変わっちまったな、ッハハ」

「それは柄本さんもじゃないですか?」

「だよな」

「でも、まだここで働いていらしたんですね」

「まぁな」


1年振りに再開したのに、あの当時よりも会話は弾んだ。そんな中で、類以に視線を合わせるようにしてその場にしゃがみ込んだ柄本。ニコニコとしながら話しかける。


「こんにちは」


類以はきょとんとした表情を浮かべていた。


「もしかして」

「はい。飯田さんと柄本さんが見つけてくれた、その子です」

「えぇ。あの時の」


しゃがんだまま槙野に視線を向ける柄本。襟元からはハッキリと浮き出た鎖骨が見えていた。


「類以、改め、槙野類以です」

「ってことは」

「はい。私と猛の子供です」

「そうか。二人の子供になったんだな。おめでとう」


柄本は性格までも変わったのか、口調が柔らかくなっていて、そのことに二人は驚きつつも、素直に「ありがとうございます」と感謝を口にする。首を数回横に振って笑顔を見せた柄本。あの頃からは想像もできないぐらい大人な男性になっていた。


「さぁ、今日の主役には頑張ってもらおうか」そう柄本が言うと、類以は首をコテンッと前に傾けて頷いた。


 それから一時間近く、荻野と槙野、そして主役の類以のことを柄本はカメラの種類を変えたり、アシスタントと共に背景を変えたりしながら、納得がいくまで撮影し続けた。類以は着替えのタイミングで一度だけぐずったが、荻野と槙野よりも柄本のほうが思いのほかあやすのが上手で、類以はすぐに泣き止み、そしていつもの機嫌を取り戻した。


出て行ったときとあまりにも違い過ぎる一面を見て、会っていない間に何があったのかと荻野が尋ねた。すると、以前から付き合っていた年下女性と結婚し、今3か月になる子供がいると言う。


「だから子供の相手をするのが上手なんですね」

「そんなことないよ。このスタジオに来てくれる子供さんをあやしてるうちに慣れただけだよ」


荻野が納得する横で、槙野は眠たそうにしている類以の手を握って、上下に揺らして気を紛らわす。


「でも、柄本さんって以前子供は嫌いだって言ってませんでしたか?」

「うん。あの当時はね。ただ、奥さんが子供つくりたいって言うし、子供と触れ合ってみて、自分の子供がいる生活も楽しいかもなって思うようになってさ。今はもう完全に子供が好きだよ。嫌いだって言ってた昔の自分が嘘みたいにね」


微笑む柄本を見て、荻野は心がほっと温かくなる。そして今日久しぶりに会って改めて感じた。柄本はやっぱり根っからの優しい人物だということを。


「今日撮った写真は現像して後日お渡しする形になるけど、それでもいい?」

「はい。よろしくお願いします」

「うん。あ、できあがったら電話で連絡したいんだけど、予約のときに聞いてる電話番号でいいの?」

「私の携帯ですよね? はい。それでお願いします」

「分かった。できあがりをお楽しみに」

「ふふ、ありがとうございます。待ってます」


 片付け作業に取り掛かる柄本が、類以を抱き上げた荻野に話しかける。


「ねぇ、今度さ、うちの子供に会ってくれない? 妻と息子を紹介させて欲しいんだけど」

「いいんですか?」

「え、何々? 何の話?」

「槙野が良ければさ、今度ウチに遊びに来てよ。もちろん三人で」

「ぜひ、お邪魔させてください」


類以はベビーカーに乗せられるなり、荻野に抱いて欲しいとアピールするように、うるうるとしている瞳で見つめる。荻野は溜息を吐きたくなったが、「一回だけだからね~」と言って、もう一度類以のことを抱き上げる。瞳を輝かせ、嬉しそうな笑い声をあげていた。


「うちの奥さんにも伝えておくからさ」

「ありがとうございます」

「おう。じゃあ、できあがったら連絡入れるから、そのときにでも詳しく」

「分かりました。お願いします」


 満足したという表情を浮かべる類以を再びベビーカーに乗せ直し、降ろしていたリュックサックを背負い、小さな町の写真館を後にする。


三人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた柄本。荻野は、今度は金子を写真館に連れてきて、柄本の変貌ぶりを見せてあげたいと心から思っていた。


 空気は澄んでいて、雲も爽やかな風に乗って右から左へ、ゆっくりと流れていく。類以は慣れない撮影に疲れたのだろう。陽気に誘われるかたちで、ベビーカーの中で寝息を立てている。その手元には、柄本が「ささやかなプレゼント」だと言って渡してくれた豚の小さなぬいぐるみと、飯田がプレゼントしてくれたサメのぬいぐるみがある。どっちも大事そうに小さな腕の中で落とさないように抱えていた。

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