第15話
百井はお風呂に行くと言って、足早にリビングから出て行った。その刹那、共用スペースであるリビングは、ちょっとだけ静かになる。
類以は眠たいのか欠伸をし、垂れ目気味の眼をさらにとろんとさせ、目を擦る。
「類以、そろそろ寝ようか」そう言って荻野が腰を上げる。しかし、部屋着に着替えた状態で、ソファに座っていた槙野が、「茉菜、類以が寝たら話したいことがある」と口にした。
「よかったら類以君の寝かしつけ、私がやりましょうか?」
二人の醸し出す雰囲気を悟っての発言だった。荻野は「ごめん、お願いしちゃってもいい?」と両手を合わせ、数回頭を軽く下げる。すると金子は、「任せてください。寝たら、報告も兼ねて降りてきますね」と大きく頷いた。
床に寝そべっていた類以を起こし、そしてゆっくりと抱き上げ、オレンジ色の間接照明が置かれた階段を上がっていった。
リビングに残った荻野と槙野は自然と目を合わせる。
「ダメだ。俺やっぱりあのタイプ苦手だ」槙野は天井を仰ぎ見た。
「それ私も。今日引っ越してきたばかりだから、口が裂けても言えないけど、早く出て行って欲しいって思っちゃった」荻野もまた、長い吐息とともに身体を伸ばす。
「これからどうするかな」
「そうだね。金子ちゃんがいてくれる間は、百井さんの話し相手になってくれるだろうけど、金子ちゃんが仕事に行って、百井さんは仕事が休みだってなったら、強制的に私が話し相手にならなきゃいけないもんな・・・。類以の世話もあるのに。やっていけるかなぁ、私」
「茉菜が頑張る必要はないよ」
「でも―」
荻野が口を開こうとしたとき、お風呂から出たばかりの百井が濡れた髪を妖艶に触りながらリビングに顔を出した。ピンク色のタオルを首に掛け、頭にはウサギの耳がついたヘアバンドを巻き、ふわふわな衣服に身を包んでいる百井は、無言のまま冷蔵庫の扉を開けて、冷えたリンゴジュースを手に取り、そのままリビングを出て行った。
「びっくりした」
「私も。急に入って来られると心臓がバクバクだよ」
「あんまりこの場所で百井さんの噂話はしないほうがよさそうだな」
「そうだね。気を付けよ」
唇に自然と力が入る。
「金子ちゃんには申し訳ないけど、本気で三人で暮らす家を探し始めたほうが良いかもな」
「それか、私がもう一度教師として学校へ働きに行くか、だよね」
「類以の誕生日のことも含めて、じっくり話し合いするしかないな」
「うん。今夜は長くなりそうね」
「そうだな」
ホッと息を吐き、冷蔵庫から冷えたノンアルコールビールを取り出す。「茉菜も飲む?」と訊くと、「それは猛のでしょ?」と缶を指差しながら笑う。
「茉菜と乾杯したいんだけど?」
「なんでこのタイミング?」
「ま、そこは何でもいいじゃん。ほら」そう言って槙野は荻野にノンアルコールビールの缶を手渡す。そして、向かい合わせではなく、荻野のすぐ隣に座る。つい一週間前まで飯田が座っていたチェアだった。
「しょうがないなぁ。じゃあ、一缶だけお付き合いしますよ」荻野は嬉しそうに笑いながら冷えた缶を受け取った。瞳は少しだけ潤んでいた。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
二人はそれぞれのペースでノンアルコールビールを口に含ませる。炭酸が弾けながら舌を刺激していく。久しぶりに呑んだ炭酸飲料はどことなくほろ苦くて、ふと大学生時代を思い出し、フフッと静かに笑っておいた。
「私、仕事復帰できるように頑張るよ。私も仕事すれば類以を保育園に預けられるし、お金が貯まれば三人でも十分暮らせるアパートもあるだろうし」
槙野は頷き、缶を傾ける。
「まぁ、類以が成長していくうえで必要になってくる費用も貯金しなきゃだから、いますぐに引っ越しができるわけでもないし、贅沢ができるわけでもないんだけどね」
「そうだな」
「今のところ大きな病気してないけど、どんな怪我をするかも、病気をするかも分からないし、どんな進路を選ぶかも分からない。やっぱり貯金してないと迷惑かけることになるから、類以を守るためには私も働かないと」
「でも、俺は生活に不自由ないぐらいの給料をもらってるよ? だから、今すぐに茉菜が働かなくてもいいし、たまには贅沢してもいいんだよ?」
「そうだよね。でも、猛にだけ働かせて、そのお金で私が贅沢することは何だか罪深いことをしてる気分になるの」
「そっか」そう槙野は静かに言って、隣に座る荻野のことを見る。少しだけ不安げな表情を浮かべていた。
「類以が一歳になったら、私より先に育休から復帰した先輩に相談してみる」
「分かった。何かあればいつでも相談して。俺もできることがあれば何でもやるから」
「ありがとね、猛」
「おう」
階段からは金子の軽やかな足音が聞こえてくる。時計を見ると、あれから三十分の時間が過ぎていた。「先にお風呂行ってくるね」荻野は残り少ないノンアルコールビールを飲み干す。「分かった」そう呟いて槙野は優しく微笑み返した。
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