05:カイロマスター佐藤君
今もそうなのですが、当時からN駅前は予備校の街として賑わっていました。駿台、河合、東進といった有名予備校がバチバチと火花を散らし、その隙間にまるで仲裁するかのように他の予備校がひしめく、恐ろしい街でした。
その中に、有名な中学受験予備校がありました。中学受験とは、思春期の子供に親が莫大な金と手間をかけて勉強をさせ、合格という当たりくじを引こうとする、やたら効率の悪いギャンブルを指します。
小学六年生ともなると、塾生たちは親と予備校から毎日プレッシャーを与えられます。算、国、理、社、最高レベル特訓。日々勉強漬けで、娯楽もありません。講師もテストの点数も怖い。そんな中で、授業の合間の休み時間に、同級生と交わす雑談だけが、わずかな息抜きでした。
調べれば分かりますが、その予備校には飛び級という制度があります。飛び級生は五年生にして、六年生と同じ授業を受けます。つまり地獄の受験生生活を、他人の二倍の期間過ごすわけです。
しかしそんな優秀な塾生ばかりではなく、僕のような凡人は学年通りに授業を受けます。六年の夏期講習が終わると志望校別特訓がはじまり、僕はそこで初めて飛び級生と同じクラスに編成されることになりました。飛び級生の一人を佐藤君としましょう。本名です。
成績トップの佐藤君は、このクラスで最高の発言権を持っていました。男子最難関コースも二年目、勝手を知り編成時から既に知り合いまみれの彼は、クラスを完全に仕切っていました。そんな彼が、休憩時間に教壇の前で叫んだのです。昨年の六年生に聞いた、男子最難関コースに代々伝わる噂とのことです。
「塾長はヅラや!」
各校舎の凡人優等生を集めたよそよそしいクラスが、その瞬間一気にまとまりました。ストレスのかかった小学六年男子は、得てしてハゲとヅラが好きなのです。
ここは男子最難関コースですから、滅多に姿を見せない塾長自ら、教鞭を取って授業をしています。確かに塾長は年齢にしてはフサフサすぎました。
「塾長が転んだ時、副塾長がとっさに上着を塾長の頭にかけたらしい!」
それは怪しい。絶対にヅラに違いありません。
「去年は失敗した。今年こそ、塾長のヅラを奪うんや!」
教室が燃え上がりました。どのように塾長のヅラを奪うか、休み時間のたびに話し合いが行われました。伸ばせば三〇センチになる定規で奪う。ブレーカーを落としてその隙に奪う。
どれも現実的ではありません。そもそも塾長は怖いし、授業はピリピリしています。簡単に近寄れる相手ではありません。佐藤君の頭脳をもってしても、塾長のヅラを奪う名案は生まれませんでした。
「君らね、塾長のヅラを剥ごうとするのはやめなさい」
「塾長はヅラですよね?」
「それは……」
毎年のことですから、副塾長もこの計画はご存知です。呆れ返って生徒に説教をします。しかしその程度で諦める生徒が、男子最難関コースにいるはずもなく。諦めの悪い連中揃いでした。
冬になり、直前特訓は一日十時間を超え、塾生たちのストレスは限界に達していました。塾長のヅラはまだ奪えていませんでした。流石の佐藤君も、疲れの色が見えていました。
「今日やったるわ」
その日、珍しく不機嫌そうだった佐藤君が、貼らないカイロの封を開けました。よくそれでキャッチボールして怒られていたカイロの扱いは、二年も受験生をやった彼にはお手のものです。
佐藤君が力任せに、教材を持って廊下を歩く中年男性の頭をめがけ、カイロを投げました。まっすぐに飛びました。後頭部をかすめ、カイロは明後日の方向に飛んで行きました。
その勢いで、頭から黒い何かがポロリと落ち、その下から肌色の何かが見えました。
間違いなくヅラでした。わぁっと教室から歓声が上がりました。
ヅラを拾い上げ、頭の光る男が、鬼の形相で振り返りました。
「誰や! カイロ投げたんは!」
副塾長でした。
教室が凍りつきました。
「副塾長もヅラやったんや……」
佐藤君はがっくりと膝を落としました。思いがけぬ収穫でしたが、それは本懐ではありません。
僕たちは全員こってり絞られました。なかなか校舎から出てこない僕らを待つ親の車が、N駅前にたくさん停まっていたそうです。佐藤君をはじめ、首謀者何人かは親が呼び出されたと聞いています。
結局、塾長のヅラを奪えないまま、僕らの中学受験は終わりました。もちろん受験会場では、佐藤君主催のカイロのキャッチボール大会が行われました。
佐藤君は見事合格、僕は不合格で併願校に進みました。あの名門中学は、地獄の受験生生活を二年やっても平気な顔ができる人が行くところだと思い知りました。
頭が良すぎて有名人と化した佐藤君は、その後東大に進学したそうです。
七割くらいが実話です。今調べてみたら、塾長も副塾長も変わっていました。男子最難関コースに代々伝わる噂は、もう残っていないのでしょう。
僕の知るヅラのエピソードはここまで。それでは皆さん、さようなら。
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