後編

「ほしくびぃ?」

 あまりにも突拍子の無い鬼平おにひらの言葉に、我知らず頓狂な声を上げてしまった私の口を、鬼平おにひらが咄嗟に両手で塞ぐ。

「馬鹿か、あんたは。村の連中に聞かれたらどうする」

 与太話を聞かれたところで、どうなるものでもないとは思うが、それでも鬼平の権幕と威圧に押された私は、声を低くして彼に尋ねた。

「何を言い出すんだ、君は。ここは日本だぞ。干し首なんかあるわけないじゃないか」

 半分馬鹿にしたような口調で返す私の脳裏に浮かび上がった、ホラー作家としての干し首に関する雑多な知識。


 人の手により大人の握り拳大にまで縮められ、閉じた両眼と口を無残に縫い合わせた紐を垂れ下げた、鉛色ないし土器色をした「頭のようなモノ」。

 その髪の長さや髪型は生前のままで個人差があり、またビーズ等で仰々しく装飾されていることも少なくない。

 いずれにしろ、私にとってはグロテスクで忌まわしい、未開文明の悪しき風習でしかない。

 干し首を作っていたのは、南米の奥地に住むヒバロ族という少数民族。

 きわめて好戦的だった彼らは、戦闘で狩り落とした敵の首を加工し、それを「ツァンツァ」と呼んでいたらしい。

 しかしヒバロ族にとって、殺害した人間の頭部を加工するというグロテスクな行為そのものに猟奇的な意味合いはほぼ存在せず、犠牲者の肉体を加工し呪具とすることで、殺された人間から生ずる怒りや恨みの霊を鎮め、同時にツァンツァの制作者を守護するよう使役するのが目的であり、その点を加味すれば、ツァンツァの作成は宗教的意味合いの方が強い。

 もちろん、敵対部族に対する威嚇の意図もあったようではあるが。

 現在は行われていない儀式であり、それだけにツァンツァそのものは希少で、世界中の悪趣味な好事家が御守りとしての本来の役割も兼ねて渇望しているのだそうだ。

 もっとも、儀式が行われなくなった以前から、白人らの手に渡った干し首の多くは紛い物であると言われている。殺した相手の頭部が激しく損傷していた場合、猿やナマケモノの頭部を代用品としたツァンツァを制作することもあり、売買されているツァンツァの殆どはそういった紛い物であるという都市伝説が、実しやかに流されている。

 紛い物であるか否かを見極める方法の一つとして、鼻毛の有無が挙げられる。

 ツァンツァの鼻の穴を見ると、紛い物には鼻毛が無いのだそうだ。


「あんな南米奥地の蛮習が、日本にあるわけないだろう」

 ヒバロ族を蔑むつもりは無いが、日本人がそこまで野蛮であるとは思えないし、思いたくもない。

「先生、とにかく着替えながらでいいから俺の話を聞いてくれや」

 別人のようにぞんざいな口を利く鬼平に唖然とするものの、私は彼の言葉に従い、寝間着から自分の服に着替えることにした。どうせ出発は早朝なのだから、今のうちに着替えを済ませておいても特に問題はあるまい。

「着替えたら、荷物をまとめて出発だ。誰にも見つからずに村を出るぞ」

「おかしなことを言うなよ。第一、私の登山靴は玄関にあるんだ。玄関まで行けば、さすがに村長か誰かが気付くだろうよ」

 今の鬼平に合わせてしまうのか、私の口調もぞんざいなものに変わりつつある。

「まさか、裸足で山歩きしろとか言うんじゃあるまいね?」

「俺が、何も考えず一直線にここまでやって来たと思ってんのか」

 何処から取り出したのか、鬼平は一足の登山靴を犬走りに置いた。

 色と汚れ具合、擦り切れつつある靴紐の形状から、私が愛用している登山靴であることは間違いない。

 こうなっては、四の五の言わず鬼平に従うしかない。


「干し首を南米限定と思い込むのは研究不足だ、先生。作家失格だな」

 私がシャツに袖を通していると、鬼平は小声で心外なことを言い出した。

 お互いにプロとはいえ、カメラマンが作家に対して言うべきことじゃない。

 それを告げようとするより先に、鬼平の方が言葉を続ける。

「確かに、干し首と言えば南米のヒバロ族が有名だろうが、東南アジアや台湾の原住民族にも干し首の風習があったのを知らないのか?」

 意外な情報は私を驚愕させるには十分だったが、鬼平の弁舌は止まらない。

「それに日本だって、首狩りに縁が無かったとは言わせねぇぞ。戦国時代の首実検に封建時代の晒し首、どちらも斬り落とした首を衆目に晒すことを目的としていたじゃねぇか」

「それは討ち取った敵将や処刑された罪人が本人であることを証明するために行ったのであって、儀式的な意味合いは無いだろう。第一、それらの首は用が済んだら速やかに埋葬され、弔われていたじゃないか」

 一応の反論を試みたものの、説得力に欠けるところがあるのは否めない。首実検も晒し首も、勝者や為政者の権威を誇示し周囲を恫喝する効果があったことは事実だし、またそのような目的を兼ねていたことは確かだろう。その点だけなら儀式と大差ないのだ。

「しかし、いくら干し首村という名前だからって、村人たちが僕らを干し首にするとは限らないじゃないか。今は平成だぞ? そんな風習、とっくに廃れてしまったとは考えられないか? いや、そう考えるのが普通だろう?」

「ところが、そうじゃないんだよなぁ」

 どこか、人を小馬鹿にしたような顔つきになる鬼平。彼の視線の先に居るのは私か、それとも現代の常識で全てを推し量ろうとする人間なのか。

「ここ数年、このY県O山脈付近で消息を絶った旅行者が複数いるんだ。彼らは登山家でもないのに山脈の麓を訪れ、この村の近くで目撃されている。俺はそういう行方不明者の足取りの調査に来たんだ」

「カメラマンが?」

「そっちは副業だ」

 副業でも収入になっているのだから、羨ましい話である。

 行灯を縁側に移動させ、ほのかな灯の下で登山靴を履いている間にも、鬼平の解説は続く。

「行方不明者の死体どころか、事故や自殺の痕跡すら一件も発見されない理由。それは誰かが死体を処分しているのではないか、と考えた」

「君が?」

 鬼平は答えず、私がまだ履いていない方の登山靴を己のつま先で小突く。

「こいつを回収する前に、気になっていた村のポイントを詳しく調べてきた。ミカシラサマのお社やしろも、その一つだ」

「あれか」

 私の脳裏に、小さいながらも粛然とした空気を漂わせるお社の内装と、御神体を包んだ紫色の袱紗が浮かび上がる。

「紫の袱紗《ふくさ》と両脇の台座、覚えているか?」

「ああ」

「袱紗に包まれていたのは干し首だ」

 とんでもないことを平然と言ってのける鬼平。

「まさか」

「事実だ。恐らく最初は首そのものを祀《まつ》っていたんだろうが、腐敗防止の目的で加工するようになったんだろう。両脇の台座には、どちらも毛髪が付着していた。掃除の合間に誰かが落としたってもんではないわな。両方とも中央の御神体に似たような干し首が置かれていて、俺たちに見られないよう隠したのかもしれない」

「本当に、見たのか?」

「袱紗の中身は、な。写真も撮ってあるが、見るか?」

「ここで現像できるのか?」

「デジカメを知らんのか、時代遅れなおっさんだ」

 カチンときたものの、デジカメの存在を忘れていた私に否がある。カメラマンだからデジカメで撮影してはならないという決まりは無いし、そもそも被写体は証拠物件である。むしろデジカメを使う方が当然だろう。

「で、どうする? 見るか?」

「いや、遠慮する」

 百歩譲って、この村で本当に作られていたとしても、本物の干し首など絶対に拝みたくない代物である。

「賢明だな。で、そのミカシラサマの代わりなのか、それとも左右の干し首の代替わりなのか、そこまでは知らねぇが、新たな干し首候補として目を付けられて歓待されたのが、俺たち三人だったってわけよ」

「信じられんよ、このご時世に」

 年号は平成、終戦からは六十年以上経っている。電力に起因する情報が氾濫し、若者は神仏を敬いこそすれ信じてはおらず、如何なる理由であれ殺人は法の名の元に罰される日本社会で、人身御供が続けられているとは到底思えない。

「電気も通らず人の訪れもまれ、戦前から時間が止まっているも同然……ご時世なんて言葉とは無縁の限界集落だぞ。科学より習俗を優先していたとして、それがおかしいと思うか?」

