第9話
飯田が引っ越して一週間が経った今日、類以が産まれてから十一か月目のときを迎えた。イベントはそれだけじゃない。百井夢花が引っ越してくる当日でもあるのだ。百井が越してくるのは十三時の予定になっている。類以の生誕十一か月のお祝いと、百井の引っ越しのお祝いという二大イベントが控える中、大人三人はバタバタとしていた。
「おかえり」
「ただいま。コンビニで受け取ってきたよ」
「ありがとう。助かった。あ、ご飯できてるからね」
「うん。先に手洗ってくるね」そう荻野に声を掛け、足早に洗面所へ向かう。
その途中で、起きたばかりと思われる金子とすれ違った。そのとき金子は「待ってますね」と笑みを浮かべて前を去って行った。待たせるわけにはいかないという思いで槙野は手を洗う。その真向かいにあるランドリールームでは、サイズも形もバラバラな洗濯物が干されている。扇風機の風を浴びる洗濯物は、気持ちよさそうに泳いでいた。
槙野がリビングに戻ると、ダイニングテーブルにはすべて荻野が手作りした料理が皿いっぱいに盛られていた。「少し作り過ぎたかも」と微笑みながら言う荻野に、槙野は「残ったら今日のお昼にまわすから大丈夫だよ」と優しく微笑み返す。そこにやって来た金子。伸びた髪を後ろでお団子状にまとめている。
「よし、メンバーも揃ったことだし、まずは今日の主役の一人である類以を座らせようかな」
「お願い。多分お腹空かせてるから」
「おう」
積み木で一人遊びをしていた類以に「ご飯食べよう」と一声かけてから抱き上げ、キッチンで手を洗わせてから、子供用チェアに座らせる。目の前に並べられたおにぎりを見て、目をキラキラと輝かせる類以。そんな類以の隣に荻野が座り、真向いに金子が腰を下ろした。
住人全員が揃ったことを確認し、槙野が代表して「いただきます」と言う。今までは飯田が担っていた食事前の挨拶。飯田が出て行ってからは槙野がその役割を担うことになった。簡単なことだと自分でも分かっているのに、誰も知らないその中で緊張している槙野。談笑しながら食べ進めていくうちに、そんな緊張は面白いぐらい、どこか遠くへと消えていく。
「いよいよ今日だな」コーンスープをスプーンで掬いながら呟いた。普通のテンションで言ったはずだったが、荻野は半笑いの状態で槙野のことを見つめる。
「猛、もしかして怖いの?」
「えっ、怖いって何が?」
「いや、何となくそんな感じの雰囲気出してたから」
「ハハッ。茉菜の言う通りだよ。そりゃ、怖いだろ。成人男性は俺だけだし。それに、誰かが越してくるって金子ちゃん依頼だから、どういう気分出迎えたらいいのか分からないからさ」
「確かにね。百井さんがどういうタイプの女性なのかも、まだよく知らないからね」
槙野に同情しつつも、どこか楽観的でいる荻野。二人のやり取りを耳に入れながらもサラダを食べ進める金子。貪るようにおにぎりを食べる類以は、大人三人のことなどお構いなしだ。でも、口の周りにはご飯粒がいくつも付いていた。
「金子ちゃんには申し訳ないんだけどね、何て言うか、あの可愛い子ぶる感じの女子が苦手でさ。あのときは子供のこと嫌いじゃないって言ってたけど、俺らが目を離してる隙に、類以に何かされるんじゃないかって思うと気が気じゃなくて」
申し訳なさそうにする槙野に対し、金子は「あー、なるほど」と頷くことしかできなかった。そんな金子のことを見かねた荻野が、レタスを端で取りながら言う。
「猛の言うことも分かるよ。でも、それはちょっと考えすぎじゃない?百井さんのタイプは好き嫌い分かれるタイプかもしれないけど、決して悪い人じゃないと思うな」
「そうですよ、槙野さん。私が言うのも変かもしれないですけど、百井さんはそんな人に害を与えるような人じゃないですから」
「だよな・・・。ごめんごめん」
そう槙野が謝ったとき、荻野が傍に寄って来て、耳元でこう囁いた。「もし、合わないと思ったら、三人で暮らす家を探せばいいよ」と。
「えっ、でも・・・」
「私も頑張って仕事復帰するからさ」
荻野は槙野の肩を二度優しく叩き、全粒粉の食パンを齧った。このとき槙野は自分のことを男として失格だと思った。悔しいぐらいに。
食事を終えると、金子は仕事をしてくると言って自室に戻った。荻野が食器を洗っている間に、槙野は自分の着替えを手短に済まし、類以の遊び相手になる。
「十一か月、意外とあっという間だったな」
「そうだね。最初は猛と結婚して、それで子育てするなんて思ってもみなかったな」
「そう? 俺は茉菜と結婚する未来しか想像してなかったんだけどね」自慢気に言うと、荻野は目尻を垂らしながら、「嬉しいこと言ってくれるじゃん」と微笑んだ。
「子育てって言っても、ほかの人とは違って自分たちが産んだ子供じゃないから色々大変だった。でもこの十一か月間、毎日類以が成長していく姿をすぐ隣で見てると、やっぱりこの子の親になれて良かったなって思えるようになって。私も少しは成長できたのかなぁ、なんて」
「うん。間違いなく茉菜は成長してる。類以とともにね」
「それは猛もでしょ? 私たち夫婦は今までも、これからも類以と一緒に成長していくも同然なんだから。私たちがしっかりしなきゃね」
「そうだな」
ふと、夫婦で類以の成長を見届けられるのは、あとどれぐらいなのだろうかと考えてしまう。子供の成長は早いと聞くが、本当にそうだと思っていた。成長していく類以のことを支え続けることが、夫婦のもとを離れて結婚するまで見守り続けることが、親としての最大の役目だと二人は誓い合った。
「あと一か月もしたら、類以が一歳になるんだもんね。それに向けて色々と準備しないと」
「そのことに関しては今夜にでも、また話し合おう」
「うん。分かった」
類以は槙野に視線を合わせて笑いかける。「俺たちの下にも、可愛い天使が舞い降りてきたんだな」と呟いた。
「いつまでも、こうして類以の成長を見守っていこうね」
「そうだな。夫婦にとって類以は、たからもの、だからな」
その可愛い天使は口角を上げて幸せそうにしていた。
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