干河辺村

木園 碧雄

前編

 陽光差し込まぬ見通しの悪い森の中を、それでも今は生い茂る木々を掻き分け、僅かな隙間をすり抜けながら、ただひたすらに歩き続けるしかない。

 傍から見れば遭難しているようにしか見えないだろうし、タータンチェックの長袖シャツにストレッチパンツ、マウンテンパーカーに登山靴、迷彩柄のリュックに登山帽と登山家さながらの重装備で山中を歩き回っている人間が、よもや物書き執筆を本業にしているとは、誰も思うまい。


 私は、世間のごく一部では「椀留有無わんるうむ」というペンネームで知られている、作家である。

 地方から都内の大学に進学し、学業の傍らで応募した中編小説が新人賞を取り、期待の新星というお定まりの看板文句を後ろ盾にして文壇に立ったものの、デビュー以降は評判に上がる作品を書けないまま、ぱっとしない日々を送っていた。

 それでも新人賞作家の作品に対する声望は強く、大手と中小の出版社で計三本の連載を持っていた。

 だが、事実は小説よりも奇なり。不幸は思わぬところで待ち受けていたのである。

 西暦二千年以降の日本はIT技術の発展が目覚ましく、書籍の電子化とジャンルの多様化、何よりバブル不況から続く消費の落ち込みにより、出版業界も経営が厳しくなってしまった。

 そのあおりと言うべきか、私が連載していた雑誌が相次いで廃刊。

 それまで、どうにか暮らしていけた程度の収入が、一気に三分の一にまで減ってしまったのである。

 大学卒業後の進路が、先の全く見えない小説家である。

 これが裕福な両親から愛情たっぷりに育てられた一人っ子ならば、或いは経済的な援助を受けていたのかもしれないが、生憎と私は三人兄弟の真ん中。それも自己責任を条件に、首都圏内での独り立ちを黙認されたも同然の身の上なのだから、今さら故郷へ舞い戻ったところで居場所など用意されているはずもない。

 現に、一度だけ借金を頼み込んだ時には、逆に大学の入学金とアパートの敷金礼金を返せと言われてしまった。

 仕事が三分の一に減ったということは、仕事に費やす時間も三分の一に減ったということである。

 幸か不幸か、連載の続きを読みたいという私の数少ないファンたちからの請願もあり、特別連載という形で他誌に掲載される計画があるそうだが、具体的な再開のめどは立っていない。

 読み切り短編を数本書き上げていた経験を活かし、作家仲間の伝手を頼って営業を始めながら、それでも余る時間をフィールドワークと「副業」に使うことにした。

 私が行う「副業」とは、簡単に言えば人捜しである。

 昭和時代には「蒸発」とも言われた失踪者、或いは身元不明者の足跡を辿り、当人の身柄を法に触れない範囲で確保するか、所在地を依頼人に報告して、僅かばかりの謝礼金を貰う。或いは、身元不明者の所有物を手掛かりに、家族や知人を捜し出す。

 言わば失踪者捜し専門の探偵のようなものだ。

 実のところ、この副業を本格的に始めたのはごく最近の事なので、成果は上がっていないのだが、小説家として作品の構想を練っている時には、良い気分転換になっていた。

 私が本当に書きたいのは本格ミステリなのだが、昨今の流行ジャンルはホラーとライトノベルであり、また私のデビュー作も怪奇ものに分類されるので、界隈での私はホラー作家としてのみ名を知られている。

 考えてみれば、いや顧みすれば、私の作家人生ならぬ作家半生は、波間に漂う海月くらげのようなものだった。

 平成初期の人面犬や人面魚、口裂け女などの都市伝説。

 新世紀直前の某預言書による終末思想に二千年問題。

 さらには爆発的に流行し、日本ホラー界の常識を塗り替えてしまった一連のホラームービーなど――平成時代はホラーやオカルトが大流行した。

 そして――自分は、それらのホラームービーや都市伝説の尻馬に乗り、或いは流行を少しでも長続きさせるために担ぎ上げられただけで、作家を名乗るに相応しい文才など、毛先程も持ち合わせてはいないのではなかろうか――と思ったのは、一度や二度ではない。

