第18話

 あと二十分もしないうちに類以を起こさなければいけない時間に、階段をものすごい勢いで駆け下りてきた百井。シェアハウス内を西へ東へと慌ただしく走り回る。


「百井さん、そんなに慌ててどうしたんですか?」


槙野が尋ねると、百井は視線を合わせずに類以の遊び場やら、ソファやら、とにかくあらゆる場所に手を伸ばしていく。何かを探しているようだが、探し物までは分からない。


「百井さん、どうしたんですか?」もう一度、少し大きな声で尋ねる。


ふとした瞬間に我に戻った百井。「あっ、おはようございます」と二人に挨拶する。


「おはようございます。何か探し物ですか?」

「はい。実は、昨日持ってきた荷物の中に入れてた、お気に入りの一着が見当たらないんですよ」

「そうなんですか?」

「そうなんです。まだ未開封の段ボールを今開けて確認したんですけど、そこには無くて。それで昨日開けた段ボールとか衣装ラックとかも確認したんですけど、ほんと、どこにもなくて!」


最後の未開封段ボールに手を伸ばし、頑丈に張られたガムテープを剝がしていく。可愛らしい見た目からは想像できないほどに豪快な手さばきを見せる。


「百井さん、今日はお仕事があるんですよね?」

「ありますよ!」

「何時ですか?」

「現場に十時着なんで、あと三十分後には出なきゃなんです!」

「時間ないじゃないですか」

「だから焦ってるんじゃないですか!」中身を漁りながら切羽詰まった感じで言う。そんな百井に対し、荻野は料理する手を止めずに、「帰宅後にもう一回探してみたらどうですか」と声をかける。何気ない一言だった。


「それじゃ遅いんです!」百井は叫んだ。血相を変えて。


「え・・・」

「今日その服を着て仕事に行きたいんです! だから、今すぐ探さないといけなくて!」

「でも、今着ている服も百井さん十分お似合い―」

「この服じゃ駄目なんです! 今日はあの服を着るって昨日から決めていたので、絶対に譲れません!」

「そうなんですね。でも、どこを探しても見つからないんですよね?」

「だから、さっきからそう言ってるじゃないですか!」


 百井の口調に気圧された槙野は、手を止めずに会話をする荻野とは違って、ただその場で茫然と立っていることしかできなかった。


自分の世界に入り込んで、血眼になって服を探す百井。ここまで面倒な人だとは思ってもいなかった。


「ホントどこにもないんです! だから荻野さんにお願いがあります!」

「えっ、私にですか?」

「はい! 荻野さんに、お願いしたいです!」荻野という部分をやたら強調して伝える百井。そこに槙野のことは一ミリも含まれていないようだった。


「何でしょうか?」

「私が代わりに類以君の朝食作りますから、その間に服を探してくれませんか?」

「いや、え、でも・・・」


 荻野は明らかに戸惑っていながらも、類以の食事を作る手は止めようとはしない。百井はスマートフォンの画面を操作し始める。百井が一体何をしたいのか全く理解できない。どう百井を制止させようかと槙野が考えていると、既に荻野の前にスマートフォンの画面を見せつける形で突き出していた。


「服はこれです! この淡いピンク色のトップスです! お願いします!」

「・・・・・・、じゃあ、あと五分だけ待ってくれませんか。そしたら―」


最善とも言える選択をした荻野が、少しだけ申し訳なさそうな感じも含めて発言。しかし、百井は俯くと同時に舌打ちをした。唾液を含んだ音だった。


「そうですか! ありがとうございます!」


顔を上げると同時に喜色を含んだ表情を見せる荻野。でも、そのわざとらしい表情からは、何か企んでいるような表情も感じ取れた。


「なので、それまでは服を入れていた段ボールをもう一回探してみたらどうですか? あと、落ち着いたほうが良いと思いますよ。焦っていたら視野がどうしても狭くなってしまいますから」

