第4章

第1話

 五月晴れが続き、庭のネーブルオレンジの木に可愛らしい花が咲いた5月17日。類以が1歳の誕生日を迎えた。昨日類以が寝てから、金子が中心となって飾りつけをした部屋。LEDに照らされて、ラメ入りのRUIの風船が輝いている。


早起きした荻野が大人四人と類以の朝食を作っていると、Tシャツにスウェット姿の槙野が、酷く跳ねた寝ぐせを右手で必死に直しながらリビングへとやって来た。全体的に広がる寝ぐせは、まるでいうことを聞かない子供みたいに、あらゆる方向に跳ねていた。


「おはよう」

「おはよ、猛」

「あれ? 今日はいつもより起きるの早いね」髪の毛をしきりに指で触りながら言う槙野。荻野は「だね」と微笑みながら頷く。


「同じ寝室にいるのに、茉菜が起きてること全然気づかなかった。そこまで静かだと、もはや忍者だよ」

「そう? じゃあ、私はこれから忍者 茉菜って名乗ろうかな」


槙野の冗談に、荻野はいつも以上にノリノリで答える。


「今日はテンションも高いね」

「ウフフ」

「もしかして、今日が大切な日だから?」

「そうだよ。だって―」


荻野は槙野に視線を送る。そして、口角をグイっと上げた。


「今日は類以の誕生日だからね」

「だよね。張り切ってるね、茉菜」

「今日みたいな日は両親が張り切らないと駄目でしょ?」

「そうだな」


 ソファの前にある小さなテーブルの上に置かれたフィルムカメラ。元々カメラが趣味の槙野が、類以の成長を記憶にも記録にも残すために買った、結構お高めの品。購入してすぐに撮ったのは、観護初日の夕方に、太陽に照らされた荻野が類以を慎重に抱いている、その一瞬を切り取ったものだった。その写真は今でも寝室の棚に飾ったままでいる。そして一生飾り続けるつもりでいる。


 槙野は類以のことを暇さえあれば撮り続けた。いくら仕事で疲れていても、忙しい時期だったとしても、常にカメラを携帯していた。そして、まだ正式に類以の両親になれていない6か月間に撮影した写真は、類以が息子になったその日に現像した。その日以降に撮影した写真はまだ現像できずにいる。しかし、今日は今まで撮り溜めてきた写真を一気に現像する。成功していようが失敗していようが、どれも大切な思い出になることは間違いない。


「類以がここに来て1年が経つのか。早いなぁ」

「そうね。最初の6か月間なんて長いって思っていたのに、今となってはあの期間は濃くて、充実してたんだなぁって思うよ。それに、あっという間に1年迎えちゃったし」

「1年がこんなに早いんじゃ、もう小学生? えっ、もう成人? なんてことがあり得そうだな」


ハハハと笑う槙野。荻野は心からの笑みを浮かべる。


「そうやって成長していく姿を嬉しくも寂しい気持ちで見守る、それが私と猛の役目だね」

「あぁ。類以がシェアハウスに、俺らの下に来てくれたのは、きっと神様からのプレゼントだろうから、そのプレゼントを大切にしていく役目をしっかり果たさないとだな」

「猛、まだ類以が私たち夫婦の子供になって二か月しか経ってないけど、これからも私たちの息子として、夫婦二人三脚で育てていこうね」

「おう」


 夫婦が朝から類以の成長を懐かしんでいると、金子がいつもの時間に起きてきた。今日は日曜日だと言うのに、槙野も金子も起床時刻は平日とそう変わらない。だから朝食を揃って食べることができていた。


しかし、百井が越してきてからは、日曜日の朝に住人が全員揃って朝食を食べるという習慣はなくなった。百井の職業上、起床時刻がバラバラなのは仕方ないとしても、休日は遅くまで寝ていたりする。百井よりも類以のほうが安定したリズムで就寝と起床を繰り返す。言ってしまえば、類以は赤ちゃんらしくないというか、育てやすい子供だ。


「おはよう」

「おはよう金子ちゃん」

「おはようございます。お二人とも早いですね」

「俺は比較的いつも通りだよ。茉菜は俺よりも早かったけどね」

「えっ、そうなんですか?」

「ほら、類以に特別な朝食を準備しなきゃだからね」


荻野がそう言うと、金子は壁に飾られたHAPPY BIRTHDAYの文字を見つめ、フフッとほくそ笑んだ。


「荻野さんは、昨日は寝れました?」

「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」そう聞いて金子はニヤッと笑う。


「俺は緊張のせいか、あんまり寝られなかった」大きな欠伸をする槙野。金子も荻野も同じことを思った。そして口にする。「子供かよ」と。すると槙野は「そんな言い方しなくても」と拗ねる。そんな子供の相手をするように、荻野は「どうして?」と優しい声で尋ねた。


「そりゃあ、今日という日が楽しみだったからだよ。類以が息子になったあの日から心待ちにしてた。男っていうのは、いくつになっても楽しみなことがあるとワクワクするもんなんだよ。学校行事が楽しみすぎて寝られない子供みたいにさ」


 槙野にも子供らしい一面がまだ残っていたとは、と荻野は嬉しくなる。こういう一面があることも理解してあげなければと思った。そうは言っても所詮男と女。いくら夫婦でも価値観は違う。理解できないことなんて山ほどある。結婚してまだ一年だから? それとも、お互いに干渉しあっていないから? 夫のことが知りたいからって干渉しすぎれば痛い目に遭うかもしれない。そう思うだけで荻野は将来に一抹の不安を感じた。


「私たちには分かりそうにないね」

「ですね」


さらっと受け流す荻野と金子。槙野はいつものように愛想笑いを浮かべる。でも、その笑みには諦めの感じも含まれているように見えた。


「あっ、そんなことより、遂に1年ですね」

「ねー、良かったよ。無事に1歳を迎えられて」

「ですね。槙野さん、荻野さん、おめでとうございます」

「ありがとう」

「ありがとな」


照れる二人。金子は「はい」と頷いた。


「私、類以君に誕生日プレゼントを買ったんですけど、どのタイミングで渡してあげればいいですか?」

「えっ、買ってくれたの?」

「もちろんじゃないですか! 記念すべき日なんですから」

「クリスマスとかも貰っちゃったのに、ごめんね」

「謝らないでくださいよ。これは私がやりたくてやってるだけですから」

「ありがとう。今度、何かお礼させて」

「はい! 楽しみにしてます! ッウフフ」


金子は楽しみという感情が隠し切れず、思わず変な笑い声をあげてしまう。


「あっ、お二人は類以君に渡すプレゼントは決めてあるんですか?」

「うん。猛が決めてくれたの。しかも一か月前に」

「へぇ。えっ、何渡すんですか?」

「車のおもちゃ。ほら、あそこに」


槙野がテレビ台の横に置いてある大きな箱を指差す。綺麗にラッピングされ、オレンジ色のリボンが掛けられている。明らかに誰が見てもプレゼントだと言い張るぐらいの物がシェアハウスにある。


一年前では想像もできなかった。子供がいることも。二人が結婚することも。

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