 連載の合間に別ジャンル、例えばSFや恋愛ものの短編を別ペンネームで何本か書いてみたものの、心情描写に乏しいとか知識に隔たりがあるとか、読者にニーズに応えられていない、などの理由で叩かれまくった。

 辛うじて評価されたのが、推理ものと学生向けの冒険アクションもの。それですら怒涛のように掲載されては消えていく他の小説群と共に、読者の記憶から淡雪のように消え去ってしまったらしい。

 特に恋愛方面では見向きもされず、当時の担当者からも厳しいお説教を受けた。

「マトモな恋愛、したことあります?」

 図星を突かれた。

 どうにか作品に活かせるような恋愛の末にゴールインしてみせようと何度か奮起してみたものの、その下卑た見当違いの下心が見透かされていたのか、それとも単に見てくれと性格によるものなのか、当然のように失敗を繰り返し、無念ながら三十路を迎えた今でも独り身の惨めさを味わい尽くしている。

 もっとも、大幅な収入源となってしまった現在では、自分以外の誰かを巻き込まぬ独身で良かった、などと思わないでもないが。

 いずれにせよ、どのジャンルであろうと情景の描写は必要不可欠であり、それらしい場所を記録と記憶に留め、いつでも書き起こせるようにと、散策と創作を繰り返しているのが現状である。

 本当ならばフィールドワークの為に車を購入して遠出したいところだが、元々収入に乏しい私に、新車はおろか中古品を買い、さらには月極駐車場の使用料を払い続ける金銭的余裕など、あるはずもない。


 今回、私が探している人物の名はM。

 首都圏在住だったが、昨年末に忽然と姿を消してしまったらしい。

 齢は五十半ばで、職業は保険の勧誘員。

 故郷である東北Y県に戻っているという噂と目撃情報を元に、私は某山脈の中腹にあるというH村に向かっているのである。

 H村付近にある無人駅を出た私の鼻孔に入ってきた、晩秋を告げる田舎独特の匂いに気づいた私は、今の時季に行動を開始したのは正解だったと確信した。

 この辺りは、冬に入ると猛烈な寒気と積雪のために山へ入るのは難しくなる。特に規制されているわけではないが、冬山に慣れていない人間が遭難する事件は後を絶たない。

 それだけではない。季節に関わらず、H村に辿り着くには並みならぬ苦労を要される。

 まず、まともな道が無い。もちろん車を使えば辿り着くのは容易だろうが、今回の私のように徒歩であれば、山中の曲がりくねった道を歩いてH村に辿り着くのは、日帰りでは絶対に不可能という、とんでもない場所である。

 従って、少しでも早くH村に辿り着くためには、近道として山林を一直線に突っ切らねばならない。

 そして私は、今まさにそれを実行中なのだ。


 枝や下生えを掻き分け進む私の口から、我知らず大きな吐息が漏れる。

 山中を歩き回ったことによる疲労もあるが、私が今一番望んでいるのは、H村に辿り着くことではなく、適当な広い場所に出て一服することだ。

 しかし、周囲を可燃物に覆われたも同然の山林では、万が一にも火を扱うわけにはいかず、我慢に我慢を重ね続けているのである。

 二千年代に入り、国民の健康に対する関心はさらなる高まりを見せ、私も小説ではなく健康関係の本を書くべきだったと、しばしば後悔する時がある。

 もちろん、その為に必要な知識など、碌に持ち合わせてはいないのだが。

 しかし健康志向が重視されたことで、肺癌の原因となる煙草の喫煙と、それに伴い周囲に及ぼす健康被害も問題視され、所謂いわゆる嫌煙運動も活発になってしまった。

 確かに、嫌煙家の言い分もわかる。常に健康管理に気を使っている自分が、無関係の他人による喫煙が原因で癌になってしまったのでは、遣り切れないだろう。

 しかしそれなら車の排気ガスはどうなんだ、大気汚染はどうなんだと、喫煙家がいくら喚いたところで、時すでに遅し。気がつけば、愛煙家は蛇蝎の如く忌み嫌われるご時世となってしまった。

