第九歩 どんかん(?)

 放課後に二人きりで勉強するというシチュエーションは恋愛ではお決まりだと聞くが、これは断じてそういうのではない。

 と言い切りたいところなんだけど、客観的に見ればそう言えなくも無いのだろう。


 まさか、赤井君に勉強を教わる事になるとは思わなかった。でも彼の言っている事には頷ける程の説得力があるし、授業では教わらなかったやり方で問題をスラスラ解いている。何処どこか塾にでも行っているのか聞いたけど、行っていないらしい。


「塾に行っていると自分のやりたいことが出来なくなるから、最低限自分で努力するようにしてる」


 『最低限』『努力』。

 彼の言動にはまるで自惚うぬぼれる様子が見えない。そこまでなんでも出来れば、誰だって舞い上がるだろうに。


 私は彼の事を誤解していたのかもしれない。気に食わないからと、自分と似ているからと勝手に決めつけていた。


 他人に囚われず、自分で決めた道を突き進む。そういう15年を生きてきた筈なのに、全く自分を貫き通せていないのは、勝手過ぎる。


 むしろ、彼の方が自分の道を行っていて、自身を見失うことなど無いように視える。


 彼がどうして優等生たる立場にあるのかに納得した上で、もう一つ私は疑問を抱えていた。

 それは彼の、話し方の違いについてだ。



『クソっ、俺としたことがやっちまった』


 その言葉が私の脳裏に今でも焼き付いている。

 彼にしては荒っぽい物言いだと思うし、何より赤井庵という人物の口から発せられた言葉とは思えない程、衝撃的だった。



 その単語と彼のあの発言には間違いなく相違が生じる。

 わからない。


 今の私にとっては最大の謎ではあるものの、常識と空気を読むことだけには自信がある。彼にとってもあまり触れられたい事では無いだろう。

 

 彼の顔をちらりと見る。

 彼の問題解説をする姿は先生そのものだ。


 無論、それを尊敬の念を抱くことはあっても「かっこいい」といった普通の女子が考えそうな言葉は、私には一切無い。

 それはきっと彼の善意を踏みにじる思考だと思うから。



 時計の針を横目で見る。

 そろそろ5時が来ようとしている。


 そうして余所見をしながら無意識に手を動かした瞬間 ──



「あっ、ごめん」


「あっ、その、こっちこそ…ごめん…」


 物凄く気まずい空気が流れる。

 たかが手が当たったくらいで動揺するなんて、中学生じゃあるまいし…。


 でも、何故か彼の方を見ることが出来なくて、うつむいたままなのは事実だ。

 なんでそんな行動をするのかは分からない。だって、好きな人とかならまだしも、あの赤井君だ。そんなのあり得るはずがない。


 疲れてるんだ、と自分に言い聞かせてもう一度机に向かう。

 彼は特に何も考えていなさそうな顔で問題解説の続きをしている。どんな精神状態してるんだ。


「あのさ、赤井君はそういうの気にしないの…?」


 言ってから、しまったと思う。

 あまりにも余裕な態度の赤井君に対してつい思わせぶりなことを言ってしまった自分に嫌悪を感じる。


「『そういうの』って?」


「あ、いや…ごめん、なんでもない」


 本当に何を考えているのか分からない。普通は少しでも態度が変わるものではないのか。私の考えすぎ?

 

 やっぱり、彼は勉強のことしか見ていないんだろうなと思う。

 私も恋愛なんて無縁の人生だったから、こういうシチュエーションにも疎いのだけど、流石に一つも思わないなんてことは無い。


 勉強を続けていると、不意に彼が時間を気にしていた。


「ごめん、そろそろ帰らないといけないから。ごめんね」


「いやいや、こちらこそありがとう。わかりやすかったし、助かったよ」


 社交辞令だけでも述べておく。わかりやすかったのは事実だし、ちゃんと言う事は言っておかないと。


「じゃあ、また明日」


 そう言って彼は小走りで教室を出ていった。


 そろそろお腹も空いてきたし、私も帰ろうかな。


 荷物をまとめて、帰り支度をし始めた。




─ 庵視点 ─


 どうしよう、橘さん怒ってないかな。

 不可抗力とはいえ、女子の手に触るなんて。


 僕はその時の光景を思い出す。


 必死に顔を作っている自分が滑稽すぎて、「恥ずか死」してしまいそうだ。

 多分、余裕感を頑張って演じてたの、ばれて…ないよな…?


 耳が無性むしょうに熱い。


「橘さんの手、細かったな…」


 つい、気持ちの悪い言葉を口走ってしまう。これではどこからどう見ても変態だ。

 更に耳が熱くなる。


 あのまま、あの場所にいたら完全にバレてたと思う。


「帰るか……」


 今は考えないようにしよう。そう思った。

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