「だが」

 そんな理由で人を殺すのか。いや、殺せるものなのか。

「村にとっては、人柱みてぇなもんなんだろうな」

「人柱? 淀川は長柄橋ながえばしの話か」

「知っていたか」

「それぐらいなら。飛鳥時代、橋を架けようとしたところ失敗が続いたが為に人柱、つまり生け贄として誰かを埋めようという話になったところ、服に継ぎのある者にしようと決めた長者の袴から継ぎが見つかり、皮肉にも自身が人柱にされてしまった。それを聞いた娘がショックのあまり口をきけなくなり、実家に返そうとした亭主がその道中で鳴き声を上げた雉を射止めたところ、それを見た娘が『鳴かずば雉も射られざらまし』と呟いたことで知られる伝承だろう?」

 いわゆる「雉も鳴かずばうたれまい」の語源である。

 もっとも、この逸話は幾つか枝分かれしており、南北朝時代の説話では長者とその娘が子連れ夫婦に変えられていたり、雉が鳴いたのが人柱を決める時だったり、長野の久米路橋にも似たような逸話があったりする。

「なんなら郡上八幡城の人柱、およしについても語ろうか?」

「いらねぇ」

 およしとは、八幡城の改修工事の際に人柱として埋められた少女である。

 こちらは彼女の献身を称え、城内には祠と石碑、近くの寺には「およし稲荷」、さらには「およしちゃん」なる観光キャラクターとして、文字通り祭り上げられている。

 人柱については、ホラー小説の原案にしようと資料を漁っていたことがあるのだが、このおよしちゃんに限っては、ホラー小説のモデルとしては明るく扱われすぎるという、とんでもない理由で没にされてしまった過去がある。

「何が、およしちゃんだよ、ホントに」

 何故か苦々しい表情を浮かべながら、鬼平が呟く。

「坊主や美少女が、皆の為にと志願して人柱になる話は多いけどよ、実際にゃ志願や懇願みてぇな穏やかな決定ばかりじゃねぇ。何も知らない無実の人間を、行き当たりばったりで無理やり生き埋めにする、なんて荒っぽい人柱もあったそうだぜ。丸亀城の豆腐売りや利根川の一言の宮伝説は知っているか?」

 前者は築城の際、雨の日に偶々そこを通りがかっただけの豆腐売りを捕らえ、人柱として埋めてしまった話だが、後者は見覚えも聞き覚えも無い。

 正直にそれを伝えると、鬼平は大きなため息を吐いた。

「高木敏雄の日本伝説集だ。生き残ったら読んでおけ。まぁな、伝説なんてもんは都合の良いように出来ていて、城や堀が完成したり災害が収まったりした時には、称えられ語り継がれるだろうが、じゃあ人柱を埋めても状況が好転しなかった場合はどうなるかというと、みぃんな口をつぐんだまま語られずに忘れ去られちまう。人が犠牲になったことに変わりはないのに」

 何処か怒っているようにも、苛立っているようにも見える鬼平。

「話が逸れてしまったな。つまり村の連中が俺たちを手厚くもてなしていたのは、儀式の為の生け贄、干し首の材料として求められていたからなんだ」

「鬼平さん、いくらなんでもそりゃ穿うがち過ぎだろう。あれは人の善意から出たものであって、村にとっては珍しい来客を歓待したいという心情の表れだよ」

「先生、それでも作家かい。俺たちに対するもてなしが、いくらなんでも大袈裟に過ぎると思わなかったのかい。電気も通らない、電話も通じない辺鄙へんぴな村で、平成の世からやって来た毒にも薬にもならない人間が、普段とさして変わらない、少なくともそう思える程度には違和感のない宿泊が出来るなんてのは、もてなす側としちゃ、とんでもない労力だぜ?」

「ふむ」

 言われてみれば、確かに鬼平のいう通りだ。

 照明は仕方ないにしても、朝昼晩の食事に入浴、着替えに寝床の支度と、いかに村の最高権力者とはいえ老夫婦二人の力で三人の客をここまでもてなしてくれるのは、破格を通り越して異質ですらある。

 それでも便所は和式の汲み取りだが。

「先生、マレビト信仰って知ってるか?」

「そりゃまあ。民俗学上の定義の一つで、旅人を異国や異境からの神、あるいはその使者と認識して歓待する風習の根幹を成す要素のことだろう?」

「まあ、そんなとこだ。正しくは民俗学じゃなくて折口学だけどな。そのマレビトを神や神の使者ではなく、神に捧げる供物として扱っているのが、この村とミカシラサマの正体だ。推測だが、ミカシラサマを漢字に当て嵌めるとすれば、こうだろう」

『御頭様』

 鬼平が砂上に引いた三文字が、行灯の灯に照らし出されてぼんやりと浮かび上がる。

「先生。生け贄に求められるものって、なんだと思う?」

 すぐには思い浮かばなかった。

「神の御許に近づくためには、身を清めて穢れを払う必要があった。つまり美食と入浴だ。俺たち三人を祭祀に使う干し首用の生け贄としてもてなし、美食をもって村に繋ぎ留め、さらに入浴で身を清めて穢れを取り払っていたわけだ。昔から醜女しこめと痔持ちの男、色黒の豚は生け贄にならぬと言われているからな」

 冗談のつもりなのだろうか、鬼平は嬉しそうに表情を歪める。

「それと、昼前に吉野のおばさんが村を案内してくれただろう?」

「ああ」

「ミカシラサマの社に書いてあったんだが、あの案内ルートは、生け贄となるべき者がその役目を受け容れた証しとなる巡礼ルートだったぜ。俺たちゃ知らず知らずのうちに、生け贄になることを承諾させられていたらしい。まるでワンクリック詐欺だな」

 確かに――それが事実なら――ここまで酷い詐欺もそうは無いだろう。

 事実ならば、だが。

「村の連中が俺たち三人の干し首をまとめてミカシラサマに捧げるつもりなのか、それとも出来上がった干し首三つを並べて見比べ、一番出来が良かった奴をミカシラサマに捧げるつもりなのか、そこまではわからねぇけどな」

 仮に後者だとして、選ばれたのが私の干し首だったとしても、私自身にとっては栄光でもなんでもない。

「ま、そういうわけで俺ぁ今すぐこの村から抜け出すつもりだ。ついでにあんたも誘ったんだが、どうするね先生?」

「その前に、どうして僕を誘ったのか教えてくれないか? 立ち去るなら、何も言わずに一人で立ち去れば良かったじゃないか」

「そりゃあもちろん、一人よりは二人の方が心強いからだ」

 荒っぽい言葉遣いとは裏腹に、意気地の無い発言をする鬼平。

 しかし、もし彼が本気でそう思っているのならば、私より体格も根性も勝っている小暮こぐれを誘っているはずだ。

「それに、万が一にも村から追手がやって来た時には、あんたを捨て石にして逃げるつもりだからな」

 面と向かって言う以上は、本当はそんなつもりなど微塵も無いというアピールのつもりなのだろう。

 少なくとも、そうであってもらいたい。

「しかし、夜の山道は危ないと、昼間あんたも言っていたじゃないか。ただでさえ視界が悪く土地勘が無い場所を歩かなければならないというのは、僕たちにとって厳しい話じゃないか?」

「いや、夜中に脱け出した方が俺たちに有利なんだ」

「何故?」

「それだ」

 鬼平は、私の隣にある行灯を指さしながら続ける。

「ほぼ電気の無い生活をしている連中の照明器具は、緊急用のものだとしても型遅れの懐中電灯が精々だろう。対してこちらは、平成時代の照明器具で前方を明るく照らし出し、連中よりも遥かに安全かつ即急に進軍できる。この差は大きい」

 そこまで語ってから、鬼平は行灯に突きつけていた指先を私の方へと向けた。

「当然、照明は持っているよな?」

 答える代わりに、リュックサックから取り出したヘッドライトを無言のまま装着する。両手が塞がっていても正面を明るく照らし出してくれる、非常に頼りになる愛用品である。

 ヘッドランプのスイッチに手を伸ばしたところで、「待て」と鬼平の制止が入った。

「それを使うのは村を出てからだ」

 成程なるほど、村の中で使ったのでは流石に目立つ。

 鬼平の語った真相全てを鵜呑みにするつもりは無いが、彼と共に村を発つこと自体には異論はない。私としても、一刻も早くMがいるであろうH村を目指したい気持ちは変わらないし、それならば出発は少しでも早い方が良い。村長夫妻に何も告げず出発するのは多少なりとも気が引けるものの、もし鬼平の言っていることが間違っているのであれば、あの善良そうな二人ならば笑って許してくれるだろう。

 問題は、同行の約束をした小暮だ。

 恐らくは、これから私と鬼平の二人連れで彼を説得に行かなければならないのだろう。もし鬼平が既に小暮を説得していたのなら、彼もここにいる筈である。

 それに、万が一にも鬼平の言っていることが真実だとすれば、彼の身が危ない。

 引っ張ってでも同行させるべきであることに変わりはない。

 だが、たらふく呑んで泥酔していた小暮が、果たして鬼平の言うことをまともに信じるだろうか?