 愛煙家の間では、あと五年か十年もすれば、外で煙草を吸うのも犯罪扱いされてしまうのではないかと噂され、戦々恐々としている。

 消費税も現行の五パーセントから、さらなる増税となる見込みであるし、四度目のたばこ税増税は目前である。今以上に購入、つまりは消費する本数が減ってしまうことは間違いない。

 私は元から喫煙者だし、部屋に籠りきりになることが多い仕事なので、外出時には周囲に人がいないことを確認してから吸うように心掛けているのだが、それを嫌煙家の担当者に語ったところ、

「だから先生は結婚できないんですよ」

と嫌みを言われてしまった。

 嫌煙活動もそうだが、私が子供の頃に較べると、昨今は本当に時代の流れが速くなってしまったように感じる。

 ほんのちょっと前までは、ポケベルやPHSがもてはやされていた筈なのに、近年では携帯電話に代わりスマートフォンが世間に普及しつつある。

 非常に便利だ。君もこれからはスマートフォンにするべきだと先輩作家に奨められており、そんなに便利ならばと購入したい気持ちを、現状の打ち切り連発による財政危機と、文明の利器に頼りきりになるのは作家としてどうなのか、まだ携帯電話でやっていけるはずだという、自分でもよくわからないプライドが邪魔をして、結局買いそびれている。

 そして肝心の携帯電話はというと、実はアパートに置き忘れてしまったのである。


 いい加減に道に出てくれ、人に会わせてくれと願いつつ、木々の間を縫うように歩き続けているというのに、終わりは見えない。

 まさか、本当に遭難したんじゃあるまいな。

 一抹の不安が、私の頭をよぎる。

 次に浮かんできたのは、自分のデビュー作だった。

 家出した少年が、警察からの職務質問を避けるために森の中を歩き回り、偶然にも首吊り死体を発見する。驚きの余り家出の原因など忘れて家に逃げ帰った少年を、怪異が襲う……という、ありきたりな怪異ものである。

 森に入ってから首吊り死体を発見するまでの情景が、今の状況にそっくりだった。

 これまで情景描写のフィールドワーク、ないし民間採訪と称して田舎の山林を徘徊し、情景を写真に収めてきたが、遭難者や死体に出会ったことは一度も無い。

 一般人としては幸運の極みなのだろうが、作家としては不運なのではないか――と不謹慎ながらに考えたこともあるが、しかし死体を発見したらしたで、主に怪奇小説を執筆している飛沫の如き三文文士が警察沙汰を起こした、などと界隈に広まってしまっては作家生命にかかわる。

 話題になりたいのは私の作品であって、私自身ではないのだ。

 掻き分けた枝葉の間から、突如として眩い光が差し込んできた。


 思わず私は「やっ」と声を上げた。

 舗装されていない剥き出しの土ではあるが、ようやく人が歩ける程度に整地された道を見つけたのだ。

 気合と共に前方へと躍り出て、草の生えていない土を両足で踏みしめる。

 道の幅は極めて細く、自転車やバイクならば通れるだろうが、車は例え小型車であっても無理だろう。

 陽の傾いた天を仰ぎ見てから背中のリュックを地面に下ろした私は、そのリュックに備え付けられた小物入れ用のポケットから双眼鏡を取り出し、周囲に何か目立つものは無いかと眺望する。

 残念ながらそれらしいものが何も無いと確認してから――「何も無い」ことを確認するのも大事な作業である――双眼鏡をしまい、続いて地図と磁石を取り出す。

 わかったのは、ここが南北を通る一本道で地図には載っていないという、ありきたりな事実だけだった。

 この状況で最も役立つであろう携帯電話を忘れてきてしまったことを、今更ながら後悔する。普段は出版社との連絡以外で碌に使い道が無いものだと軽んじていたのだが、生命の危機に繋がりかねない今のような状況では、その有難みがよくわかる。

 こういうのを、覆水盆に返らず、と言うのだろう。

 もっとも、この辺りは電波が届かない圏外である可能性が高いし、万が一にも急な仕事が舞い込んだとしても、アパートに戻らなければ原稿は書けない。むしろ借金返済の催促から逃げ出したいがために、無意識に置いてきたのでは、とさえ思ってしまう。

