第2話

 荻野が類以を起こしに行こうと階段を上っていると、二階の部分から駆けてきた百井。踊り場で鉢合わせた。左手で髪を整え、右手には茶色の高級ブランドバッグが握られている。


「あっ、荻野さん!」

「おはようございます」

「わー、あの、今って何時か分かりますか?」


腕時計を付けているのに、自分で時間を確かめようとしない百井。荻野は六時三分前だが、どうでもよくて、「六時ですよ」と答える。


「えっ、うっそ! 六時には待ち合わせなのに!」

「え」

「今日は大事な日なのに! あっ、内容は言えませんけど!」


百井はその場で足踏みをする。急いでいるのなら話さずにサッサと出かければいいのに、と荻野は心の中で呟く。


「別に構いません。それと、百井さんのお帰りが何時になるか分かりませんけど、今日の夕方出かけるので留守にすることだけ伝えておきますね」

「あ、それってお食事会ですよね? 私、仕事終わりに直接お店に行くっていう形になりますけど~」


動揺により心臓が強く拍動する。百井を食事会には誘っていなかったのに、どうして今日のことを知っているのか不思議だった。金子にも百井のことは誘わないようにと口止めしておいたはずなのに。


「でも、お仕事があるんですよね? 終わりの時間も分からないって訊いてた気がするんですけど・・・」

「はい。昨日の朝の段階ではそうでした。でも、今日のことをマネージャーさんに話したら、早く仕事から上がれるように調整するって言ってくれたんです。だから行けることになりました! ご心配ありがとうございます!」


別に心配なんかしていない。するつもりもない ―


「いえ。レストランで待ってます」

「了解です! じゃあ、仕事行ってきまーす!」

「はい。お気をつけて」


 百井が階段を下りていく姿を踊り場から見届け、そのまま階段を三階まで上がり、廊下の右側にある部屋に入る。類以はすでに目を覚ましていて、母親が来るのをずっと待っているようだった。荻野の顔を見た瞬間に顔をふにゃっとさせる。


「類以、おはよう」


まだハッキリと挨拶ができるわけではないが、挨拶に答えるかのように、条件反射のように手を振る類以。どんなに嫌なことがあっても類以が見せる天使級の笑顔を見るだけですべてを忘れられる。荻野にとって息子は何にも代えがたい存在だ。


 類以のことを抱き上げる。ここ1、2か月の間で大きく育った類以。料理はできたてじゃないと不機嫌なことも多いが、作ればちゃんと残さずに食べてくれるし、食材の好き嫌いもあまり目立たないから献立を悩む必要もない。しかも、食べている途中で派手にテーブルや服を汚すこともなく、綺麗に食べてくれる。同じ月齢の子を持つ親に状況を訊く限りでは、類以はそこまで手のかからない子供だと思えた。


「ご飯だよ」と言うと自分が座る椅子のほうを見たり、欲しいものがあれば声を出したりするようにもなった。金子の協力もあってか、「片付けしよう」と言えば、おもちゃが入っている箱に、ゆっくりではあるが戻すようにもなった。


周りの子たちと比べれば、類以にはまだまだ幼い部分が残っているような気がするが、確実に成長してくれている。毎日ちょっとずつ色んな顔を見せてくれることが嬉しい一方で、自分たちの元から離れていくような気がして、もう既に寂しさを感じつつある。


 リビングの扉を開ける。金子がソファに座っているだけで、そこに槙野の姿はなかった。


「あれ、猛は?」荻野がそう言ったタイミングで、ダイニングテーブルの下から姿を現した槙野。フィルムカメラがこちらに向けられ、シャッターが押された音がした。


「ちょっと猛、何やってんの? びっくりしたじゃん~」抱えていた類以を一度床に降ろす。

「茉菜の驚いた表情を見たくてさ。ハハ」

「え、何で私なの~? そこは類以を被写体にしなきゃでしょ?」その場で座っている類以は頭を上げ、槙野と荻野のことを下から覗き込む。


「大丈夫。類以と茉菜の二人を収めたショットだから」

「ホントに?」

「ホントだよ」


 荻野と槙野のやり取りを、クスクスと笑いながら聞いていた金子。「お二人って本当に仲いいですよね」と合いの手を入れる。


「そうかな~。私的にはちょっと・・・」

「え、嫌なの?」


槙野は眉毛を八の字に曲げ当惑していると、フフフと悪戯に笑って「嘘だよ」と言う荻野。


「なんだよ~」

「唐突に揶揄いたくなってみただけ」

「もおぉ、まぁ、茉菜だから許すけど」

「何それ~?」


いつも以上に幸せそうな夫婦。二人をソファから見つめる金子も、ついつい頬が緩んでしまう。


 類以が荻野の脚にしがみつき、口を尖らせて抱いて欲しいことをアピール。「しょうがないなぁ~」荻野はそう言いつつも嬉しそうに類以のことを抱き上げる。そこに槙野は両手を広げた状態で二人に近づき、そして優しく包み込む。


「幸せそうでなによりです!」金子は家族の戯れに茶々を入れる。でも嫌味とかは全くなく、心からの言葉を伝えた。


 二分ほど抱き合っていたが、荻野が「あっ、類以にご飯食べさせないと」と言ったことをキッカケに、槙野は姿勢を戻し、カメラを首にかけたままで代わりに類以のことを抱く。


「準備手伝うことある?」

「料理のほうは大丈夫だから・・・、歯磨きして、手洗ったら椅子に座らせておいてくれる?」

「分かった」


 洗面所へ向かおうと一歩を踏み出したとき、槙野の腕の中で泣き出した類以。何が嫌だったのかは分からなかったが、サメのぬいぐるみで注意を逸らせるとすぐに泣き止んだ。一過性のもので三人とも笑ってしまう。でも何気ない毎日をこうして過ごせていることに、心の底から幸福を感じた。


 類以の朝食を車のイラストが描かれたプレートに盛り付けていく。誕生日当日ということもあって、大好物だけで構成された特別メニュー。類以は椅子の上で手足をジタバタと動かし、食べる前から楽しそうにしている。


「今日はできたてじゃなくてごめんね」そう言いながらプレートを類以の前に置く。心なしか嬉しそうな声を上げた。


「ママもパパも金子ちゃんも、みんなで揃ってご飯が食べたいから、ほんのちょっとだけ待ってね」

「荻野さん、盛り付け手伝います」

「ありがとう。じゃあ、サラダの盛り付けお願い」

「分かりました」


 急ぎで荻野と金子は大人たちが食べる朝食を盛り付けていく。類以は槙野の監視下にあって、大人しく待っている。ただ、ずっと目の前の料理から視線を動かさず、釘付けになっていた。


朝食が盛られた食器をダイニングテーブルに運び、住人たちは自分の椅子に腰かける。時計の針は午前六時二十五分をさしていた。


「類以、お誕生日おめでとう!」

「おめでとう!」

「類以君、おめでとう!」


喜色満面の類以。三人からの祝福に応えるように、両手を挙げて自らもお祝いする。


「ささ、類以の1歳の誕生日を祝して―」

「いただきます!」


 槙野はフィルムカメラを握り、類以を被写体に色々な画角から写真を撮っていく。一瞬一瞬のシャッターチャンスを逃さないために。写真を撮られていることなど一切気にすることなく、目の前にある大好物を貪るようにして食べる類以。できたてではなかったが、お好みの味付けだったのか、幾分満足そうにしていた。

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