 素面の私でも半信半疑の与太話である。一度でも疑念を持たれようものなら、説き伏せるのは難しい。

 そもそも、深夜の出発に同意したからといって、酔いが回った身体で夜道をまともに歩けるものだろうか?

「じゃあ、小暮さんにも話をしておきますかね」

「小暮?」

 私の口から出た当然の言葉に、何故かきょとんとする鬼平。

「ひょっとして、もう話は通してあって、何処かで落ち合う予定になっているとか?」

「そりゃ無理だ。どう足掻いたところで死者は救い出せねぇ」



 昨晩の雨が嘘のように晴れ上がった二更の夜空を、鈍く輝く満月が煌々と照らしていた。

「何を言ってるんだ、君は。小暮さんはまだ生きてるじゃないか」

「手遅れだよ、もう。今頃は、八ツやつもりの爺さんか婆さんの手で首をこう、ばっさりと」

 言いながら、手刀を己の首筋に当て、ぱっと引く仕草を見せる鬼平。

「それに、奴ぁ爺婆に目を付けられている。あいつらの監視の目をかわして小暮だけを引っ張ってくるなんて不可能だぜ」

「もうとっくに酔い潰れて、自分の寝室で高鼾たかいびきかもしれないだろう?」

「寝室にはいなかったぞ。大広間から人の声は聞こえなかったし、もう逃げられない別の場所に運ばれちまったか、とっくに処分されちまったんだろうさ。諦めな」

 私が宴会を抜け出した時、鬼平は大広間に残っていた。

 それからすぐに退室したとしても、私が一服している間に着替え、ミカシラサマのやしろと小暮の寝室に潜入したうえで、玄関から私の登山靴を回収して此処までやって来たことになる。もしそれが事実なら、特殊部隊並みの迅速さと行動力である。

「それに、どのみちまともに歩けない身体じゃ足手まといにしかならねぇ」

「今なら酔いも醒めているだろうさ」

「先生、あんたが下戸だったのは不幸中の幸いだよ」

「どうして?」

「あの酒にゃ、恐らく痺れ薬か弱い毒が仕込まれていた筈だ。体の自由を奪われてから酔い潰れた態にして、俺たちが知らねぇ場所へ運んだんだろうよ。そうでなけりゃ、奴が寝室にも広間にも姿が見えねぇ理由が無ぇ」

「トイレとか、風呂は?」

「いなかった。まぁ小暮を救えなかったのはしょうがねぇ。むしろかえってよかったかもしれんわな。あんな輩と夜道を歩いていたら、命がいくつあっても足りゃしねぇからな。これも奴の運命よ」

 期待していなかった外れくじでも引いたかのような冷淡な態度に、私は怒りとむかつきを感じた。

「何を言ってんだ、あんたは。小暮さんが、あんたに何か酷いことをしたとでも言うのか? もういい、あんたが見捨てたとしても、僕が小暮さんを助ける」

 鬼平は、縁側から立ち上がろうとした私の手首をつかみ、同時に吐き終えたばかりの登山靴の甲の辺りを自分の靴で踏みつける。

「何をする」

「その小暮だが、奴の使っていた名前も職場も、丸ごと嘘っぱちだ。奴の本名は二ノ原啓介にのはらけいすけ。西日本じゃそこそこ名を知られた、麻薬のブローカーだ」

「はあ?」

 またしても、鬼平は妙なことを言い出した。

「本当だぜ? 奴がこんな僻地へきちまで足を伸ばしたのは、テメェで栽培している麻薬の隠し場所、まあ言ってみりゃ隠し畑だな、そいつの候補を見つけるのが目的だったってわけさ」

「まさか」

「本当は、関東に候補地があったんだよ。本拠地の中部で末端が摘発をくらった際、芋づる式にその候補地も見つかって取り上げられちまったんで、早急に新しい候補地を用意する必要があったんだとさ」

「信じられんよ。あの小暮さんが、麻薬のブローカーだなんて」

「これでもか?」

 鬼平が上着のポケットから取り出したものを見て、私は思わず息を呑んだ。

「ほ、本物じゃあるまいね?」

「本物だよ。小暮の寝室も見たと言っただろう? 奴の鞄の中に入っていたんだよ」

 手のひらより少し大きいサイズの自動拳銃。

「護身用のつもりだったんだろうが、油断しまくって携帯してなかったんじゃ、それこそ宝の持ち腐れだわな」

 へらへらと笑いながら、慣れた手つきで弄んでいた拳銃の銃口を私に向けてくる鬼平。

「止せよ。玩具だとしても、ゲーム中でもないのに銃口を人に向けるのはマナー違反だぞ」

「まだ信じられないのなら、自分で握ってみろよ」

 鬼平は拳銃をクルリと掌中で回転させ、グリップを私の方へと向ける。

 受け取ってから偽物であることを確かめようとするも、まずその重みがエアガンやガスガンではないことを物語っているし、銃身もプラスチックではなく金属だ。模造品であることを証明するSPGマークも、それが削り取られた痕跡すら見つからない。

「本物?」

「そう言っただろう」

 途端に指先が震え出した私の手からもぎ取った拳銃を、鬼平は無造作に上着のポケットへと滑り込ませる。

「あんた、あのまま奴と一緒に村を出ていたら、此処ここに残っているのとたいして変わらん結末になっていたんだぜ?」

「なんだよ、そりゃ。僕が小暮さんに殺されていたとでも言うのかい?」

「まさにその通り。奴はあんたを殺すつもりだったんだよ。あんたとの同行を申し出たのも、道連れだとか心強いだとか、そんな殊勝な理由からじゃない。目撃者がいない場所であんたを始末しておきたかったからさ」

「馬鹿を言うなよ。僕は小暮さんに殺される覚えなんて無いぞ」

「奴がこの辺りを訪れたことを知っている都会人。それだけで口封じの対象になったんだよ、あんたは。関東で言いふらされたら困るんだ、奴は。山道であんたを殺し、死体が見つからないよう処分してから、あんたとはぐれちまったとか適当な理由を付けて村に戻ってきたら、同じ手口で俺も殺すつもりだったんだろうさ。あるいはシンプルに、俺が村を出るところを待ち伏せする、という手もある。どのみち、一度は村に戻る理由があったからな」

「理由?」

「ミカシラサマだよ。両脇の台座にあった翡翠、あれを盗み出して、あわよくば翡翠の出どころも聞き出して独り占めしようという魂胆だろう。先生は気付かなかったようだが、台座の翡翠を見た奴のツラは、一瞬だけだが化けの皮が剥がれていたぜ」

「信じられんよ。あの小暮さんが麻薬のブローカーで、口封じのために私を殺そうとしていた、だなんて」

「別に信じなくても構わんさ。俺の言っていること全てが出鱈目でたらめなら、この村には干し首を祀る風習など存在せず、小暮も僻地で休暇を過ごしているだけのしがないサラリーマンということになる。明日の朝になれば八ツ森村長に見送られて、あんたは小暮と一緒に北のH村を目指して出発する……それだけだ」

 私の手首と登山靴を解放した鬼平は、鬼気迫る眼差しで私を正面から睨みつけてくる。

「だが、そんな明日は絶対にやって来ねぇ。俺は身の危険を感じたから今すぐ村を出ていく。あんたを誘ったのは、ついでのようなもんだ。それでもついてくるかどうか、それを決めるのはあんただからな」

「行こう」

 鬼平の話は胡散臭い。

 それどころか、彼が語った小暮の経歴はそのまま彼自身のもので、拳銃の真の所有者も、私を殺して口封じを狙っているのも、本当は鬼平本人なのかもしれない。

 それでも、出発は早いに越したことはない。

 楽観的かもしれないが、もし鬼平が私の命を狙っていたとしても、これまでとは違い彼に対して用心しているのだし、拳銃を取り出す前に殴り倒してしまえば良いだけである。

 鬼平の言うことが出鱈目だとすれば、小暮は今も生きていて、明日には私の抜け駆けに失望しながらも村長夫妻に見送られて、意気揚々と私たちの後を追ってくることになる。

 それだけだ。それだけなのだ。




 村長の屋敷から村を出るには、民家の多い通りか作業場のいずれかを通らねばならず、私たちは仕方なく作業場を選んだ。

「誰かが作業していなければいいけど」

 その可能性も考慮したのだが、民家の前を通るよりかは見つかりにくいだろう、という結論が出た。

「吉野のおばさんが言ってただろう、夜以外は大抵誰かいるって。逆に言えば、夜は誰もいなくなるんだよ」

「そうかなぁ」

「もし作業場に誰かいるのなら、遠くからでも灯りが見える筈だ。それを見つけたら引き返して、民家の方を通るとしよう」

 遠くからでも灯りの有無で人の存在が確認できるという点は、本来ならば村人側も同じなのだが、私は月明かりの下で鬼平の後を追い、先導する鬼平の頭部には暗視装置付きヘッドギアがはめられている。

