第12話
チャイムが鳴ってから三十分の時が経過した。今度は百井が時間通りに降りてきた。手には小さいミキサーを持っていた。
「百井さん、お疲れ様」
「お疲れ様ですっ」
「荷物は片付きました?」
「ミサちゃんに手伝ってもらったから、一人でやるよりも作業が捗っちゃって。今日もうすぐにベッドで寝られそうです」
声色を高くし、ご機嫌な様子で答える百井。荻野は「そう」とだけ言葉を発した。
類以はおもちゃを手に持ったままで百井を捉え続ける。その視線を感じ取ったのか百井が類以に視線を合わし、そして微笑む。左の口角だけが上がっていた。
「類以君、ごはんだよ」金子がわざと類以の気を逸らすように振る舞い、おもちゃを箱に片付けるように教える。類以は片付けているというよりは、掴んでは離すという動作を同じスピードで繰り返すだけだった。そのスピードはいつもより遅く、不機嫌であることが伺えた。それでも金子は「上手」などと褒めて、類以のやる気を削がないようにと振る舞う。
そんな二人の様子を見ながら、荻野は手際よく料理を大皿に盛り付ける。ダイニングテーブルに並べられた皿からは、美味しそうな真っ白な湯気が天井に向かって立ち上っていく。金子は身体のあちこちを伸ばしながら、ふぅーと自分を鼓舞するように息を吐いた。
先住人が忙しなく動く一方で、長く伸びた前髪を右手の指でカールさせ、左ひじをテーブルの上に立て、かったるそうな姿勢でいる百井。そんな百井の顔色を窺いながら、荻野はシェアハウスのルールについて語り出す。
「百井さん、一つお願いがあります」
「え~、なんですか?」
「今から言うことは、このシェアハウスのルールの一つになるんですが、住人みんなが揃っているときは、必ず食事を共にするようにしています。それは朝食でも、昼食でも、夕食でも、いつでも良いんです。必ず一回は顔を合わせて食事をすることになっているので、ご理解とご協力のほど、よろしくお願いします」
「へぇ、なんだか珍しいですね。みんなで顔を合わせて一緒のタイミングでご飯を食べるなんて。なんか給食みたい」
荻野の丁寧な言葉遣いとは反対に、百井はダルそうな姿勢を崩さず、面倒そうに答える。
「もしかして、そういうスタイルで食事を摂ることがお嫌いなんですか?」
百井の反応を見て、すかさず口を挟む金子。百井はスンとした表情から、一瞬にして作り笑顔を浮かべた。こういったところで百井は ”自分は俳優だ” という一面を見せつけてくる。しかしながら、演技は下手だった。
「全然っ! 給食スタイル嫌いじゃないですよ! むしろ面白いし、いい時間じゃないですか。今どき家族で揃って食事をすることすら少なくなってると思いますし。それに、皆さんと同じ時間に食卓を囲めて私は幸せですし、俳優の卵として演技の練習にもなりますから。勉強させてもらいますねっ」
都合のいいようにこじつける百井。教師をしている荻野は目を光らせたが、金子は百井の反応を特に気にしてはいなかった。金子がピュア過ぎるのか、荻野が敏感過ぎるのか、どっちなのか誰にも分からない。
「荻野さん、今晩のメニューは何ですか?」
「ナイショ。いま盛り付けてるから、待っててね」
「分かりました。あ、類以君にさせておくことありますか?」
「手洗ってくれてたらいいよ。あー、でも今洗っちゃうと食べるまでに机とか色々触っちゃうか」
「別にいいんじゃないですか? 何なら私が見張ってますよ。手の荒い過ぎで肌が荒れちゃうのも可哀想ですし」
「そうだね」
「とりあえず洗面所行ってきますね」
「分かった。お願いね」
金子は類以を連れて、一回の一番奥にある洗面所へ向かった。手を洗うぐらいならキッチンでもできるが、一旦、類以のことを百井という存在から引き離したかった。金子は、自分の子供じゃないのにどうして守りたくなるのか、とても不思議だった。
自分を落ち着かせるために呼吸を整える。類以はそんな金子のことを不思議そうな目で見ていた。いま類以がどんな気分でいるのか知ることはできないが、とりあえず石鹸で手を洗ってあげる。柔らかな手の上で泡立っていく石鹸。妹や弟の世話をしていた、あの頃を思い出した。
