10:神なる森の祝福

 魔王の掌から、冷たい光が一閃した。

 勇者の大盾が、鏡のごとく光線を弾く。逸れた軌跡が石の壁を打ち、爆音が万魔宮を揺らした。


「まだ音を上げんか」


 魔王が禍々しい笑みを浮かべる。漆黒のローブと蒼い肌との上、獅子のたてがみめいた白い長髪には一筋の乱れもない。


「この程度、森の殺人蜂キラービーの方がよっぽど痛いぜ!」


 勇者は、鏡の盾を下ろし笑い返す。だが息がわずかに速い。

 浅黒い頬に、黒髪が幾筋も汗で張り付いている。細い三つ編みに結われた髪は、所々がほころびかかっていた。

 この世の全てを闇へ堕とす――その宣告と共に、魔王の軍が世界を席捲して久しい。人の最後の希望として「神なる森」の戦士は勇者の名を受け、長き旅の果て、魔王と対峙するに至った。

 だがいまや、死闘の趨勢は魔王有利に傾きつつある。

 疲労の色濃い勇者を見下ろし、魔王は喉をくっくっと鳴らした。


「己が地を護らんとする、か弱き者の尽力。涙ぐましいものよ……だが勇者よ、貴様は知っておるか。『神なる森』の正体を」

「おまえの出まかせなど知るか!」


 聖剣に光を纏わせ、勇者が間合いを詰める。だが隙を狙った一撃は、易々と魔王の錫杖に弾かれた。

 体勢を整え直す勇者と、魔王との間に黒い空間が広がる。中央に、うつつと見紛うほど鮮明な映像が現れた。


「見よ。これが『神なる森』の真実」


 映像の中、ひとりの人が立っていた。胸より上は雲を纏い、足は大海を踏みしめている。だが海水に浸っているのは足首程度だ。身には何一つ纏っておらず、体毛や毛髪の一筋も見えない。

 何かに気付いたように、勇者は目を見開いた。


「これは神話の『始祖の巨人』?」

「博識だな。だがその先は知るまい」


 映像の中、人が傾ぐ。身体が見る間に海中へ倒れ、激しい飛沫しぶきがあがった。


「神々は『始祖の巨人』の死を悼んだ。そしてむくろを飾り弔った」


 浮かぶ巨体の各所が、ほのかに輝く。光が去った後には様々な装飾が現れた。腰には純白の布が、胸と手首には牙を連ねた環飾りが、耳と鼻には玉飾りが。


「布で覆われた地が『白の砂漠』となった。牙が置かれた地が『獣の平原』となった。宝玉を付けられた地が『輝石の鉱山』となった。そして――」


 一筋の髪もなかった頭部は、いまや豊かな黄褐色の毛で覆われていた。亜麻糸を思わせる明るくやわらかな毛が、一部は水面にたゆたい、一部は三つ編みに結い上げられて、眠る巨人の顔を飾っていた。


「――作り物の髪が、森となった」


 含み笑いと共に、魔王は勇者を一瞥した。

 幾分の当惑を含んだ瞳が、睨み返す。


「何が言いたい」

「まだわからぬか。貴様らが『神なる森』と崇める物の正体は――」


 魔王が錫杖を振り上げた。先端の黒水晶に、禍々しく冷たい光が凝集していく。

 勇者が鏡の大盾を構えた。魔王は目尻を下げ、愉快げな冷笑を浮かべる。


「――巨人の『カツラ』にすぎぬのだと!」


 映像が霧散した。

 先刻に倍する圧の光線が、勇者を正面から打つ。


「っぐ!!」


 盾が光を弾く。

 だが、耐えきれぬのは人の身の側だ。足元が大きく揺らぎ、勇者は床へと倒れ込む。

 魔王が高く哄笑した。


「さらばだ勇者よ。否――」


 一歩一歩。見せつけるように、勇者へと近づいていく。


「――『カツラ』ごときを崇め奉る、か弱き者よ!」


 高笑いと共に、錫杖を振り上げる。

 だが一瞬の後、禍々しき笑いは凍りついた。

 魔王の腹に聖剣が刺さっていた。光を帯びた刀身は、漆黒のローブへ深々と突き立ち、傷口からは悪臭を伴った黒い血が垂れ落ちている。

 力強い笑い声が、あがった。


「よぉく知ってるぜ。知らないとでも思ってたのかよ」


 立ち上がり突進してきた勇者が、笑っていた。

 荒い息で、しかし眼光は炯々けいけいと光らせ、口角を大きく引き上げて、笑っていた。

 勇者の頭部は、髪の毛に覆われていなかった。豊かな黒髪が、さきほどまで倒れていた床に丸々残されていた。

 青々とした剃り跡を晒しつつ、勇者は聖剣を引き抜いた。黒い血が革手袋を濡らす。


「ご先祖様から伝わってる。俺たちの森は、神様が与えたもうたカツラなんだってな。だから――」


 輝く聖剣が、魔王の左胸を貫く。

 凄まじい、断末魔。


「――代々、森の戦士はカツラなんだよ。神様のご恩を、ご加護を、これまでもこれからも忘れないために!」


 魔王の身体が崩れ、塵となって消えていく。

 戦いを終え、勇者は床にへたり込んだ。見上げた万魔宮の天井は、戦いのさなかに逸れた光線で穴だらけだ。垣間見える空では、吹き散らされた黒雲の隙間から、幾筋かの陽光が漏れていた。

 美しい声が不意に響いた。


「勇者よ。魔を退けし、勇敢なる戦士よ」

「……神様、ですか」


 答えの代わりに、一筋の光が勇者を照らす。


「我らの古き物語を伝え続けてきたこと。我らの恵みのために力を尽くしたこと。深く深く感謝します……これは、我らの心」


 勇者の頭部を、温かい光が包む。光輝が引いた後には、黄金の花冠が幾重にも咲き誇っていた。

 薔薇、百合、霞草……勝者の頭を飾る百花は、さながら、黄金のカツラであった。


【了】

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