「僕の分のヘッドギアは?」

「すまねぇな、予備は無い」

 幸いにも、作業場には灯も人の気配もない。

「ストップ」

 そのまま通り過ぎるつもりだった私を呼び止める、鬼平の声。

「ここで武器を調達しておこう」

「拳銃があるじゃないか」

「あんたの武器だよ、先生」

「あっ」

 言われて気付いたが、私は丸腰である。

 だからといって、鬼平から拳銃を借りたいとも思わない。万が一の場面に出くわしたとしても、私に拳銃の引き金を引く度胸はない。

「自分に扱えそうなものを適当に見繕っておいてくれよ。俺も拳銃以外の武器を探すから」

「窃盗じゃないか」

「命を狙われている奴が気にしてどうする。それに村の外にゃ野犬や熊だっているかもしれねぇんだ。自衛の為だよ」

 鬼平のいう事にも一理ある。

「ヘッドギアのランプを使え。ただし光量は最弱にして、民家の方には顔を向けるなよ」

 言われた通り最弱に設定たしたヘッドランプの灯りに照らし出された、民具の数々。

 見るからに重たそうな大木槌おおきづちや、凶悪な歯を持つ大鋸おおのこぎり、そして武骨なまさかりなどは、武器としては効果的だろうが、重くて持ち歩くには不便である。

 それに、どうせ持ち出すなら棒や杖のように山歩きの補助になりそうな道具の方が良い。

 そう考えながら物色していた私の目に留まったのは、一メートル程の棒の先に平たい木片を付け、その先端に金属の刃を嵌めたすきだった。

 この村には、金属製のショベルも無いのか。

 いささか同情しながらも、数本ある鋤のうち最も長いものへと手を伸ばした私は、己の視界に入ってしかるべきものが見当たらないことに気づいた。

「おい、そっちを向くなって言っただろう」

 かまどの前にしゃがみ込んでいた鬼平が、私を叱責する。

「なあ、あんたが持ってきた押し切り、消えてるぞ」

「そうだろうな」

「おばさん、夜に作業する村人はいないって言ってたよな?」

「作業じゃなくて儀式に使っているんだろう」

「儀式?」

「だから、あの押し切りで小暮の首をこう、な?」

 腕相撲のようなポーズから、右肘をぱたりと倒す鬼平。

 その仕草と言葉から、どういう使われ方なのかは容易に想像できる。

「あの押し切りは農具じゃなくて、祭祀用の断頭台だったんだな。ミカシラサマの社の奥にあったのは、置き忘れなんぞじゃなく、しかるべき場所に安置されていたわけだ」

 断頭台という言葉が引き金となり、私の脳裏に凄惨な光景が浮かび上がる。

 泣き叫びながら逃げ出そうとする小暮を押さえつけているのは、昼間ここにいた善吉。

 大きく上刃を上げた押し切りを二人掛かりで運んでいるのは村長夫妻。

 小暮の喉笛に土台の鋭利な刃を押し当てると、夫妻はそのまま上刃のグリップに手を当て一気に……

「どうした?」

 頭を振り幻視を追い払った私の前に立つ鬼平。

 その手にはアルミ製の水筒が握られている。

「いや、別に」

「武器を見つけたようだな。じゃあ村を出るぞ」

「水かい?」

 私は、彼の持つ水筒を指さした。

「いや、竈の灰だ」

「灰?」

「これで結構、役に立つ」




「そういえば」

「ん?」

「鬼平さんは、どうして小暮さんの正体を知っていたんだ?」

 村からの脱出は、拍子抜けするほど簡単だった。

 山道に出てから、再度ヘッドランプの点灯を許可された私は、前方を明るく照らし出してくれる文明の利器に導かれながら、手に入れたばかりの鋤を杖代わりにし、まだ暗視ゴーグルを外そうとしない鬼平の後を追う形で歩き続けていた。

 人の存在を無視するかのような虫の鳴き声が、ひたすらうるさい。

「奴が寄越した名刺があっただろう」

「うん」

「俺たちの間じゃ、あの会社、というか連中がどれだけワルなのか、昇級試験に出るレベルで知られているからな」

「普通のアパレル企業としか思えない会社名だったけど?」

「そうでなきゃ、カモフラージュにならねぇだろう。西の裏界隈じゃ、そこそこ知られた名前だぜ?」

 そう言われたところで、西にも裏界隈にもさほど詳しくない身としては、そのあくどさの測りようがない。

「それと、あんたは行方不明者の消息を調査しに来たと言っていたが、どうやって干し首村の正体に気づいたんだ?」

「あの村が怪しいという根拠はあった。俺の前任者も、あの辺りで消息を絶ったからだ。GPSが最後に反応したのが、あの辺りなんだよ。信じられねぇだろうが、あの村は地図に載っていねぇんだ」

 しばらく無言の行軍が続く。

 私はヘッドライトを点けているが、先を歩く鬼平は暗視ゴーグルのままである。懐中電灯かヘッドランプにしないのかと尋ねたところ、照明では目立って狙われやすいという返答だった。私が狙われることはどうでも良いのかと言ってやりたかったが、そもそも村を出る前から鬼平はそんな意味合いのことを宣言していたような気がする。

 歩き続けるうちに、奇妙な既視感が私を襲ってきた。

 この道は通った覚えがある。

 逆方向に、だが。

「なぁ」

「なんだよ」

 振り返りもせず答える鬼平。

「僕たち、北のH村に向かっているんだよな?」

「逆だ、南へ向かっている」

「なんだって!」

 立ち止まり、鋤を持っていない方の手で鬼平のリュックをつかむ。

「話が違うじゃないか! 僕の目的地がH村だってことはあんたも知っているだろう! なんで逆方向に進んでいるんだ!」

「落ち着けって。あんたがH村に行く理由は、もう無いんだ」

 リュックをつかんだ私の手を振り払おうと、鬼平は左右に身をよじらせるが、こちらとてそう簡単に開放するつもりはない。

 そう思っていたのだが、それまでうるさいほど鳴り響いていた虫の声が急に静まったことで、つい指の力が緩む。

 入れ替わるように聞こえてきたのは、獣の咆哮。

 次の瞬間、何か荒々しい力に背中を押された私は、つんのめってうつ伏せに倒れる。

 リュックサック越しに圧し掛かる重みと、聞き覚えのある声。

 野犬か。

 大きめのリュックサックが邪魔で私の首を咬めずにいるようだが、こちらもうつ伏せに押し倒されたままなので、逃走も反撃もままならない。

「目ぇつぶれっ!」

 言われた通りに硬く目を閉じた私の耳に飛び込む、悲鳴にも似た犬の鳴き声。

 次いで轟く発砲音。

 背中を押す力が消え失せ、目を開けて立ち上がった私の視界に映ったのは、灰を浴び側頭部から血を流し、舌をだらりと垂れ下げたまま動かない野犬の死体。

「な、役に立っただろ?」

 声のした方には、左手に水筒を持ち右手に拳銃を構えた鬼平の姿があった。拳銃を握る手が灰だらけなところを見るに、どうやら竈で掻き集めていた灰を野犬に浴びせかけ、驚いた野犬が私の身体から離れたところで発砲したらしい。

「殺す必要は無かっただろうに」

「生かしておいたら、連中のところに逃げ帰っていた筈だぜ」

「連中? 野犬の仲間か?」

「良く見ろよ、野犬が首輪なんて付けてるか?」

 鬼平が指さした犬の首には、人に飼われていた証左とも言うべき朱色の首輪が付けられていた。

「村の犬か?」

 そういえば、あの村では犬を飼っている家庭が多かった。

「連中、俺たちが逃げ出したことに気づいて、追っ手を放ったらしい」

「村から逃げ出した犬、とは考えられないか?」

「そんな犬が、一直線に俺たちめがけて突っ込んでくると思うか? 俺たちの臭いを覚えさせて、後を追わせたのは間違いない」

「まさか。僕の荷物は全部リュックサックの中だぞ。臭いを覚えさせるようなものなんて残しちゃいない」

「寝間着」

「あっ」

「追っ手がこいつだけで終わるとは思えねぇ。他の犬もこっちに向かってくるかもしれん。急ぐぞ」

「まだ、追ってくる犬がいるのか」

 驚くと同時に、 獰猛どうもうな犬の唸り声が恐怖と共に脳内で甦る。

 鬼平の与太話が正しかったというのか?