 出発地点の無人駅と、目的地であるH村の位置関係からすれば、進むべきは南より北になるだろう。

 そう判断した私は、一本道を北へ進むことにした。


 歩き続けて一時間ほど経った辺りで、ようやく目印になりそうな人工物を発見したが、それは少々異質なものだった。

 道端に沿い、三体並んだ地蔵菩薩。

 しかし、何故か真ん中の地蔵だけは、首から上が消えていた。

 不気味に思った私は、地蔵たちの手前で立ち止まり、彼等の背後に回った。

 首があった。

 もちろん、地蔵の首となるべき丸石である。

 両手で抱え上げた石の首を、あるべき場所に戻してはみたものの、当然ながら手を離せばすぐに転がり落ちてしまうだろう。リュックの中に補修テープが入っているが、石の重みに耐えられるほどの粘着力ではない。仮に何も無かったとして数日、風雨に晒されてしまえば一日と保たないのは明白である。

 諦めて首を元の場所に戻してから、三地蔵の前で荷物を下ろした私は、ポケットから煙草を取り出してようやく一服する。

 三体並ぶ地蔵のうち、真ん中の首だけが折れているのは、どういうわけだろうか?

 何かがぶつかったのであれば、左右どちらかの地蔵も、あるいは三体まとめて損傷しているのが自然である。

 これでは、まるで誰かが意図的に手を加えたとしか思えないのだが、首の断面にはそれらしき形跡は見当たらない。さすがに、侵入者に対する警告という意味ではあるまい。

 一服を終え、ステンレス製の携帯灰皿に灰と吸殻を詰め込んだ私は、三地蔵に手を合わせてから再び北上を開始した。


 一時間以上歩き続けると、さらに開けた場所に出た。

 その先には、収穫を終え閑散としながらも、明らかに手入れがされている田圃と、稲架に掛けられ天日干しにされている稲が見える。

 間違いなく、この先には住居がある。

 元気を取り戻した私がさらに歩を進めると、ようやく民家の集った集落に辿り着いた。

 ここが、目的地のH村に違いない。

 しかし村の様子は、昭和後期生まれの私ですら「古臭い」と思わずにはいられない程の、寂れ具合だった。

 村には独特の饐えた匂いが立ち込めているが、不思議なことに蠅や虻、蚊のような羽虫は寄ってこない。

 ひょっとして、ここ数年の間にH村は廃村になってしまったのではあるまいか。

 M氏はそれを知り、人が居なくなってしまったH村から早々に立ち去ってしまったのではなかろうか。

 内心の不安を振り払いながら、私はさらに村の奥へと進む。


 迷路のように連なる民家の軒先には、平べったい紐のような物体が幾条もぶら下がっており、何かの呪いのようにも見える。

 そこから少し離れた場所にも、ぶら下がっているものがあったが、こちらの正体は一目瞭然。というより、これを知らなかったら作家として、いや日本人として終わっている。

 それは、大小様々なサイズの、まだ色塗りされていない瓢箪《ひょうたん》だった。

 そうなると、平べったい紐状の物体の正体も察しがつく。

 こちらは、同種の夕顔を剥いて干した、干瓢かんぴょうだ。

 こういうものを加工し干しているということは、ここにはまだ人がいるのだ。

 私の確信を裏付けるかのように、異邦人の到来を優れた嗅覚で察知したらしい犬が、何処かで吠え始める。

「どうしたんだね、マル。急に吠えたりして」

 引き戸が動く音と老人の声とが、ほぼ同時に私の耳に飛び込んできた。



「えっ。それでは、此処ここはH村ではないのですか?」

「左様」

