第7話

 四月二日。飯田は三人をリビングに集めた。夕食の時間帯ということもあって、金子が作った酢豚が大皿に盛られて、食卓に並んでいる。


「類以、ご飯食べる時間だよ。だから積み木片付けて」微笑みながらそう言って、類以に近づく槙野。類以は大人しく積み木から手を離す。


「飯田さん、話ってなんですか?」

「俺、みんなに言わなきゃいけないことがあるんだよ」

「えっ、何か重要なことですか?」

「あぁ。まあな」

「何ですか?」


食器棚に手を伸ばす荻野が尋ねる。


「俺さ、結婚しようと思う」


その刹那、リビングは静寂の世界に包まれた。荻野は唖然とし、槙野は嘘と小さな声を漏らす。金子は「えっ! 例の彼女さんとですか?」と大声を出したのち、口元に手を持っていき、息を殺す。槙野に抱かれた類以は、その声に驚いたのか目を大きく開き、金子をまじまじと見ていた。


「そう。あのカノジョだよ」

「プロポーズはもうしたんですか?」

「明日の夜、ディナーに誘ってるんだけど、そこでプロポーズしようと思っててな。もう指輪も買ってある」

「えー、いいなぁ。羨ましい! ね、荻野さん?」


金子に同情を求められた荻野は「彼女さん、きっと喜ぶと思いますよ」と困った顔で笑った。


「だといいけどな。指輪まで買っちゃってるし、失敗は許されないよな」ハハハと笑う飯田に、槙野が「飯田さんなら大丈夫じゃないですか」と、どこか他人事のような顔で答える。


「槙野さんと荻野さんの言う通りですよ。飯田さん、プロポーズ頑張ってください!」

「おう。ありがとな」飯田は照れ笑いを浮かべた。


 類以が来てから今日まで、飯田はシェアハウスの取り仕切り係として、槙野は父親として、荻野は母親として、金子は見守る立場として、それぞれが自分の役割を担うようになっていた。その成長は飯田にとって涙する感動ものであり、身の引き際を考えると同時に、槙野に自分の担ってきたポジションを譲ることにした。


 翌日。飯田のことを応援しているかのように、空は清々しいほどに晴れ渡っている。十六時過ぎ、普段より早くシェアハウスに帰ってきた。「ただいま」そう玄関から声をかけると「おかえりなさい」「お疲れ様です」と、リビングからいつものように仕事帰りの飯田を出迎える荻野と金子。飯田は頬を緩ませた。


飯田は仕事中、一度も心が休まることはなかった。家に帰ってきたとて、待ち合わせの時間までにやっておかなければならないことは多く残っている。カジュアルな服装から、レストラン向きなフォーマルな服装に着替えなければならないし、プロポーズの言葉を何度も練習しなければならない。


そんな飯田を余所に、金子はパソコンでの作業を進め、荻野は類以の遊び相手になっている。シェアハウスは今日も平和だ、と飯田はしみじみと感じていた。


「荻野さん、今日の夕食は何食べましょうか?」

「飯田さんがいないから、お好み焼きかな」荻野は悪戯な顔で飯田を見る。それに便乗して、金子も悪戯っ子のような、少女感あふれる笑顔を見せる。


「お好み焼き、いいですね! 久しぶりに食べましょ!」ルンルンな目をしている金子に、「そうね」と相づちを打つ荻野。


「いいよ。俺が苦手なお好み焼き、すきなだけ食べりゃいい。俺は超高級レストランで食事してきますから」


 飯田は女性二人の態度に堪えきれない笑みを零しながらいじけた。本当は、弄ってくれることがありがたかったが、そのことは口が裂けても言えない。そう飯田は思っていた。


 腕時計を見る。「そろそろ行ってくる」ネクタイの形を整えながら言うと、金子は頷き、荻野は「分かりました」と類以を抱いた状態で微笑んだ。


十八時の待ち合わせに向けて、飯田はシェアハウスを出た。スーツのポケットに指輪を隠して。


 飯田が家を出てから帰ってくるまでの約三時間半、仕事終わりの槙野を含めた四人が一体どんなお好み焼きを食べて、どんな会話をしていたかなんて、飯田はもちろん知らない。しかし、なんとなくの想像はできた。自分が嫌いなお好み焼きを焼いて、ワイワイと楽しみながら食べて、三人の大人は会話で盛り上がっていたのだろうと。


 十八時の十分前に彼女の晴花はるかは飯田の前に現われた。普段とは違う装いに身を包んだ晴花に、思わず胸がドキッと音を立てる。メイクも、アクセサリーも、バッグも、そのすべてをレストランの雰囲気に合わせていた。いつもより背伸びした感じが、堪らなく好きだと思えた。


 運ばれてきたコース料理を食べ終えた飯田は、目の前に座る晴花の目を見て、こう伝えた。「晴花。君のことを俺の一生をかけて幸せにする。それに、これからは夫として晴花のことを支えていく。まだまだ未熟な俺だけど、結婚してくれませんか?」と。そして、ポケットに忍ばせておいた指輪のケースを、ゆっくりと開けて晴花の前に差し出した。指輪を見た瞬間に、笑顔の花を咲かせた。


 飯田はレストランを出たあと、晴花に「俺の結婚相手として紹介したいから、シェアハウスに来ないか?」とダメ元で尋ねた。すると晴花はフフッと柔らかな笑顔で「いいよ」と了承。街の灯りが二人のことを優しく照らした。


  *


 一方の槙野、荻野、金子、そして類以は夕食パーティーを楽しんだ。類以用に作られた小さなお好み焼き。それを手づかみで食べる類以。頬には野菜の欠片が付いていたが、そんなことも気にせず、あっという間に完食。大人たちのお好み焼きが焼きあがる前に、類以は一人満足気な様子でいた。


白く大きな皿に置かれた真ん丸のお好み焼き。格子状にかけられたソースとマヨネーズ。そのダンスホール上で舞い踊る鰹節。槙野作のお好み焼きというアート作品に見惚れる金子の姿を、槙野と荻野は微笑みながら見ていた。


「そういえば、荻野さんと槙野さんって、飯田さんの彼女さんに会ったことってあるんですか?」

「私も猛もないよ。金子ちゃんは?」

「私もです。飯田さんから惚気話を聞くだけでした」

「そうなんだね」


お好み焼きを一口大に切りながら頷く荻野。すると槙野が、「どんなタイプの人なんだろうね」と二人に尋ねた。ここから三人は飯田がこの場に居ないことを良いことに、想像して楽しんだ。


 二十一時手前、飯田は結婚相手の晴花を連れてシェアハウスに帰宅。玄関先で軽く自己紹介を交わした四人。何年も暮らしてきたシェアハウスの仲間に自分の結婚相手を紹介するのは、とてもくすぐったい気持ちだった。


「今日は晴花の家に泊まるから」

「分かりました」

「それじゃあ。おやすみ」

「おやすみなさい」


飯田は晴花と手を繋いで帰っていく。滲み出る幸せオーラに、金子は思わず「ひひっ」と変な声で笑ってしまった。

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