 あの村は、本当に干し首を作っていたのか?

 私は住処すみかに、日常の生活に戻ることが出来るのだろうか?



 同じ夜道であれば、前方の視界すらままならない山道よりは、例え砂と砂利ばかりであろうと形だけでも舗装されている道路の方が危険は少ないだろうという結論に至り、私たち二人は道路へと転がり出た。

「それで?」

 車一台すら通れない、狭い道路ではあるが、山の獣道に比べればまだ広い方である。

 それに生い茂る草木も少ないので視界が広く、不意討ちの恐れも多少は減った。

 それまで前後に並んでいた私と鬼平は、並んで歩くことにした。

「何が?」

「僕がH村へ行く必要が無くなった理由だよ。MはH村にいるんじゃなかったのか?」

「あんたが勝手にそう思い込んでいただけだろう。MはH村には戻らなかった、いや戻れなかったんだよ」

「どうして?」

「マレビト」

 スマートフォンを操作しながら、鬼平は言葉を続ける。

「言っただろう。干し首村を訪れた旅人はマレビトとして歓待され、それから干し首としてミカシラサマの社で祀られるって。MがH村へ向かったという村長夫妻の話は出鱈目で、実際は干し首村に立ち寄った際に殺されている」

「証拠は?」

「ほれ」

 それまで歩きながら操作していたスマートフォンを私の方へと突き出す鬼平。

 その画面には、丁寧に折りたたまれた衣類と、その上に置かれた一枚のクレジットカード。

「俺があの屋敷に寝泊まりしていたのは、あんたが来る二日ほど前だが、最初の晩から屋敷内を探し回っているうちに見つけたものだよ。名前のところを見な」

「Mか」

 私の来訪を予期してMのクレジットカードを用意する、などという離れ業は不可能だ。悪戯やからかい半分で出来るようなことではないし、そもそも私は、そこまで大掛かりなトリックを用意してまで罠にかける必要がある大物でもない。

「なんで教えてくれなかったんだ。僕が山歩きの目的を打ち明けた時に、教えてくれても良かったじゃないか」

「あの場で、それを言えって? この屋敷には、その人の衣服と持ち物が隠されていますよ、俺は夜中に調べ回って知ったんです、なんて言えるか?」

 確かに、それは言えない。言えるわけがない。

「それに、村の監視の目が届かないところでそれを伝えたとして、あんたはどうする? 村を出るか。逆だろう? あの村にMが隠れているんじゃないかと誤解して、このまま残るとか言い出していたんじゃないか?」

「うっ」

 そう言われると、反論のしようがない。彼の言う通り、その時はまだ干し首村の真相を知らなかった私ならば、強情を張ってでも村に居残っていただろう。

「だからこそ、村を出てから打ち明けたんだ。まあMについては、消息不明のまま時効を迎えて捜査終了するだろうな。あんたにとっちゃ残念な話だろうが、あいにく死人は生き返らねぇ」

 スマートフォンを自分の方へと引き戻した鬼平は、指先で画面をタップして表示を切り替える。

「おう、結構歩いたな」

「GPSか」

「それと地図アプリ。この調子なら、夜明け前には駅に着くだろうよ」

 人間の身体というものは実に都合と調子の良いもので、ゴール地点と到着予定時間を教えられた私の体内から希望と活力が湧き上がる。

「そんな便利なものがあるなら、もっと早く使ってくれよ」

「馬鹿か、あんたは。使いどきと使いどころってもんがあるだろう。電気が無い場所で、どうやって充電するんだ?」

「予備バッテリーは?」

「高性能な分、消費が激しいんだよ。そういうあんただって、充電出来ないから今まで携帯を使わなかったんだろう? それとも電波の圏外か?」

「置き忘れたんだよ、自宅に」

 携帯電話を置き忘れていなければ、何か出来ていたというわけでもないのだが。

「それにしても便利な世の中になったもんだ。スマートフォン一つあれば、地図もコンパスも電話も不要ってわけか」

「充電が切れたら電卓以下だけどな」

「これだけ科学が発達しているのに、一方で人身御供の風習が残っているんだから、世の中はおかしなもんだな」

「まぁな」

 ニコチン不足による苛立ちを会話で紛らわせようと喋り続ける私に、素っ気ない返事をする鬼平。

「昔から続いているとはいえ、ああいう野蛮な儀式や祭事で幸せになろうと考えるより、今すぐにでも放棄して文明社会を受け入れた方が、よっぽど幸せになれるというのにな」

「そう簡単にゃいかねぇわな」

 鬼平の反論は、それまでのぞんざいな言い草とは明らかに異なっていた。

「古い連中が信仰や習俗を棄てられないのは、続けていれば幸せになれるからじゃねぇ。辞めて棄ててしまった時に降りかかる災いを畏れているからでもある。災いを畏れる人間を、頭ごなしに否定するわけにゃいかねぇんだ。偶然だろうと、その身に降りかかった自然災害に対する責任なんて、無理やり法に照らし合わせでもしない限りは、誰かが背負うわけにゃいかねぇんだからな」

「そこをだね、こう科学の力で」

「そんなもん、新興宗教の勧誘とどう違うってんだ。説明できるか?」

「科学と信仰は違うよ」

「それをわかっているのはあんたであって、未だ科学よりも信仰に重きを置く干し首村の連中を説得できるかどうかは別問題だろう?」

「しかし、もう年号すら平成に変わっているんだ。時代が違うんだってことぐらいは、村の中にだって気づいている人間はいるだろうさ」

「そういう人間は、村を出たきり戻ってこないんだよ」

「ああ」

 そうか。干し首村の若者が村を出てから一人として戻ってこないのは、単に村の生活が不便すぎるという理由だけではなかったのか。

「まあ、干し首だの人身御供なんてのは、年号が変わってからようやく判明したんだけどな。出身者が語らなかったというのもあるんだろうが、よっぽど巧妙に隠していたか、口封じが徹底していたかなんだろうよ。そりゃ俺たちも行方不明者の捜索に手を焼くわけだ」

 まただ。

 また鬼平は「俺たち」と言った。

 この男は、一体何者なのだろうか?

 写真が雑誌に掲載される程度には売れているカメラマンであることは間違いないのだろうが、それは表向きの顔であり、同時に大きな後ろ盾のある組織に属しているか、もしくはその組織に雇われたエージェントであるのは、本人の弁から事実と見て良いだろう。

 そもそも、鬼平が干し首村を訪れた真の目的は行方不明者の捜索であって、山道で迷って偶然訪れたわけではなかった。むしろそこで発生した偶然とは、私と小暮という異邦人が、ほぼ同日に干し首村を訪れた事を指すべきだろう。

 あるいは、行方不明者捜索もまた鬼平の方便で、違法ブローカーである小暮の身柄を確保するために彼を追って、あるいは先回りして干し首村を訪れたのかもしれない。

 それはつまり、Mを追っていた私とそう変わらないのではないだろうか?

 鬼平は、Mの正体が報奨金の掛けられた強盗殺人犯であることも、私の目的がその報奨金であることも把握していた。

 そして小暮が違法ブローカーであるということだけではなく、拳銃を携帯する危険人物であると承知の上で、表面上は何も知らぬ素振りで談笑していた。これはこれで、尋常な人生を送ってきた人間に出来ることではない。

 鬼平が公安、ないし体制側の人間で、小暮が本当に違法ブローカーだったとする。

 鬼平と小暮。

 公安と反社会的グループ。

 摘発と犯罪。

 双方、両極端ながら組織に属しつつ、正体を隠し偽りながら秘密裏に活動している不気味さには、さして変わりはない。

 私のような一般人からすれば、同じ穴のむじなではないか。



 早くも訪れた疲労に耐えかね、鋤を杖代わりにしつつ腕時計を見て、日付が変わっていないことを確認する。

 つまり、まだ前日の出来事なのだ。

 それなのに、昨日見たばかりの三地蔵に懐かしさすら込み上げてくるのは、それだけ干し首村で過ごした一日が異質だったということなのだろう。

 正確には、干し首村を脱出してからの逃走劇が異様だったというだけなのだろうが。

「ようやくチェックポイント到達か」

 視界に三地蔵を認めて息を吐く鬼平とは対照的に、私は歓喜の声を上げた。

 ここまで来れば、さすがに休息を取るだろう。

 ニコチンの接種衝動に駆られ、歩くペースも知らず知らずのうちに早くなる。

「そういえば、どうしてこの地蔵は真ん中の首だけ地面に落ちているのか、鬼平さんは何か知っているかい?」

「さぁな。当てずっぽうだが、少しでも干し首村のことを知っている人間が近づかないよう、目印にするつもりだったんじゃないか?」

「あの村の人間が、わざわざそんなことをするかね?」

「だから、やったのは村を離れた人間じゃねぇかな。ただの三地蔵だけなら、他の土地にもあるだろうさ。だが、ここまで奇異な三地蔵がいる一本道なんて、日本にゃ一ヶ所しかないとわかっていたら、誰もこの先へ行こうなんて思わんだろうさ。案外、こういう地蔵を見つけたら引き返すようにって都市伝説が何処かで流れているのかもしれないな」