 大広間の上座に座らされた私は、八ツやつもり村長の返答に愕然とした。

「村の者から聞いておりませなんだか」

「聞きそびれていました。てっきりH村だと思い込んでいたものですから」

 村長の隣に座る夫人が、あらあらと朗らかに笑う。

 それにつられるかのように、私の左右に並んで座る客人たちも笑い声をあげた。

 飼い犬をなだめに表へ出た村人に声をかけ、事情を説明し泊めてもらえないかと頼み込んだ私は、それならば――と村長の自宅に案内され、こうして歓迎を受けている。

 村長の名は八ツ森兼定かねさだ

 齢は七十から八十あたりなのだそうだが、元号が平成に変わってからは数えるのを止めてしまったそうである。

 髭をきれいに剃っており、声を聴かなければ性別の判断もつきにくい、温厚かつ柔和な顔をしている。

 夫人もまた年恰好が近いせいもあり、良く似てはいるが、古風な束髪と割烹着のお陰で、こちらは容易に判断がつく。

 村人に案内された村長宅は、辺鄙へんぴな村にはそぐわないほど広大で、かつ立派な屋敷だった。

 八ツ森村長の話では、江戸時代に成功した堺商人の隠居先であり、同時の武家社会への揶揄から大枚はたいて武家屋敷と同じ造りにしたそうだが、明治に入ってからはその子孫が相続を放棄し、それまで管理を任されていた村長の一族が移り住むようになったという。

「此処はH村ではございません。ホシカベムラ、と申します」

「ホシカベムラ」

 復唱してから、私が思い浮かべたのは、ロマン溢れる満天の星空。

「良いですねぇ。壁の如く夜空を覆う星、ですか」

「いえ。そちらではなく、天日干しとか風干しとかの干し、でございます」

「えっ」

 またしても、大広間に笑い声がこだまする。

 そうなると「カベ」はどうなるのか。

 次に私が思い浮かべたのは、JR東日本の青梅線にある、河辺駅だった。

 恐らくは、近くにあった川が干上がったことで、この名がついたのだろうが、また間抜けな質問をして恥を晒すのは、さすがにみっともない。こちらで勝手に「干河辺村」ということにした。

「H村は、此処より北にございます」

「H村とは、少しばかり名が違うのですね」

「違うのは、名前ばかりではございませんよ」

 長としての自尊心だろうか、八ツ森村長の声色が微かに変わる。

「この干河辺村は、延喜十五年に北で起こった災いから逃れ南下してきた民が、地元の者と協力して作り上げたという由緒がございます」

「災い?」

「言い伝えでは、突如として地から噴き出した雲が天を覆い尽くし、世界が闇に包まれた、ということでございますが、まあこれは只の伝説にすぎないかと」

 いや、只の伝説ではない。

 延喜十五年といえば、T湖付近で日本史上最大級とまで言われる大噴火が起こったことで知られている。その時には、遠く離れた京都ですら「朝日が輝きを失った」と文献に記されているくらいだ。

「お客様方は、村のいたるところにぶら下がっているものを、御覧になりましたか?」

「干瓢ですか?」

「瓢箪のことかな?」

 私の左右からほぼ同時に上がった声に、両方でございますと答える村長。

「この村で育てております夕顔は、市販のものに比べて舌触りと歯ごたえが良く、収穫量の少なさも逆に希少価値があると好評で、卸している業者によりますと、京や大阪の有名な料亭から注文が殺到しているそうでございます。また瓢箪も、素材と塗りの出来具合が好評で、一つあたり大体これぐらいで取引させていただいております」