「・・・ッチ、ですよね! じゃ、部屋の段ボールの中見てきま~す」


槙野は薄々と気付いていた。百井は融通が利かないタイプの人間だと。そして、こちらがいくら真剣な態度でいたとしても、楽観的にしか見られていないことを。


 百井はリビングを出て階段を駆けて行った。テレビの音量が唐突にうるさく感じられる。荻野は声にならない嘆きのオーラを纏っていた。


「百井さんって、結構面倒なタイプかもな」

「猛、結構ってレベルじゃないよ。多分、私たちにはどうすることもできないタイプだよ。下手したら危害与えられる」

「とりあえず、百井さんがいる前で類以を一人にさせることだけは避けたほうがよさそうだな。何されるか分からないから」

「うん。気を付ける」

「だな。まぁ、あそこまでの人だとは思わなかったな・・・」

「そうだよね。私も最初は悪い人じゃないって思っていたけど、さっきの感じをずっと貫かれると私は耐えられない。類以の世話をするだけで精一杯」


長い息を吐く荻野。完全に百井夢花という人物に呆れていた。


「うん。茉菜は類以の世話だけすればいいよ。百井さんのことは、俺ができる範囲で監視するから」

「分かった」


二人はアイコンタクトを交わし、大きく頷き合った。


 類以の朝食が準備できたのとほぼ同じ頃、百井がまたも凄いスピードで階段を下り、そしてリビングに顔を覗かせた。その手には見せられた画面に写っていた服が握られている。


「荻野さん! ありました! ありましたよ!」

「そう」

「どこにあったと思います?」

「さあ」

「段ボールの中ですよ! 隅っこのほうで他の服に紛れて隠れてました!」


百井は荻野に見せびらかすかのように服を掲げてアピールする。その言いかたに訝しげさを感じる。最初から見つけてあったものをわざと紛れ込ませ、荻野に探させようとしていたのだろう、ということは正直言ってお見通しだ。本当に面倒な女性だ。


「見つかったのなら、良かったです」

「ごめんなさい! 私ったら、時間帯も考えずに朝からバタバタしちゃって。うるさかったですよね~?」

「まだ荷物片付いていないから仕方ないですよ。でも、見つかって一安心ですね」


 謝る気など更々なさそうな百井に対し、荻野はまた適当にあしらう。荻野は自分なんかに謝るよりも先に、寝ている類以に対して謝って欲しいと思った。そして、仕事に行く前の準備をする槙野に対しても、ひと言くらい謝罪の言葉を述べて欲しかった。でも、この人には無理な話だろう。


「百井さんは朝食べていくの?」

「もう出ないといけない時間なんで~、今日は途中で適当に買って食べます」

「分かりました」

「それじゃあ、着替えたら行ってきますね! あっ、今日の夕ご飯は自分で買ってくるので要らないですからねっ!」


百井は何を期待しているのか、含み笑いで先に伝えてきた。語尾は協調されていた。


「分かりました。事前連絡ありがとうございます」

「いえいえ! では、荻野さんっ、槙野さんっ、行ってきます!」

「はーい」


 玄関の扉が閉められたのを確認した槙野は、そっと後ろから抱きつく。あまりのことに耳を赤らめていく荻野。互いに、いつまでも二人の時間を大切にしたいという思いはあるのに、百井によって奪われていく。その存在は夫婦にとっても、類以にとっても、そしてシェアハウスにとっても厄介者なのだ。


「じゃあ、俺も仕事行ってくる」

「ごめんね。今日は雑なお弁当しか作れなくて」

「気にしなくていいよ。茉菜の手料理を食べれるだけで嬉しいし、なにより茉菜と類以がいるだけで俺は幸せだから」


荻野はふふっと嬉しそうに笑った。


「今日はいつもより早く帰れそうだから」

「分かった。家帰って来るときに連絡して。そしたら暖かいご飯作って待ってるから」

「うん。ありがとう。じゃ」

「行ってらっしゃい」


 まるで嵐のように仕事に向かっていった百井。そして、いつもの時間通りに仕事へ向かった槙野。残った荻野は寝室で寝ている類以を起こしに行くためにリビングを出て、階段を上っていく。付けられたままになっているテレビからは、遠く離れた地で起きている、ある有名飲食店の社長が失踪しているというニュースが流れていた。

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