 成程、警告と道標を兼ねているのであれば合点もつく。

「おや?」

 その三地蔵の背後、深まった秋を象徴するかのような木々の一枝に、風呂敷のような布が引っ掛かっている。

 何かと思い近づくにつれ、その正体が見覚えのあるものだと気づく。

 ワインレッドの長袖シャツ。

 その袖口にぶら下がっているのは、人間の――腕。

 どちらも小暮のものだ。

「わあっ!」

 悲鳴を上げた私の頭上めがけて降ってきた、巨大な膜。

 夏場に吊るす蚊帳の目を粗くしたかのような、狩猟用の仕掛け網。

 重さよりもその衝撃に耐えきれず、地べたに尻もちをつく。

「先生!」

 近づこうとした鬼平が足を止め顔を上げると、一拍置いて樹上から飛び降りる影ひとつ。

「掛かったのは間抜けだけか」

 干河辺村唯一の青年、善吉《ぜんきち》だった。

 善吉は手にした槍を構え、その先端を鬼平へと向ける。

 穂先は木の葉にも似て幅広く、全体的に古臭くはあるものの、構える善吉の気迫は並大抵のものではない。もし対峙しているのが鬼平ではなく私であれば、情けない話だが、腰が抜けて満足に立ち上がれもしなかっただろう。

 すぐさま拳銃が収められているポケットへと手を伸ばす鬼平だが、彼の右手がその中へ入るよりも先に善吉が槍を突き出してくる。

 身をよじって穂先をかわした鬼平は、そのまま善吉との間合いを詰めて組み付こうとする。

「なんだよ、先回りしてきたのはテメェ一人だけか!」

「年寄り連中にゃ先回りする体力も無ぇんだとよ!」

「だろうな。まともな追っ手なら猟銃の一丁ぐらいは持ってきてるもんだ!」

「撃たせちゃくれねぇよ! 散弾じゃ少し狙いがずれただけで頭を傷つけかねんとさ!」

「正論!」

 善吉の握る槍の柄をつかみ、罵声を飛ばし合いながら奪い取ろうとする鬼平だが、次の瞬間には善吉の足蹴りを食らい悶絶する。

 倒れながらも拳銃を抜こうとする鬼平と、凶器の存在を察して槍による攻撃を矢継ぎ早に繰り出す善吉。その突きに翻弄されながら逃げ惑う鬼平には、焦りのようなものがありありと浮かんでいる。

 もがきながら狩猟網から抜け出した私は、すぐにその焦りの原因に気づいた。

 背負っているリュックサックだ。

 そのサイズと重さが枷となり、鬼平の動きを鈍くしているのだ。

 地面を這って網から抜け出し、自分のリュックを下ろした私は、地面に落とした鋤を両手で拾い上げた。

「鬼平さん!」

 劣勢の鬼平を助けようと、袈裟斬りに振り下ろした鋤の一撃。

 それはあっさりとかわされ、槍を鬼平に押さえられたままの善吉に蹴り飛ばされる。

「あがっ!」

 無様に地面を転がった私の、視線の先にあった「モノ」。

 南無三とは、こういうときに唱えるのだろう。

 立ち上がり、なりふり構わず「それ」を両手で抱え上げ、善吉めがけて放り投げる。

 身体には当たらず足元に落下し、月明かりに照らし出された「それ」を見て、善吉は悲鳴を上げた。

「おめぇ、なんてぇ罰当たりしやがる!」

 私だって、地蔵の頭を放り投げるなんて不遜は、本当ならば願い下げだ。

 しかし、この不信心により善吉に隙が生じたのは確かな成果である。

 そして、その隙を逃すような鬼平ではなかった。すかさず背負っていたリュックサックを地面に下ろし、私が手放したままの鋤を拾い上げて構える。

 明らかにそれまでとは違う、武道の経験者のみが持ち得るであろう落ち着いた、それでいて隙の無い構えに、それまで闇雲に暴れ回っていただけの善吉の動きが止まる。

「おう」

 その迫力に気圧されたのか、私の存在など記憶の彼方に消し去ったかのように無視した善吉は、両手に握った槍を水平よりやや上向きに構えたまま間合いを図る。

 対する鬼平は、刃のある方を上、握りがある方を下へと縦に構え、まるで剣術でいう青眼の如き構えを取る。

 そして。

 善吉が鬼平の心臓を狙って突きを繰り出した次の瞬間、地面に転がっていたのは、善吉の方だった。

 胸元へと迫る鋭利な穂先を、鬼平の鋤の刃が左へと弾き、その動きにより右へと移動した握りの部分が善吉の右腿を強かに打ち据える。さらに穂先を払った刃先側がそのままの位置から善吉の側頭部に振り下ろされたのだが、余りにも短い刹那の出来事だったので、実際に目の当たりにした私ですら我が目を疑ってしまう程である。

 恐らく、当の善吉ですら何が起こったのかわからないのではないだろうか?

「まさか……殺したのか?」

「そうしたかったんだが、さすがの俺も命の恩人の前で人殺しは出来ねぇや」

「僕のことか」

「違ぇよ、そこのお地蔵様だ」

 転がった地蔵の頭を指さしてから、鬼平は地面に下ろしたリュックサックの中に手を入れ、ビニールのチューブを取り出した。

「これが素人と有段者の違いだ」

「一撃だったもんな」

「身軽になって武器を持てば、まぁこんなもんだ」

 そうは言いながらも、会心の勝利だったのだろう。スピッツの曲を鼻歌で歌いながら、善吉の手首と足首をビニールチューブで縛り上げる鬼平。

「まあ、初っ端から頭を狙われていたら危なかったけどな」

「頭?」

「村の連中が欲しがっていたのは俺たちの首、つまり頭部だ。首から上を傷つけるわけにゃいかなかったから、奴の槍と蹴りは俺たちの胴体だけを狙っていたのさ」

 説明しながら、鬼平は両手で地蔵の頭を拾い上げる。

「おい。まさか、そいつを善吉の頭に落とすつもりじゃあるまいな?」

 私の問いに、鬼平は心底から嫌そうな顔をした。

「あんたと違って、俺ぁそれなりに信心深いんだ」

 地蔵の頭を元の位置、三地蔵の背後に置き戻した鬼平は、地蔵たちの正面に回り込んで大儀そうに両手を合わせる。

「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。お地蔵さんよ、罰当てるならそこの先生だけにしておくんなさいよ」

 身を挺して窮地を救ってやったというのに、酷い言われようである。

 はんっと息を吐いた途端、善吉に蹴られた箇所が痛み出した。



「それにしても、さっきの一撃は見事だった」

「二撃だ」

 鋤を杖代わりにした私と並び歩く鬼平は、善吉から奪い取った槍を持たぬ方の手を上げ、人差し指と中指をピンと伸ばした。

「あれぐらいは出来て当然なんだよ。そうじゃないと生きていけねぇ」

「僕には出来ない」

「生きている場所が違う。俺の行く先はいつも修羅場だ、等活とうかつ地獄だ。人を傷つけるのが好きな奴ら、殺し合いが大好物って奴らを相手にする日々ばかりだ」

「行方不明者の捜索が仕事じゃないのか?」

「追っている奴らの中に殺人者がいないと思っているのか?」

 そんな仕事とカメラマンの二重生活は、確かに辛いだろう。

「僕の人生の方が、まだマシだと言いたいのか? たいして売れもせず、収入が乏しいうえに次々と連載が打ち切られ、借金をしなければ本業を続けるのもままならない、ワーキングプアの見本のような僕の人生が?」

「もっと酷い人生を送っている奴だっていたさ。親が商売に失敗して一家離散、独学で進学したものの親の借金に関わるいざこざで殺人を犯し、罪を帳消しにする代わりに政党の厄介事を揉み消す仕事を請け負っていた人間もいたんだぜ?」

「体験談かな?」

「こないだ助け損ねた奴の経歴だ」

 立ち止まった鬼平は、槍を私に預けてから、取り出したスマートフォンを両手で操作する。

「お目当てのMがとっくに死んじまっていたのは、しょうがねぇわな。まあ最終的な目撃情報だけでも、それなりに金は出るだろうし、捜査が落ち着いたらMはこの辺りで事故死していたってことになるだろうから、口止め料もそれなりに出ると思うぜ?」

