第13話

 槙野が帰宅したのは十八時手前だった。今日は部活動が諸事情でなくなったため、早く帰れる貴重なタイミングだった。辺りは次第に暗くなり、児童養護施設の前に建てられた街灯が、柔らかな光を届ける。


「ただいま」靴を脱ぎながら声をかける。すると、その声を聴いてからか、類以がリビングから顔をちょこんと覗かせる。


槙野が「類以、ただいま」と微笑んでいると、「類以君、せっかく手を洗ったんだから、汚れるようなことしちゃダメだよ」と優しい声掛けをすると同時に、金子が出てきた。


「槙野さん、おかえりなさい」

「ただいま。類以のこと、ありがとね」

「いえ。でも、類以君は賢いから、一度注意したら駄目なことを理解してくれるので、私としても助かってます」

「そっか」


 金子に抱きあげられた類以とともに、槙野は料理の匂いが立ち込めるリビングに足を踏み入れる。そこには、期限が悪そうにダイニングチェアーに腰かける百井の姿があった。


「ただいま」

「おかえり、猛」

「夕ご飯は? もう食べた?」


そう槙野が何気なく尋ねた途端、静寂に包まれたリビング。ダイニングテーブルに並ぶ、手が付けられていない料理と取り皿を見て、自分が尋ねたことが愚問であることを痛感した。


「まだ食べてなかったんだ・・・」

「うん。ちょっとね」


明らかに元気がない荻野。類以も普段とは違う母親の様子を、どこか心配しているような瞳で見つめる。


「槙野さん、ちょっといいですか」金子は手招きする。槙野はネクタイを緩めながら、金子に近づく。


「どうしたの? 何かあった?」そう小声で訊くと、「実は、シェアハウスのルールのことで、軽い言い争いみたいになっちゃったんです」と、槙野よりも小さな声で答える。


「類以君が食べるうどんを湯がいている途中で、大人たちの夕食ができたから先に食べようって荻野さんが言ったんです。類以君ができたてじゃないと食べてくれないからって」


槙野は静かに頷く。


「そしたら百井さんが、一緒に食べることがルールだって説明されたのに類以君を仲間に入れないのは可哀想、って言いだして。そこから、少し言い争いに」

「なるほどな」

「私と荻野さんとで説得させる形で落ち着かせて、それで渋々納得したって感じでして。だから、百井さんもどこか不機嫌というか。で、そのタイミングで槙野さんが帰ってきたという」

「分かった。金子ちゃん、茉菜のこと守ってくれてありがとう」

「いえ」


金子とアイコンタクトを取る槙野。その視線の奥には、茹で上がったうどんを冷水で洗う、どこか寂し気な荻野の姿が映った。


 槙野は作業をする荻野の隣で手を洗い、ゆっくりと百井のもとへ近づく。


「百井さん。改めて挨拶させてください」

「あ、はい」

「高校教師をしている槙野猛です。よろしくお願いします」軽く会釈する。

「百井さんのこと、何てお呼びすればよろしいですか?」

「あー、百井さんでいいですよ。私も槙野さんって呼びますから」

「そうですか。今日からお願いします」

「こちらこそ」


 丁寧な言葉遣いの槙野に対し、どこか適当に頭を下げる百井。耳に付けられたアクセサリーが小刻みに揺れる。


自己紹介を終えてもなお、明らかに険悪ムード漂うリビング。空気を変えるべく金子が違う話題を振るが、百井は黙り込んだまま俯き続けた。


このままじゃ駄目だ。そう槙野が思っていたとき、「百井さん。ありがとうございます」ヒーローのイラストが描かれたプレートに乳白色のうどんを乗せながら、突然に荻野が言う。すると百井は「え?」と呟き、きょとんとした。


「今まで、誰からも類以のことが可哀想だなんて聞いたことがなかったんです。百井さんに直接言ってもらって、私も改めて考え直しました。やっぱり、類以も一緒に五人で食卓を囲むべきだって」


金子の手伝いによって手を再び洗い終わった類以は、子供用の椅子に座らされ、うどんが運ばれてくるのを今か今かと待ち続けた。槙野が自自円に注意しておいたために、大人たちの食べる食材には手を付けないでいる。


「それに、百井さんが来た初日に喧嘩なんてしたくないですし、今日は百井さんの歓迎パーティーも兼ねて、好物だと書いていたうどんを選んだんです。いち早く食べて欲しかったんですけど、ルールのことを無視するのもよくないですし。五人で笑い合って食べたほうがより美味しく感じられますし。もうすぐで類以の分ができるので、そしたら食べましょう」


無理して明るく振る舞っているように見える荻野だったが、槙野は何も触れず「そうだね」と優しく返事をするだけだった。百井よりも年齢が下の荻野のほうが、よっぽど大人だと思えた瞬間だった。

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