第17話

 四月とは思えないほどの暖かさを感じた朝。槙野と金子は仕事に行くため、いつも通りの時刻に起床し、自分で作った朝食を食べる。金子と槙野の平日の朝食は決まって白ご飯で、おかずは魚だったり肉だったり、昨日の残りだったり・・・。その日の気分によって決めているが、今日は二人とも豚肉を使った料理だった。


五時四十分、いつもより早く目覚めた荻野。昨日は疲れて髪も乾かさずに寝落ちしてしまったために、全体的にアーティステックな寝ぐせが付いていた。


「おはよう」

「おはよう、茉菜」

「おはようございます」

「起きる時間いつもより早いよね? もう少し寝てきたら?」

「うーん、そうしたいんだけどね。昨日の疲れが抜けないままに目が覚めちゃって」


荻野は首をぐるりと回す。その様子を見た槙野は、「そっか。色々あったもんね」と労わる言葉をかける。食べ終わった食器を重ね、シンクへ持って行こうと槙野が立ち上がった瞬間、持っていた箸を茶碗の上に置くなり「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした金子。


「えっ、どうして金子ちゃんが謝るの?」

「そうだよ。金子ちゃんは何も悪くないよ」

「いや、何て言うか・・・、もしかしたら半ば強引に私が百井さんの入居話を進めちゃったのかなって。一昨日からお二人にちゃんと謝ろうって決めていたんです」申し訳なさそうに頭を下げた金子。そんな金子に対し、槙野は優しいトーンで話しかける。


「金子ちゃん、それは考えすぎだと思うよ。今回ばかりは金子ちゃんのせいじゃない。それに、来たばかりで百井さんも戸惑ってるだけだと思うから。だから金子ちゃんは謝る必要はないんだよ」

「でも―」

「私もそう思う。金子ちゃんも初めてのことで色々考えたんだろうけど、そこまで気張らなくていいんだからね。今まで通り過ごしてていいんだよ」

「・・・はい」

「うん。金子ちゃんもだけどさ、茉菜も焦らずに追々距離を詰めて行けばいいよ。だから自分のことを責めることだけは絶対にしないでよ」

「猛の言う通りだね。私も気を付ける。金子ちゃん、色々とごめんね」

「いえ。全然です。気にしないでください。私は大丈夫ですから」

「うん」荻野は小さく頷く。


 何気ない会話を繰り広げていると、あっという間に金子が仕事に向かう時間が迫って来ていた。


「金子ちゃん、仕事の始業時間、いつも通りだよね?」

「はい」

「じゃあ、そろそろ準備しないと間に合わないんじゃ」

「えっ、もうこんな時間!? 準備しなきゃっ。あ、でも食器が・・・」

「金子ちゃん、そのまま置いておいて大丈夫だよ。私が引き留めちゃったわけだし、片付けしておくよ」

「ありがとうございます」金子が頭を下げると、荻野は優しく微笑んだ。


「歯磨きとかどうするの?」

「あ、あっ、職場でやります! 持ち運びできるセット持ってるので!」

「そっか」

「はい!」

「忘れ物しないようにね」


槙野の発言に、金子はバッグの中身に目を通し、「大丈夫です!」と親指を立てる。毎日の恒例となっている忘れ物チェック。シェアハウスの住人のやり取りというよりは、もはや家族同士でのやり取りのようだった。


「今日の夕食は私が作るからね」

「お願いします! じゃあ、行ってきます!」

「行ってらっしゃい!」


 午前六時ちょうど。金子はクリーム色のトートバッグを肩にかけ、二人に見送られて出かけた。金子の食器を洗っていく荻野。椅子に座り、スケジュール帳を確認する槙野。リビングにはゆったりとした時間が流れ始める。


「お弁当サクッと作っちゃうね」

「うん。ありがとう」


 荻野はフライパンを取り出し、そこに溶いた卵液を流し込んでいく。それと同時進行で、電子レンジの中では冷凍ブロッコリーが温められている。


「金子ちゃんさ、毎日一時間半もかけて通勤してて偉いよね」

「うん。俺さ、金子ちゃんは大学卒業したら、てっきりココ出て行くもんだと思ってたから、残って職場に通うって聞いたときは驚いたのを今でもはっきり覚えてる」

「そうだよね。私もビックリしたな」


 槙野によって電源が入れられたテレビからは、全国の天気予報を伝える女性アナウンサーの声が聞こえてきていた。


「このシェアハウスよりも職場に近いところとかで、もっといい条件のアパートとかあるだろうにね」

「確かに。家賃は他のところと比べたら格安だけど、交通費のことを考えたら、近場のほうが安く抑えられそうだけどな」

「それに金子ちゃんなら、もう一人暮らしできる力はあるだろうにね」

「うん。でもさ、シェアハウスの居心地がいいから出て行かないんじゃない? まぁ、こうして類以の遊び場とか簡易ベッドとか作ってくれたし。俺たちだって金子ちゃんが居て困るなんてこともないし、このままでも良いやって思っちゃうよね」

「だね。正直、百井さんがいるよりも金子ちゃんがいてくれたほうが、私たちにとっても断然ハッピーだよ」


ぴしゃりと言う荻野。目は少しだけ吊り上がっている。


「だから、私たちも金子ちゃんのこと支えてあげないとね」

「うん」

「でも、猛もいつ異動になるか分からないから、私たちの引っ越しのことも考えないとだよね」

「・・・、そうだな」


 電子レンジの中から取り出された鮮やかな緑色をしているブロッコリーが、小さな弁当カップに詰められていく。手際よく動く荻野のことを、槙野は身支度をしながらに眺めた。遊び場の柵の中からは、つぶらな目をしたサメのぬいぐるみが二人のことを見つめていた。

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