「それは、借金を返済できる程度の額になるのかね?」

 それで完済の目途が立つとは、到底思えない。

「ミミズの涙だろうな」

「雀の涙だ」

 訂正した私の口から、無意識に大きなため息が漏れる。

「それに借金を返済したところで仕事や収入が増えるわけでもなし、これからどうやって生きていけばいいんだ」

 もし干し首村の正体を鬼平が秘匿したまま、Mの死去のみを伝えられていたら。

 実際には考えられないシチュエーションだろうが、その時は躊躇なく滞在期間を伸ばしていただろう。ひょっとしたら、首を斬り落とされ干し首にされると知っていたとしても、敢えてその運命を受け入れていたかもしれない。

 借金取りに追われながらの執筆生活は、喉の奥から空気が漏れているのを承知の上で呼吸を続けているかのような、理不尽な苦しさが続くばかりである。

「まあ、あれだ。こんな目に遭っても生き延びる程度にゃ強運なんだ。これから運が上向きになって、仕事がばんばん舞い込んでくるかもしれねぇだろう?」

「他人事みたいに」

「他人事なんだよ。それに」

 スマートフォンから視線を外して顔を上げた鬼平だが、次の言葉が出てこない。

 顔の向きが私の背後、干し首村の方角へと変わる。

「どうした?」

 つられて同じ方角を向いた私の視界に入ってきたのは、夜空に立ち昇るひと筋の白明はくみょう

「煙か?」

「まずいな」

 白煙の根元からは、花火を彷彿とされる鮮烈な光が瞬いている。

狼煙のろしだ」

「のろしぃ?」

 暗視ゴーグルを外した鬼平の表情が、次第に沈痛なものに変わる。

「不覚だ。電話が無い村じゃ碌な連絡手段が無かろうと、たかを括っていた。まさか夜間に狼煙を上げるとは」

「狼煙ってあれだろう? 煙で信号を送るってやつだろう? 解読できるか?」

「無茶言うな。ありゃあきっと村の人間だけに意味が伝わっているやつだ。だが内容は察しがつく。大方、俺たちが逃げ出したことか、逃げ出した方向についてだ」

「また犬が来るのか」

「犬ならまだマシだ」

 鬼平の呟きを証明するかのように、虫の音を徐々に掻き散らしながら、こちらへと迫って来る排気音。

 善吉は、先程片付けた。

 ならば、乗っているのは誰だ?

 人間二人が辛うじて並び歩ける程度の細い道を、満月の如き前照灯で照らしながら迫ってきたのは、予想通りのスーパーカブ。

 昼間と変わらぬ野良着のまま運転しているのは、オープンフェイスの安全ヘルメットを被った吉野のおばさんだった。

 スマートフォンをポケットにねじ込んだ鬼平は、私の方へと伸ばした手を引っ込めると、スーパーカブは私たちの手前で停止した。

「おばさん?」

「夜道を走るのは危ないから嫌なんだけどねぇ。善吉もやられちまったみたいだし、しょうがないからあたしが来てやったのさ」

「殺しに? それとも捕まえに?」

「首さえ置いてって貰えりゃ、残りは逃げ帰ってもいいんだよぉ?」

 出来るわけがない。

「こ、小暮さんは?」

「あの子なら、村長とおかみさんが作製中だよぉ。久々なんで出来の方が不安だから、予備も含めて有るだけ作っておきたいんだとさぁ。前に来たMって奴の干し首は失敗しちゃったからねぇ」

 恐ろしいことを平然と言ってのけるおばさん。表情は昼間と同じだが、その笑顔も仮面を貼り付けたかのような、どこか作り物めいたもののように見えてしまう。

「僕たちはストックかよ」

「先生、その辺にしておけ。無駄話するだけ足止めされるだけだ」

「鬼平さんは賢いねぇ。ま、足止めが駄目なら……直接狩るんだけどねぇっ!」

 スーパーカブが唸りを上げ、私たちの方へと一直線に突っ込んでくる。

 私と鬼平は道路から離れるように左右へと跳び、その突進を回避する。

 直後に、私は両の手に一本ずつ握った武器を鬼平に渡し損ねたことを後悔した。

 危険な武器を持っている方を先に潰すつもりか、あるいは武器を持っていながら早々に逃げ出した私の方が仕留め易そうだと判断したのか、おばさんのスーパーカブは藪やぶを踏み分けながら猪の如き勢いで私を追ってくる。

 スーパーカブ独自の性能と耐久性、そして熟練のドライビングテクニックの成せる業か、木の根や茂みによる凹凸も山道ゆえの段差もさしたる障害にならず、逃げ惑う私との距離を徐々に縮めてくるおばさん。

 不意に、登山靴のつま先に衝撃が奔る。

 硬い木の根に躓いたのだと気付いた時には、私の身体は大きく前につんのめり、顔面と胸部が地面に叩きつけられる。

「その首もらったよ!」

 凶獣の如く唸りを上げながら迫りくる前輪に、上体を起こしながら怯懦きょうだする私の脳裏を過よぎる、鬼平の言葉。

(村の連中が欲しがっていたのは俺たちの首、つまり頭部だ)

(首から上を傷つけるわけにゃいかなかったから、奴の槍と蹴りは俺たちの胴体だけを狙っていたのさ)

 もしそれが真実なら。

 覚悟を決め、顎を引きながら己の頭をぐいと前方へと突き出す。

「わっ!」

 驚きの声を上げたおばさんは、慌ててスーパーカブを右へと傾け、私の身体をかわすように急旋回する。

「なんてぇことするんだい!」

 とても人の命を奪いに来た人間のセリフとは思えない。

 無茶なカーブにより倒れ掛かった車体を戻したおばさんは、その視線を私から、私たちを追ってきた鬼平へと移す。

「それならそれで、こっちの方からっ」

 対する鬼平は、逃げる素振りも見せず仁王立ちのまま。

 その手に握られているのは、灰が詰められたアルミの水筒。

 水筒の蓋を開けると同時に、鬼平へと突進するスーパーカブ。

 左に跳躍し、かわしざまに水筒を大きく振る鬼平。

 ぱっと宙に舞った灰が、そのまま突進してきたおばさんの顔に貼り付き視界を奪う。

「あっ!」

 グシャッという、プラスチックが潰れ砕ける音。

 視力を奪われたおばさんのスーパーカブは、本来ならば回避できたはずの大木に正面から激突し、洞に前輪を取られたまま動かなくなる。運転していたおばさんも、座席に跨ったまま両手をだらりと垂れ下げ、ハンドルにもたれるような姿勢で気を失っていた。

「死んでないよな?」

「あんたはそればっかりだな、先生」

 座席から降ろしたおばさんの上着やズボンのポケットに手を入れ、予備のキーを持っていないことを確かめてから、鬼平はスーパーカブの車体からキーを引き抜いた。

「やっぱり時代はフルフェイスのヘルメットだよ、おばさん」



 私たちが無人駅に辿り着いたのは、夜も白々と明け始めた頃だった。

「それで、戻ったらどうするつもりなんだ?」

 私の質問に、無人の改札口へと続く階段を昇っていた鬼平は足を止めた。

「とりあえず報告する」

「何処に?」

「知ってどうする」

 普段の私ならば、好奇心とプロ意識が命じるままに質問を続けていたのだろうが、さすがに今はその気力も尽きかけている。

「まあ、干し首村に本格的な調査のメスが入ることだけは間違いないだろうな。とはいえ、あの細い道じゃ車は入れないし、一人二人で村に入ったんじゃ村人に妨害されるだろう。下手すりゃ口封じ、いや干し首の材料として殺されちまうのかもしれん」

 だからこそ、あの村は今まで生き残ってこれたのかもしれない。

「バイクか徒歩か、どちらにしろ武装して入ることになるだろうが、それでは目立って騒ぎになっちまう。どうにかして巧くごまかす必要があるんだろうが、そいつを編み出すのは俺の役目じゃねぇからなぁ」

 この辺りの車両は通常二両編成か、多くても三両編成で、切符の券売機も昭和時代さながらの旧式であり、五百円玉を受け付けないという有り様だが、どうにか終着駅までの片道二人分を確保できた。

