7枚目 脇役どころか悪役だ

 ——放課後の劇の練習が終わるころには、空の色がオレンジと紫の混色になっている。

 私は茶色の屋根のお家の前にいた。私の家の屋根は黒色。じゃあ、目の前のお家は誰の家なんだって?

 美香ちゃんのお家だ。

 お昼休みに職員室に呼ばれたのは、宅配を依頼されたからだった。お休み続きの美香ちゃんに、プリントや宿題を渡してきてほしいって。

 土曜日の一件以来、ほとんどお話ししてなかったから、何だか変に緊張してしまう。

 一回、不自然なくらい長い深呼吸をしてから、私は呼び鈴を押した。

 どのくらい待ったんだろう。数秒だったかもしれない、数分だったかもしれない。私に分かるのは、虫の声一個も聞こえない中で待ち続けるのは、とてつもなく長く感じるってこと。

 恐る恐る扉が開いていく。扉の向こうにいる人の正体は分からないけれど、私の態度をうかがっているのが伝わってくる。

 時間をかけて扉が開いていき、ようやく半分に到達したところで、玄関に立つ人物が発覚した。


「美香ちゃん……!」

 私の呼吸が止まってしまった。美香ちゃん本人が出て来たこともそうだけど、その美香ちゃんの姿が、あまりにみすぼらしいものだったからだ。やせているというより、やせすぎだし、色白というより青白くなっていた。

「大丈夫……? これ、学校からの手紙」

「……うん」

 力なくうなずいた美香ちゃんは、私が差し出したプリントを摘まんで受け取った。

「……ねえ、劇、どうなった?」

「劇? みんな練習しているよ。美香ちゃんがいなくても、できるところから」

 私が答えると、美香ちゃんは肩を落とした。

「……このまま私が休んでいれば、お姫様の役、他の子にならないかな。東条さんとか」

「難しいと思うよ。男子が許さないと思う」

 美香ちゃんが首を下げる。前髪が目を隠してしまう。

「どうしてそんなに、お姫様の役をやりたくないの?」

 私はとうとう聞いてしまった。美香ちゃん以上に、お姫様にふさわしい人なんていないのに。私に美香ちゃん並みの容姿があれば、自信たっぷりで主役を演じただろう。


 美香ちゃんは、吐息まじりに、一個一個の言葉をポツポツと置き始めた。

「私、男の人を好きになるって、分からないんだ。みんなが憧れている芸能人を見ても、ステキだって思ったことはない。もちろん、嫌いってわけじゃないの。ただ、興味を持てないってだけ。芸能人だけじゃない。同じクラスの子も、先輩も、同じ」

 私が口を挟める空気じゃない。一言も割り込ませる余裕がない。

「だから、クラスの子や先輩に告白をされても、断ってきた。たぶん、私にはまだ、恋愛って早いんだよね。好きって気持ちが分からないのに、お付き合いなんてできないでしょ? それなのに、すましているとか、お高くとまってるとか言われて……冷たいって思われてるのかなって思って、笑顔を作るようにしていたの。そうしたら今度は、こびを売っているとか、ぶりっ子とか……もう、どうしたらいいか分からなくて……」

 美香ちゃんの声が波打ち始める。

「私、もう嫌だよ……! 男の子たちにじろじろ見られるのも、その度に、女の子たちから悪口を言われるのも……! こんな見た目のせいで! 隣にいるだけで友達を傷つけちゃうような、こんな顔のせいで! 私は目立ちたいわけじゃない、モテモテになりたいわけじゃない。ただ、日景ちゃんと楽しくお話しできれば、それでいいのに……!」

 美香ちゃんは顔を激しく左右にふる。髪の毛が無造作にゆれて、涙が飛び散る。

「美香ちゃん……!」

 私が美香ちゃんの手をとるより前に、扉は音を立てて閉じてしまった。

「美香ちゃん! ねえ、美香ちゃん!」

 私は扉をグーで叩いた。だけど、扉が開くことはない。私と美香ちゃんの間にあるのは、たった一個の扉だけ。それなのに、美香ちゃんがずっとずっと遠くにいる気がした。

 喉が痛くなって、足の力も抜けて、私は力なく座り込んでしまった。

 私、美香ちゃんのこと、何にも分かっていなかった……ううん、違う。

 分かろうとしていなかった。


 ヴワアアアアアアアアァァァァァ!

