第五歩 帰路

 今の状況を伝えようにも言葉が見つからない。今までの人生の中でこんなことが一度でもあっただろうか。いや、そんな事絶対に無い。


 私は今大雨の中、濡れずに下校している。傘を忘れたのに、だ。


 原因と言うべきか、様でとでも言うべきか。私の隣で傘をさして歩いている優等生は一体何を考えているんだろう。


 傘は常備しておくべきだった。一日中ずっと雲行きは怪しかったが、帰る直前になって見事に夕立ゆうだちを降らせてくれた。それで私が呆然と立っている所に彼が、

「傘、入る?」

 と聞いてきたのだ。

 無理だ。

 直感的にそう思った。別に好きでもない男子と相合傘なんて私には無理だ。

 そうは思っても雨は止む気配を感じさせない。しばらく思案してから、


「じゃあ、お言葉に甘えて…」


 濡れても良いから全力で家に帰ればよかった。後悔の念だけが私の心に残り続ける。

 彼は快く承諾し、一つの傘の下で並んで下校している。


「…赤井君も帰り、こっちの方なんだ」

「ん?そうだよ」

「…」


 必死な思いでなんとか会話を試みるが、彼の事を何も知らない私には苦でしかない。

 あれ、会話ってこんなに難しかったっけ…


「橘さん」

 急に呼ばれて反射的に水溜りを見ている顔を上げて私よりも一回り大きな赤井君を見る。


「な、何?」

なんだろう。何か言われるようなことしたかな。

 私は雨音を聞きながら少し弱腰になる。いつもは彼に対して悪態ばかり付いている筈なのに、こんな時に限って本当に自分が情けなく思う。


 彼が口を開く。


「あのさ、流石に豊村先生の授業で寝ちゃうのは流石にまずいと思うよ」


「………は?」

 一瞬意味が分からなかった。こっちは何を言われるのかを考えるのに精一杯だってのに。


「あ、いや、橘さんの事情は僕には分からないし、凄く疲れてたのかなって思ったんだけど、やっぱり数学はちゃんと聞いておかないと…っていうか…」


 恥ずかしくなった。

 彼に説教されるとは思わなかった。自分の顔が物凄く火照っているのが分かる。一秒たりともこの場に居たくない。


「…傘、入れてくれてありがとう。もう大丈夫だから…」

 そう言い捨ててその場を逃げるようにして後にした。


 雨の中を全力でダッシュするのは案外気持ちの良いもので、火照っていた頬もいつの間にか雨に冷やされていた。

 もっとも、心の中までは冷やしてくれなかったのだが。


 家に帰ると、母が心配そうに立っていた。


「おかえり。奏、傘持ってなかったでしょ?雨大丈夫だった?」

「ちょっと濡れただけだから大丈夫」

「お風呂沸かしてるから、濡れてる服洗濯機に入れといて」

 うちの母は気遣いの塊だと思う。ちょっとおっかない所もあるけれど、それでも優しい人で、凄く尊敬している。


「うん、わかった」

 そう言って風呂場に向かった。


「はぁ……」

 思わず溜め息がこぼれてしまうのは彼のせいだろうか、それとも自分のせいだろうか。

 白く漂う湯けむりが換気扇に吸い込まれていくのを見つめながら、ふとそんな事を考えてしまう。

 こんな事考えてる場合じゃないんだけどな。


 湯船ゆぶねいっぱいに足を伸ばす。水面が波打ってザーッとお湯が少し溢れた。

 風呂上がりにはちゃんと勉強しようと、軽くのぼせ始めた頭で思った。

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