 もっとも券売機が使えなかったとしても、二人掛かりで無理やり乗り込むつもりではあったのだが。

「始発の到着は何時何分?」

 ホームの壁に貼りつけられた時刻表の黒い数字に目を通した鬼平が、歓喜の声を上げる。

「喜べ。あと二、三分だ」

 それでこの土地、干し首村とオサラバ出来るなら、願ってもない僥倖ぎょうこうである。

 左手首の腕時計を外し、にらめっこを開始する。

 一周。

 二周。

 三周、そして四周しても待望の始発列車は姿を見せず、警笛も聞こえない。

「おかしいな、まだ来ないぞ。鬼平さん、時間を間違えてないか?」

「馬鹿言ってんじゃねぇよ。ちゃんとここに」

 振り向き背後の時刻表を指さした鬼平が、あっと声を上げた。

「先生! あんたが干し首村に着いたのは何曜日だ?」

「金曜だが」

「それから二日経った今日は、何曜日だ?」

「そりゃあ」

 言いかけて、私もあっと声を上げた。

「そうだよ、日曜だよ今日は!」

 鬼平が見ていたのは黒、すなわち平日用の時刻だ。

 鬼平のみならず、私も赤の時刻表を目で追う。

 休日の始発が到着するのは、今から四十五分後。田舎の無人駅としては上々だが、干し首村からの追手が迫っているであろう現状では、とんでもないタイムロスである。

「どうする先生? 線路沿いに歩いてみるか?」

「いや、次の駅まで歩いてどれくらいかかるかわからないし、歩いている間に始発に追い抜かれたら、それこそ本末転倒だ。大人しく待っていた方が無難だろう」

「始発より先に追手が到着するかもしれんぜ?」

「線路沿いに歩いているうちに追いつかれるよりは、マシだろう。少なくとも、列車は必ずここに停車するんだから」

 そう言ってから、私は上着のポケットから取り出した煙草を咥え火を点けた。

 何はともあれ、ようやく訪れたブレイクタイムである。



 いつでも車両に跳び込めるように、身軽に動けるようにと、プラットホームの白線上に武器以外の荷物全てを置いた私は、階段に腰を下ろし紫煙を燻らせながら、同じように荷物を置き見覚えのない包装のチョコレートバーをしがんでいる鬼平に声をかけた。

「それ、美味うまいの?」

不味まずいよ」

 即答である。

「不味くないと、非常食だってことを忘れちまってすぐ食っちまうからな」

 成程、不味く作るにしても、れっきとした理由があるのだな――と、妙なところで感心する。

「小暮さん、実は生き延びていたりしないかな」

「無理だろう。吉野のおばさんが言ってたからな、村長たちが干し首にしている最中だって。それにもし何かの手違いで生き延びていたとしても、干し首村の連中に協力して、俺たちを捕まえる手伝いをしているんじゃないかね?」

 こんなものを持ち逃げされちまったんだからよ、とポケットから拳銃を取り出す鬼平。

「あと何分だ?」

「十分」

 腕時計の表示板から視線を外し、顔を上げる。

 道の向こうで、何かが蠢いたように見えた。

「おい?」

 鬼平の呼びかけには答えずホームへと駆け、自分のリュックサックの中から取り出した双眼鏡で、再度道の奥を眺望する。

「鬼平さん、まずい」

「追っ手か」

 数は六人か七人。

 その中には村人に救出されたらしい善吉もいるが、他は老人ばかりである。

「善吉は俺が相手する」

 私からの報告を聞き終えた鬼平は、大儀そうに立ち上がってからこちらを見る。

「先生、喧嘩の勝率は?」

「さっぱり」

「だろうな。連中がここに到着するまで五分程度。残り五分をどうにか凌いで列車に乗り込めたら、俺たちの勝ちってわけだ。それなりに無理してもらうから、腹を括りな」

 そう言ってから、左右の手に持った鋤と槍を突き出してくる。

「どっちを使う?」

 正直どちらでもあまり変わらない気もするが、殴るのに向いているのは鋤の方だろう。

 鋤を構えた私と、槍を構えた鬼平が待ち構える無人駅。

 改札口前に追手の一群が到着したのは、始発の到着まで残り五分を切ったあたりだった。

 老人たちは、それぞれが棒や包丁といった凶器を手にしており、素手は善吉だけである。

「また年寄りばかりやって来たもんだな」

 鬼平の挑発に、リーダーらしき老人がずいっと一歩前へ出る。

「大人しく村へ戻ってきたら、苦しまず楽に殺してやるし、ミカシラサマの御供に選ばれなかったとしても手厚く弔ってやるぞ?」

「願い下げだぜ」

 槍を左手に持ちながら、右手でポケットから取り出した拳銃。

 鬼平は銃口を天に向け引き金を引く。

 発砲音が周囲に響き渡り、老人たちの皺だらけの顔に動揺が走る。

 追っ手の中で驚かなかったのは、ただ一人。

「知ってるぞ」

 善吉は、威嚇射撃にいささかも怯む様子はない。

「モデルガンってやつだ。麓の村のおもちゃ屋で見たことがある」

「本物だよ。あんたらが干し首にしちまった小暮って奴が隠し持っていたんだ。そいつを失敬してきたのさ」

「どうだか」

「試してみるか?」

 銃口を善吉の方へと向ける鬼平。

「追っ手に犬を差し向けてきただろう? そいつの側頭部に穴が開いていたのは見たか? 弾丸じゃないとああいう傷は出来ないよ」

 助太刀した私の言葉に、老人たちの間から戸惑いの声が上がる。

「ここで大人しく引き下がるなら、引き金は引きゃあしねぇ。どうする?」

 なおも近づこうとする善吉の肩を、老人たちが後ろから押さえつける。

 対峙すること、しばし。

 静寂を破ったのは、青空に響き渡る甲高い警笛の音だった。

「来たよ、鬼平さん!」

 次いで視界に入ってきたのは、駅へと近づいてくる始発列車の頼もしい姿。

「逃げるぞ!」

 その言葉を合図に、拳銃以外の武器を放り投げた私と鬼平は踵を返して駅内へと駆け出し、プラットホームへと走り続ける。

 追い捕らえんと駆け出す老人たち。先頭を走るのは、若い善吉。

 二両編成の扉が開くのを見計らい、荷物一式を蹴り込んでから転がるように車内へと跳び込んだ私と鬼平。

 先に立ち上がった鬼平が、目の前の「閉」のボタンを押す。

 次いで起き上がり駆け出した私も、彼に倣って奥のドアの「閉」ボタンを押す。

 さらに奥の車両へと移動するが、私たちの行動を先読みしていたのか、先回りし乗り込んでいた善吉が鬼平に組み付いてきた。

「このっ!」

 その股間に膝を打ち込み、悶絶する善吉の頭を上から押さえつけながらベルトをつかんだ鬼平は、そのままホームへと善吉の身体を投げ飛ばす。

 相撲の有名な決まり手、上手投げである。無論、金的蹴りは含まれないが。

 股間を蹴られたうえに投げ飛ばされ、肩口から叩きつけられた善吉が悶絶している間に、私と鬼平は車両全てのドアを閉じた。

「運転手さん、早く出して! あいつら強盗、追い剥ぎだから!」

 私の嘘――真実はもっと酷い――に押されるかのように動き出した始発列車の中で、私と鬼平はほぼ同時に安堵の息を吐きながら膝から崩れ落ちた。

「相撲も有段者でしたか」

「アホか」

 私の冗談に、鬼平が初めて笑顔を見せる。

「追ってくるかな?」

「無理だろう。都会に戻れば、俺たちゃ名も無い一般人だ。わざわざ捜しに来るようなら、最初から生け贄の人間を都会で捕まえているだろうよ。それに、電気のない生活を続けているあいつらが、あの駅から先に移動できるとはとても思えねぇ」

 鬼平のいう通りである。干し首村の人間では、改札口の券売機で切符を買えるかどうかすら怪しい。

 善吉が開いているドアに先回りして乗り込んだのも、開閉ボタンというものを知らなかったからではなかろうか?

 そう考えると、彼らは都会まで追って来ないという鬼平の言葉にも、説得力が増す。彼らにとって、全てが電力によりまかなわれている都会は、干し首村以上の魔界そのものだろう。

「連中、このままミカシラサマを信仰し続けるのかね?」

「捜査の手が入る」

「そうだとして、どうやってあの村に乗り込むつもりなんだ?」

「それを決めるのは俺の役目じゃない」

 とにかく帰りたい。

 安全な自宅に戻って、いつもの狭い六畳間で、ただただ惰眠を貪りたい。

 あの村ではお目にかかれない洋食やジャンクフードを貪り喰らい、ネオン街で喧しい騒音に身を浸して、この三日間の出来事を記憶の彼方に押し流したい。

「そのミカシラサマなんだが」

 私の願いも虚しく、消し去ろうとした記憶を呼び戻すかのように言葉を続ける鬼平。

 残り少ない自分の荷物を引き寄せつつ、這うようにして無人のシートに寝転ぶと、夜通し歩き続けたことによる疲労が今更のように襲い掛かってくる。

 混濁する意識の中、どういう意図からなのかもわからない鬼平の呟きが、一般人の生活へと舞い戻った私の記憶に、今もこびり付いたまま消えずに残っている。

「鼻毛は無かったよ」


                                   (了)

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干河辺村 木園 碧雄 @h-kisono

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