 あっという間に周りが暗くなった。同時に聞こえた、地面が割れるんじゃないかっていうくらい、低くて大きな叫び声。それに背中を刺された私は、ハッと後ろを見る。

 巨大な人型のバケモノ。私があごを大きく上に向けて、ようやくバケモノの頭を見ることができる。てっぺんから生えている二本のツノは、くるりと曲がっていて、先っぽが肩につきそうになっている。口は白ひげでおおわれている。

 身体にはいくつもの鎖が繋げられている。体つきが左右で違っていて、左側が男性、右側が女性だ。両手には、大きくて長い鎖が握られている。


 まさか、アスグイ……⁉


 アスグイは右手をあげて、鎖を思い切り振り下ろした。あたりの家がすさまじい音を立てて崩れていく。

「早く静めなきゃ……!」

 私は急いでカバンを開ける。タロットカードを出さなきゃ……!

「あった……!」

 タロットを見つけて一安心した私に、黒い影が覆いかぶさった。

 アスグイが左手をふりかぶっている。それは下ろされる寸前だった……私の上に。美香ちゃんのお家に。

「やめて……!」

 ここはアスグイの世界。現実じゃない。だから、美香ちゃんがいないことは分かっている。だけど、それでも、私は扉の前に手を広げて立っていた。

 鎖の落ちてくる速度が、スローモーションに見えた。

「月嶋!」

 私の目の映像が、一気に加速した。

「え、鈴村く——」

 私の前に駆けてきた男の子の名前を呼ぶヒマはなかった。

 落ちてきた鎖をつかんだ鈴村くんは、そのまま鎖を握り続ける。

「鈴村くん、どうして」

「今のうちに、アスグイを」

 私はハッとした。そうだ。タロットを出さなきゃ!

「ワタシ、シュジンコウニナンテ、ナリタクナイ! オヒメサマナンテ、イヤ!」

 アスグイから聞こえた、甲高い声が、私の手をとめた。

「コイトカ、アイトカ、シラナイ! オトモダチト、イッショナラ、ソレデイイ!」

 カタコトの金切声だけど、アスグイの言い分には聞き覚えがあった。だって、ついさっき耳にしたばっかりだから。


 このアスグイって、まさか……


 アスグイの叫び声で私は我に返った。鈴村くんから鎖を取りもどしたアスグイが、鈴村くんを踏み潰そうとしていた。

 アスグイが動くたびに、ガチャン、ガチャン、と鎖の音がする。

 頭を左右に振った私は、『THE LOVERS』のカードを取り出す。

「世界を象徴せしタロットよ、我に、正しき明日を導く力を与えたまえ!」

 唱え終わった私はホッと息をついた。

 それは愚かだった。

 アスグイの足は止まらない。鈴村くんは横にとぶ。間一髪で潰されるのを免れた。

 なんで、どうして、ちゃんと呪文は唱えたはず……!

 アスグイを止められない。アーくんもイーちゃんもいない。

 このタロットじゃ、あのアスグイを静められないってこと……?

 鈴村くんがアスグイの拳を受け止める。そんなアスグイの容姿が、私の視界に入ってくる。男性と女性が混ざった姿。『THE LOVERS』の他に、男性と女性が二人で描かれたカードは——

 私は『THE DEVIL』——『悪魔』のカードを取り出した。男女を見つめる悪魔の姿が描かれたカード。背景は真っ黒。同じ男女の絵でも、楽園を描いた『THE LOVERS』とは正反対だ。