リビングに戻ると、「できたよ!」と荻野が両手を広げてアピールする。しかし、食卓に並んでいる食器、食材、そのどれもが大人用のものだった。
「類以君の分はどうしたんですか?」
「今湯がいている途中。できたらすぐに食べさせるつもり。ほら、最近できたてじゃないと食べてくれないから」
「そう言えばそうでしたね。最近ちょっと我儘になってきたんですかね」
「かもね。でもその成長が私にとったら嬉しいんだけどね」
「ですね」
「それで、できあがるまでまだ時間あるし、類以には食べられない食材だけでも食べちゃおうと思って」
「なるほどです」そう金子が呟くと、ダルそうにしていた百井がいきなり挙手し、「私から一つ良いですか?」と尋ねる。
「どうしたんですか?」
「ついさっき、荻野さん言いましたよね? 全員で揃って食べるって」
「はい。でも、今日は猛がいないので―」
「類以君のことは仲間に入れてあげないんですか?」
「いやぁ、それは―」
「もしかして、今までずっとそうしてきたんですか?」
「今は揃って食べるようにしているんですけど、まだ小さい頃は類以が食べる時間と大人たちが食べる食べる時間とで、やっぱり違いがあったので」
「何それ。それじゃ類以君が可哀想ですよ。誰が決めたか知りませんけど、このシェアハウスのルールなんですよね? だったら類以君も一緒に食べるべきですよ。大人の勝手な都合で食べるのを我慢させるのは虐待じゃないですか?」
荻野の話を遮ってまで、角のある言い方をする百井。金子も制止できなかった。
「百井さん。類以はここ最近になって、料理ができたてじゃないと機嫌が悪くなって、一切ご飯を食べてくれないんです。それだと子供の成長に影響があることは、お分かりですよね?」
首を軽く下げて頷く百井。反省しているとは思えない態度だった。
「それに、類以はまだ大人の私たちと同じメニューが食べられるわけじゃありません。確かに、一緒に食べるルールがある中で、類以だけ置いてきぼりにしているのは悪いことをしている、とは思っています」
「やっぱり思ってるんですね。じゃあ―」
「でも、できるだけ一緒に食べられるように時間や調理手順の調整をしたりしてる。ただ、やっぱりタイミングが合わないときだってある。類以がお腹空いたから食べたいって泣き出したり、悪くなった機嫌を直すのに時間がかかったり。そういうときは仕方なくルールを破ってる。本当は守りたいのに、類以にもご飯を食べさせながら、自分たちも一緒に食事をするっていうのは、意外と難しいことなの」
溢れていく思いの丈。湯が沸騰する音だけがリビングに響く。
「ルールがあって守りたいって思っても、子供がいたら難しいこともあるんです。私ひとりじゃできないことを夫の猛は勿論だけど、金子ちゃんも手伝ってくれて、それで類以のことを育てられているの」
「それって、私にも手伝って欲しいってこと言いたいんですか?」荻野の神経を逆なでにする百井。金子は溜息を洩らした。
「そういうことじゃない。私が言いたいのは、子育ては毎日が戦いだってこと」
「は?」
「大人でも機嫌が良い日と悪い日があるように、類以にもある。しかも、最近になって少し我儘になった。機嫌が悪いことのほうが多いから大変だけど、健全に成長してくれてることが何より嬉しいの」
キッチンに戻り、湧いた湯に類以用のうどんを入れる。湯は落ち着きを見せたあと、再び暴れ出す。
「類以君にも自我が芽生え始めて、今はわがままで悪戯好きな男の子に育っています。機嫌が悪いのは日常茶飯事。悪くなった機嫌を直すためにも、荻野さんは色々と頑張っているんです。親は子供と一緒に成長していく。子供が失敗を経験として学び、そして成長するように、親も失敗を経験して成長するんですよ」
「最初に説明しておいて守らないというのは、謝るべきことだと思っています。でも、このことだけはご理解ください。お願いします」
荻野は深々と頭を下げた。「別にいいですよ」そう言う百井の態度は、言いたいことはあるが渋々同意した、そんな感じだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます