第5話
まだ太陽が昇っていない中でカーテンを開き、両手を広げて身体を伸ばす金子。槙野は部屋着姿で、まだ寝ぐせも直していないままで、ソファに腰かけ本を読む。
「おはようございます」
「おはよう」
「槙野さん、今何読んでるんですか?」金子が近付きながら訊くと、槙野は本の表紙を見せながら、「生徒たちの間で話題の恋愛小説だよ」と答える。
「槙野さんって恋愛ものも読むんですね。意外でした」
「そうだよな。俺は普段時代小説ばっかりだからね」
「ですね」そういい頷く金子。槙野は小説を閉じ、「実は生徒たちから、読んで欲しいってプッシュされてさ。感想も聞かせて欲しいって言われてるから、仕方なく読んでるだけだよ」と苦笑いする。
「そうだったんですか。生徒からのお願いなら・・・、仕方ないですね」
「でも、こういう小説読んでおけば、授業に少しは役立つこともあるのかなぁって思ってさ」
「確かに」
「ほら、今の若い子たちって、僕らの時代とはまた別の時代を生きてるわけだし。それに、今っぽい感じで教えたほうが、古文とか理解してくれてるから」
「いいですね、それ」
金子と槙野が会話をしている途中で、階段から聞きなれた足音がした。視線を向けると、涼しそうな服装に身を包んだ荻野と、お気に入りの服を着ることができてご満悦そうな類以の姿があった。
「おはよう、茉菜」
「おはよう、猛」
「類以、おはよう」
槙野はソファから腰を上げ、小説を手に持ったまま類以に近づく。右手で類以の手を優しく握り、ゆらゆらとさせる。
「おはようございます」
「おはよー、金子ちゃん」
「類以君、おはよう」
金子も腰をかがめ視線を合わせるも、類以は笑顔で、楽しそうな声をあげながら四足歩行で爆速する。金子には見向きもしなかった。
「類以、待って!」追いかける父親の声すらも無視して、意のままに走り続ける。「私に挨拶するよりも先に遊びたかったのかな」残念そうに呟く金子の肩に手を置く荻野。「言葉が喋れるようになったら、まず挨拶教えないとね」と微笑む。
しばらくして、類以は槙野に捕まえられた。満足したのか、笑っている。そんな類以に弄ばれた槙野は、愛想笑いを浮かべた。
「ところで、飯田さんへのプレゼント、持ってきた?」
「はい。ソファのクッションの裏に隠してます」
「分かった。じゃあ、バレないように気を付けないとね」
「ですね」
荻野と金子は顔を見合わせて笑った。
「今日はどこか行くんですか?」
「うん。午前中に類以を連れて行かないといけないところがあって」
「まるほど。だから起きるのが早かったんですね」
「そうなの」
「でも、その割には類以君、全然眠たそうじゃないですね」
「だね」
「荻野さん、もしかして類以君に何か魔法でもかけたんですか?」面白がっていう金子に、荻野も笑いながらに「私が魔法? 無理無理」と手をひらひらとさせる。
「睡眠時間も整えないと駄目だから、色々試してるの」
「そっか。のちのち保育園に通うこと考えたら、起床時間も考えないとだね」
「そうなの。でもまぁ、私は専業主婦だし、今はまだ預けられないけどね」
類以は槙野の監視下で、お気に入りのぬいぐるみを抱いて遊んでいる。
「荻野さんは教師として、また働くことはないんですか?」
「うーん、今はまだ具体的には考えてないんだけど、いずれは戻りたいって思ってるよ。仕事が好きだし、お金のこともあるし」
「茉菜が教師として仕事するってなったら、今以上に色々協力するからさ、前向きに考えてみなよ」
「ありがとう、猛。そうね、今度先輩に相談してみるよ」
「うん」
微笑む親二人に何かアピールでもしたかったのか、類以は突然ぬいぐるみを床に投げ捨て、今度は自分が座る椅子を指差しながら声をあげる。最近になって、類以の自己主張が激しくなってきたと、大人三人は
「朝食はもう食べた?」
「私も槙野さんもまだですよ」
「そうなの? じゃあ私が作ろうか?」
「大丈夫だよ、俺が作るから」
「そう?」
「うん。昨日の晩、明日の朝食は槙野が作った料理を食べたいって、飯田さんに言われててさ。飯田さんの分だけ作るわけにもいかないから、茉菜と金子ちゃんの分も一緒に作るよ」
槙野の発言を聴いた金子はどこか嬉しそうだった。しかし、荻野はなぜ金子がニヤついているのか分からなかった。一方の金子は、自分が今、不自然なほどにニヤついているとは思っていない。
「私、類以の朝食作っちゃうね。お腹空いてるのか、少し不機嫌だから」
「助かるよ」
「うん」
槙野と荻野はキッチンに立ち、黙々と朝食を作り始める。遊び相手を頼まれた金子は、抜け出してはあちこち動き回る類以を、追いかけては抱き上げ、そして遊び場の中に戻すことを繰り返していた。
類以も流石に疲れたのか、大人しくなった。そして、一人で遊び始めた。そのことを見て、テレビの電源を落とす金子。比較的静かになったリビング。今はキッチンからの調理音と、類以が積み木をぶつけ合う音だけが流れてきていた。
あれから十五分の時間が経った。キッチンから「金子ちゃん、朝食できたから、飯田さん呼んで」と声がかかる。「分かりました」と返事して、そのまま階段を駆け上がって部屋へと向かう。飯田は、最後の段ボールに蓋をしている最中だった。
「荷造りお疲れ様です」
「ようやく終わったよ。俺って結構荷物持ってたんだな」呆れ顔で笑う飯田に、金子は「そうですか? 私からしたら少ないほうだと思いますけど」と少し嫌味を含んだ言い方をする。
「そうだよな。まぁ、実際荷物の大半が服だし。少なく見えるのは当たり前か」
「ですね。飯田さんって服好きですもんね」
「だからアパレルで働いてるんだよ」ニカッっと笑う飯田。金子も釣られて、寂しい気持ちを忘れたかのような、心からの笑顔を浮かべた。
「飯田さん、槙野さんが作った朝ごはんが待ってますよ」
「おっ、それは楽しみだ」
「行きましょ。何なら段ボール運ぶの手伝いましょうか?」
「あー、いいよいいよ。重たいから俺運ぶし」
「そうですか。分かりました」
「じゃあ、行きましょ」
飯田はよしっと気合を入れてから段ボールを持ちあげ、そして部屋の扉を閉めた。何かが終わる音がした。
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