第8話
タクシーは瞬く間に見えなくなった。それでもなお、類以は視線を真っ直ぐに向けたままだった。
「飯田さん、ついに行っちゃったな」
槙野が名残惜しそうに言ったからか、隣に立つ金子と荻野の二人も、何とも言えない表情を浮かべる。
「飯田さんがシェアハウスを出て行ったことを喜んであげたほうがいいのか、それとも寂しがったほうがいいのか、結局よく分からないんですけど。私が何か間違ってるんでしょうか」
「ううん。金子ちゃんは間違ってないよ。私もそんな感じだから。熱男タイプの人、正直言って今まで苦手だったけど、今は飯田さんがいないと何だか将来が怖いっていうか、シェアハウスの未来が不安なんだよね」
「え、俺がいるのに?」
「うん。まぁ猛って、ちょっとドジなところあるし」
「分かります。槙野さんって、しっかりしてそうな見た目しておいて、意外と天然な部分ありますもんね」
荻野と金子は顔を見合わせ、「ね~」などと楽しそうに言って笑う。ひとりになった、そんな気分だった。
「それ今言う? たしかに俺は飯田さんみたいなタイプにはなれないけど、一応俺なりに頑張るからさ。茉菜、俺のことも支えてくれよ」
「なに
「そう、だよな・・・。ありがと、茉菜」
意図せず口元がニヤける。そんな槙野の目を見てニッコリと微笑んだ類以。父親の味方をしてくれる日は、それほど遠くない間に訪れるのかもしれないと、淡い期待を込めて、類以に微笑み返した。
「私、今から類以連れて叔母さんの家に行って、そのあと公園行ってくる。学生時代の友達に、子供も連れて一緒に遊ぼうって誘われてるんだ」
「分かった。気を付けて楽しんで来なよ」
類以は自我が芽生え始めたと同時に、急激に行動範囲を広げていた。金子が作った遊び場だけでは物足りなくなったのか、自由自在にあちこち動き回ったり、ティッシュペーパーを箱から一枚ずつ抜くといった悪戯をしたり、時には両親に選んでもらった服を着たくないと全力で嫌がったりと、日々確実に成長をしていっている。
公園に行き始めたのも今年になってからだった。それまでは、シェアハウスのすぐ近くにある花壇と休憩用のベンチが置かれただけの小さな緑地に行くだけで、まだショッピングモールや飲食店など、そういった賑やかな場所には連れて行ったことが無かった。
育児を始めた当初は、類以が自分の産んだ子供ではないことを他人に知られるのが嫌で、同じ年ごろの子供たちが集まる公園は避けていたが、それでは類以のためにならないと感じるようになってから、荻野は類以を連れて公園に行くようになった。そして一か月前には同じ年齢の友達ができたという話を、槙野は嬉しそうに聞いた。そういった毎日の成長ぶりを槙野と荻野は一段と喜び、小さな幸せを共有している。
「私は、そろそろ仕事に行きますね」
「今日はいつもより出勤時間が遅いんだね」
「飯田さんがここを出て行くまで見届けたかったんです。だから出勤時間を一時間ずらして。まぁその分帰って来る時間が一時間遅くなりますけどね」
「そっか」
「はい。あ、ところで槙野さん、今晩の夕食どうします?」そう言ってトートバッグからスマートフォンを取り出す金子。そしてメモアプリを立ち上げた。
「俺は肉料理なら何でも」
「荻野さんは?」
「肉なら、今日は鶏肉の料理がいいな。味付けとかは金子ちゃんに任せるから」
「分かりました。じゃあ、帰りに買い物してきますね。だから夕食がいつもより遅くなっちゃいますけど、お二人とも大丈夫ですか?」
「全然。もし類以がぐずったら、夕ご飯は私が作って先に食べさせておくから」
「ありがとうございます」
「僕も、今日は職員会議があって何時に帰れるか分からないから、気にならないよ」
「そうなんですね。分かりました」
金子は頷き、スマートフォンをトートバッグに再び入れる。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気を付けてね」
返事をしながら金子はオレンジ色の自転車に跨り、ヘルメットを被って颯爽と最寄り駅へ向かって走って行った。見送った荻野は家に戻り、日用品や消耗品のセットを詰め込んだリュックを背負い、類以をベビーカーに乗せ、叔母宅へと出かける。戸締りを任された槙野は、すべて確認し終え、勤務高校へと向かって歩いて通勤する。青時折吹く風は、青々とした街路樹の葉を揺らした。
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