第7話

 朝食を食べ終えた四人は、飯田が出て行くまでの時間、それぞれが自分の時間を過ごし始めた。


飯田は共用スペースとなっているリビングや食器棚、冷蔵庫に自分専用のものが残っていないかの最終確認で、ウロウロと部屋を歩き回る。槙野は一度自室に戻り、皺ひとつない白ワイシャツと紺色のスラックスに着替え、ストライプ柄のネクタイを結びながらリビングに現われた。金子は既に仕事着でいたため、家を出る時間までのんびりと過ごし、荻野は類以が遊んでいる姿をただひたすら眺め続けていた。


 飯田が結婚すると言ったあの日から、残る三人飯田が出て行くことに若干の嬉しさを感じていたが、今は嬉しさよりも寂しい気持ちでいっぱいだった。あの当時は暑苦しい感じから脱出できる嬉しさ敵な、そんな気持ちで送り出せるものだと思っていたのに、いざ出て行く日を迎えてみると、寂しさや新たな門出を祝いたい気持ちとが複雑に絡み合い、グチャグチャな状態でいる。


気持ちの整理をするとともに、時間は過ぎ去っていく。そして結局、気持ちよく送り出せる自信がないままに、飯田がこのシェアハウスを出て行く時間を迎えてしまった。


「じゃあ、そろそろ行くかな」この場にいる人に対して言うのではなく、このシェアハウス全体に話しかけているような、どこか心寂うらさびしい声を発する。


「あ、もうそんな時間・・・」

「あっという間ですね」


 悲しみを紛らわすかのように、わざとらしい演技を見せる槙野と荻野。それに釣られるようにして、金子もいつもとは違う明るさのテンションで飯田に話しかけた。


「飯田さん、あの数秒だけ、いやホント一瞬でいいので、そのまま後ろを向いて、その場で止まってくれませんか?」


金子の見慣れないテンションの高さに、飯田は不思議そうな顔をしながらも指示に従い、玄関側に顔と身体を向けた。その間に槙野は隠しておいたプレゼントを手に取り、飯田の後ろに立つ。


荻野と金子は、しれっと槙野の後ろに並ぶ。類以は「ここにいて」という母親の指示通り、荻野の足元に大人しく座り、じーっと飯田を見続ける。手には飯田がプレゼントした音が鳴るおもちゃを握っていた。


「飯田さん、こっち向いてください」槙野が飯田にそう声をかける。飯田は「ん?」と、どこか間抜けな声を出して振り向く。しかし、槙野が手に抱いているラッピングされた箱を見た途端、如実に驚いていることが分かるほど、目を丸く見開いた。


「飯田さん、これは俺たちからのプレゼントです。気に入っていただけるか不安なんですけど」

「えっ、俺にプレゼント?」


プレゼントを受け取ってから、飯田は真っ白な歯を見せて笑う。その表情はしわくちゃだった。


 飯田から言われた感謝の言葉に、三人は首を振った。嬉しそうな反応を見た三人の頬は赤らみ、嬉しさが滲み出てしまう。


「結構重たいよね? 中身まじで気になるんだけど」

「その気持ちすごい分かるんですけど、ここで開けちゃったら楽しみが減っちゃいますよ? それに、このプレゼントは是非お二人で開けて驚いてもらいたいので・・・。なので今はちょっと」

「確かにそうだな。新居に着いたら、ちゃんと晴花と一緒にワクワクしながら開けさせてもらうよ」

「はい」


 飯田はプレゼントを大事そうに抱え直し、改めて歯を見せる。


「本当にありがとう。三人の気持ちが嬉しいよ。でも、貰っちゃっていいのか?」

「いいんですよ。飯田さんには俺が入居した当時からお世話になりっぱなしでしたから、これぐらいさせてください」

「そうですよ。私もここに来てからずっとお世話になってましたから。それに、飯田さんが気付いてくれたから、こうして類以の母親になれたと思っていますし。感謝してもしきれません」


槙野と荻野からのストレートな感謝の言葉に優しく頷きながらも、飯田は今にも泣き出しそうな顔で唇を震わせていた。


 涙をぬぐい、別れを惜しみつつ玄関ホールに立つ飯田。テラコッタカラーの床に置かれた黒のキャリーケースからは、飯田が愛用しているタオルの端が食み出している。そのことに槙野は気付いたが、あえて教えなかった。なんとなく、最後まで飯田っぽく居て欲しいと思ったから。


「飯田さん。今日まで本当にありがとうございました。お世話になりました」

「槙野、今日から男一人で色々大変だろうけど、頑張れよ」

「はい。飯田さんのようにはなれないですけど、男としての役目はしっかりと果たします」


 飯田は何の前触れもなく槙野のことを力強く抱きしめる。飯田の熱男すぎる一面が発揮された瞬間。槙野も飯田のことをぎゅっと抱きしめた。こんなにも胸が熱くなるような抱擁を交わしたのは、生れてはじめてのことだった。


「飯田さん。類以のために働いてくれて本当にありがとうございました。いつでも類以に会いに来てくださいね。この家で待っていますから」

「ありがとな、荻野ちゃん。これからも槙野と類以のこと、支えてやりなよ」

「分かりました」


 目じりに涙を浮かべる荻野だったが、零さないように堪えているのが、隣に立つ金子には見え見えだった。コンプライアンス的なことを把握しているのか、飯田は荻野に対して握手を交わすのみだったが、それでも荻野の顔は晴れ晴れとしていた。


「類以、このシェアハウスに来てくれてありがとな。出会って一年経ってないけど、類以と過ごせた日々は楽しかったぜ。また俺と遊んでくれよ」


 類以は荻野に手を握られた状態で、笑顔で飯田に手を振る。飯田もニコニコしながら手を振り返した。類以は、飯田との別れを把握して手を振っているのかは両親でも分からない。ただ、類以のことだから、きっと状況を理解して行為に及んだのだろうと、槙野は勝手に想像した。


「飯田さん、奥さんと幸せになってくださいよ。それと、絶対に私たちのことを結婚式に招待してくださいね。飯田さんのスーツ姿を見るの、楽しみにしてるんですから」

「金子ちゃん、嘘はよくないよ? 俺のスーツ姿なんかより楽しみなのは、普段食べられない料理とかだろ?」そう笑いながら言う飯田に、金子は舌を少しだけ出して、いたずらに笑い返す。


「そうやって、いつまでも自然体なまんまでいてよね。今だから言えるけど、俺はいつもその性格に助けられてきた。新しい住人の方も含めて、みんなのことを笑かしてやれよ」

「ふふっ。はい。みんなのこと、私が代表して笑顔にさせます」


荻野と同様に、飯田は金子に対しても熱い握手を交わすだけで挨拶は終わった。金子の澄んだ瞳からはダイヤモンドのような、綺麗な雫が落ちていった。


「じゃあ、また会うときまで」


 玄関のドアを開けた先には、予約していたタクシーが飯田のことを待ち構えていた。古びたキャリーケースをトランクに入れ、後部座席に乗り込んだ飯田。


窓を開け「じゃあな!」とだけ言って、新居に向けて出て行った。大人三人は飯田を乗せたタクシーの姿が見えなくなるまで、手を振り続けて見送った。類以は荻野に抱かれたまま、消えゆくタクシーを静かに眺め続けていた。

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