 絵柄をアスグイに向けるから、私に見えるのはカードの裏面だ。月が上、太陽が下になっている。

「世界を象徴せしタロットよ、我に、正しき明日を導く力を与えたまえ!」

 カードから大きな黒い炎が生まれる。それがビームのように、アスグイに向かって噴射する。炎に包まれたアスグイは発狂している。

 手が熱い。ドロドロに溶けてしまいそうだ。私は歯を食いしばる。

 私の手に、骨格のハッキリした手が重なった。その手は痛々しく腫れていた。

「鈴村くん」

 私の言葉に、鈴村くんは無言のうなずきだけを返した。

 鈴村くんの力のおかげか、炎がますます大きくなった。私たちの手が燃えつきるのが先か、アスグイが灰になるのが先か。

「美香ちゃんの未来あしたを奪うなああああああ!」

 ありったけの力をふりしぼるために、私は人生最大の大声を出した。

 炎の勢いが、空を焦がすくらい巨大になった。アスグイは、頭のてっぺんから足の先まで焼き尽くされる。アスグイがどんどん灰になっていく。最後に残った鎖も、跡形がなくなった。

 アスグイが完全に燃え散ったところで、景色がもとに戻った。

 私は足の感覚を失っていた。だけど、一目散に、美香ちゃんのお家の扉にすりよった。傷ひとつついていない。

 よかった。お家の中の美香ちゃんは無事だろう。

「怪我してないか」

 胸をなでおろした私に、鈴村くんが声をかけてくれた。ふだんは落ち着いている鈴村くんの、あせった表情はめずらしくて、私の心がざわざわする。

 そこで私は、両手が熱くなっているのを感じた。その手を背中に隠して答える。

「大丈夫。鈴村くんの方が心配だよ」

「自分は平気だ」

 鈴村くんは、右手を左手で覆った。アスグイと戦っている時に、鎖にぶつかるなり、拳で殴られるなりしたんだろう。

 私の質問に答えた鈴村くんは、次は自分の番だと言うように聞き返してきた。

「……何かあった?」

「え、どうして?」

「ここ最近……公園に行った帰りから、元気がない」

 鈴村くんの目尻が下がった時、私はひどい劣等感におそわれた。

 鈴村くんにとって、私はただのクラスメイトでしかない。それなのに、私の異変に気がついてくれる。心配してくれる。

 それと比べて私は、友達だったはずの美香ちゃんのこと、何にも分かってなくて。美香ちゃんと自分の容姿を比較してヒクツになって、美香ちゃんを突き放して……!

「私は大丈夫だよ。私より、美香ちゃんの心配をしてあげて」

 鈴村くんは眉をひそめる。

「鈴村くんも、美香ちゃんと仲良くなりたかったんでしょ? 私は大丈夫だから」

 目の周りの筋肉がゆるまないように、私は唇をかみしめる。

「大丈夫に見えない。自分は月嶋が心配だ」

 鈴村くんの瞳から、私は逃げる。いつもの冷静な鈴村くんとは違う、不安げな目が、揺れている声が、私の良心をグサグサと突き刺してくる。

『『美人度に最も差がある二人組を見つけたヤツ優勝!』、コータが過去最高のー、八十点ー!』

『蒼も月嶋さんも、何で俺と朝比奈さんに投票したの?』

 公園で聞いた言葉が、頭の中でのたうち回る。その衝撃で、脳が激しく痛む。痛みは心臓にまで侵食してくる。胸の痛みを吐き出すために、私の口は暴走する。

「私なんかの心配しないで……! 美香ちゃんと仲良くなるために利用されるのは、もう嫌なの! 私はひどい人間なんだから、もうやめて!」

 私は一目散に駆けだした。鈴村くんの私を呼び止める声が聞こえたけど、無視をした。

 鈴村くんに背中を向けてから、私の目の周りから一気に力が抜けた。台風の日の河川みたいに、あふれてくる涙が止まらない。

 ……バカ、バカ、バカ!

 何であんなこと言っちゃったの、私!

 自分を心配してくれている人に対して、あんなこと……!

 こんなの、脇役どころか悪役だよ……!

 悪役のくせに被害者ぶって泣いてるなんて、私、本当に嫌な子だ……!

 情けなく走る私のことを、夕焼けが見下ろしている。その色は真っ赤で、まるで私に怒っているみたいだった。

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