第四歩 試験と


 夏の風物詩には欠かせない「前菜」という物が存在する。これは夏を満喫する為には逃れることのできない、回避不能の代物と言っても過言ではないだろう。


 それは、

『一学期 期末試験』だ。


 中学校の三年間、幾つもの試験があった。だが、この時期になると夏休みがやって来る事への興奮と試験への不安の感情が入り混じり、もはや憂鬱を超えて耐え難い苦しみとなっているのが通例だ。


 梅雨つゆ明け間近の黒く、灰色を帯びた空は、分厚く今にも夕立でも降らしそうな大きな雨雲を私の視界に映し出している。


 私がもう少し勉強ができたらこんな気分にはならないんだろうな。


 そうは思いつつも、いつも勉強不足で試験に挑んでいることは否定できない。

 試験は二週間後、七月の第一週目に行われる。それまでになんとか勉強を終わらせなければ。

 流石に中学校の試験と同じようにはいかない。高校の成績は大学進学にも響くからだ。


 そして私は皆が下校して静まり返った教室で一人寂しく勉強しているわけだけど...


 全く捗らない。


 勉強があまりできないのは十分理解しているはずだが、高校分野に入ってからはかなり危機的状況に置かれている。

 数学は勿論のこと、理科や国語も中学分野に比べて遥かに難しいものとなっている。


 暗記のある歴史や地理といった社会は得意なのでテスト勉強も進むのだが、数式や化学式となるとどうしても気が滅入る。

 なんとかここまで成績を落とさずに現状を維持しているのは奇跡と言っても過言ではないだろう。


 外が薄暗くなってきたので電気を付けようと席を立ち上がった。それから、スイッチに向かって歩き出した瞬間…


 キュッ キュッ キュッ キュッ


 廊下を誰かが走っている。

 見回りの先生にしては時間が早すぎるし、そもそも廊下を走る理由がない。

 じゃあ、一体誰?


「クソっ、俺としたことがやっちまった」

 大きな独り言だなと思いつつもその声には聞き覚えがあった。

 でも、まさかね。彼がそんなこと言うわけないか。きっと他のクラスの子が忘れ物でもしたのだろう。

 そう決めつけて歩みを止めないでいると、その音は明らかにこのクラスの前で止まった。

 嫌な予感が背中に走り、そしてドアから顔を出したその人はまさしく「嫌な予感」そのものを私に突きつけた。


「あれ、橘さん?」


「赤井、君…」


 無垢むくな表情で私を見つめる彼は「優等生」そのもので、私のような半端者は、早く立ち去りたいという願いしか無い。


 「まだ、残ってたんだ。勉強?」

そう爽やかな口調で問う彼の周りにはオーラが立ち込めている。

さっき廊下で言っていた独り言とは随分違う物言いじゃないかと、頭が混乱する。


「あ、赤井君はなんか用があって戻ってきたの…?」

 なんとかパニックを抑えて口を動かす。彼にだけは私の焦ってる姿なんて見せるわけにはいかない。


「ああ、ちょっと忘れ物しちゃって。取りに戻ってきたんだ」

 溢れ出る優等生オーラを放ちながら、彼は微笑む。はっきり言って不気味だ。

 それにしても、ここで孤独に勉強してたなんて言えたもんじゃない。


「あ、ごめん、先帰るね、それじゃ!」

 そう言って話を無理矢理終わらせてさっさと帰途きとに着こうとする私はどう見えているのだろう。逃げているみたいで自身にいきどおりを感じる。

 でも関係ない。のらりくらりとやり過ごすのは得意だから。


 急ぎ足で靴箱に向かう。当然のことながら他の教室に生徒の影は無い。とにかく早く帰ろう。


 靴を履き替えたのとほぼ同じタイミングでぽつり、ぽつりという音が聞こえた。音の発生源は勿論、雨雲からだ。

 音は次第に連鎖し、遂にはザーッという轟音を空間に響かせた。


「……傘、持ってくるの忘れた…」

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