 そう言いながら、八ツ森村長は両手を突き出して指を折り曲げる。

「安いですね」

「これに、ゼロが四つ付きます」

「えっ」

 左に座る客から声が上がった。

「なんでも、茶道具としてお使いになるのだそうで」

 伝統と格式が関わるとはいえ、瓢箪一個にその値段は、いかにも高い。

「おかげで、この様なさびれた村でもどうにかやっていけております」

 謙遜しながらも、八ツ森村長の顔は誇らしげだった。

成程なるほど。しかし」

 驚きの声を上げた左側の客は、何かを思い出そうとする素振りを見せながら、己の顎を指先で撫でる。

 彼の名は小暮良こぐれりょう

 ぱっと見ただけでも身長百八十を超える大柄な体格で、日焼けした肌はいかにもアウトドア志向の精悍さを主張している。

 仕事はアパレル関係の営業で、休暇中に趣味で山に入ったところ、道に迷ってしまったらしい。

「それにしては、村の皆さんは」

おっしゃりたいことは、重々承知しております」

 八ツ森村長の誇らしげな顔が、一気に渋面じゅうめんへと変わる。

「若者がいない、というのが村の最大の問題です。特に、瓢箪づくりの技術を継承させたい若者がおりませぬ」

 確かに、私がこの屋敷に到着するまでの間、物珍しさから窓を開けてこちらを伺う村人たちの姿はそれなりに見かけたが、どう見ても中年以上の年配ばかりだった。

「戦後あたりからですかなぁ。都会へ行った若者が、二度とこの村に戻らなくなったのは」

 遠い目をして語る村長ではあるが、私としては村を出た若者たちの心情も、理解できなくはない。

 干河辺村には、電力が通っていないのだという。

 平成のご時世ではとても信じられない話だが、戦後から高度成長期にかけての慌ただしさに加えて、わざわざ山林を通してこの村に電力を通した場合に掛かるコストを検討した結果、県と村との話し合いにより通電不要との結論が下されたそうである。

 当時の大人や老人はそれで良かったかもしれないが、若者が不満を持ったのは当然の流れだろう。最も近い小学校ですら山一つ、中学校に至っては日の出前に家を出なければ授業開始に間に合わないといった環境、さらに高校生活では麓の町に出て便利な電力生活を味わってしまったのでは、村に戻れという方が酷である。

「まあ、戦後になったというのに電気も通らぬような辺境では、戻る気も起こりますまい」

 私の内心を見透かしたかのような呟きと共に、ため息を漏らす八ツ森村長。

「ご飯のお代わりはいかがですか?」

 夫人に声を掛けられた私は、恐縮しながらも空の茶碗を差し出した。

 夕食は膳で、さつま芋ご飯にけんちん汁。

 三つに割いた焼き松茸を一番喜んだのは、小暮だった。

「通らないのは電気だけじゃない。車もでしょう」

 口を噤つぐんでしまった小暮と交替するかのように、今度は私の右隣に座っている鬼平おにひらが声を上げる。

 小暮とは対照的に痩せて色白だが、細い首をせわしなく動かしては大広間のあちこちに鋭い眼光を飛ばしているその様は、さながら闘鶏とうけいに出場し決闘開始の合図を待っている軍鶏しゃものようである。

 プロのカメラマンで、実際に彼が撮った写真を掲載している雑誌も教えてもらった。その誌名は知っていたが、それは旅行者向けの紀行誌であり、私自身が手に取ったことは一度も無い。

 小暮は大柄、鬼平は細身であるが、二人とも引き締まった筋肉の持ち主であることが、村長宅から借り受けた寝間着の端から伸びた手足からも見てとれる。一方で私はといえば、たまに山中を歩き回って入るものの、その為のトレーニングなどは行ったこともなく、二人と見比べて贅肉塗れの己の肉体が惨めに思えてくる。

「あんなに道が細くては、車一台すらまともに通れない。一体、この村の必需品はどうやって買い揃え、特産品を出荷しているのです?」

「何日か置きに、村の共用品である原動機付自転車で麓の町へ向かいます」

 それが原付、スクーターのことだと気付くのに、少しだけ時間を要した。

「それじゃあ、原動機付自転車の整備もその時に?」

「はい。それより以前は馬を使っていたのですが、今はまともに馬に乗れる者がおりませんので」

 今は、ということは、昔のこの村には、馬に乗れる人間がいたのだろうか?

 堺商人の別荘ならば、あり得ないとは一概に言い切れない話ではあるだろう。

「しかし、原動機付自転車だって大変でしょう」

「若者には、そちらの方が扱いやすいそうでございます。まあ、若者と言ったところで三十をとうに超えておりますが」

「それでも原動機付自転車では。雨が降り続いたら困るだろうし、第一、車の方が馬力も積載量も格段に上だ。瓢箪や干瓢の取引だって、問屋を介さず直接受け取りに来れる。せめて車一台が通れる程度に道を広くするよう、役所に掛け合ってみては如何です?」

 鬼平の進言に、しかし八ツ森村長は微かな自嘲の笑みを浮かべながら、静かに被りを振る。

「お言葉ではございますが、この様な、人の訪れも稀な過疎村に、今さら道路の拡充を求めたところで、どうなりましょう。それに、仮にお役所が手を付け始めたところで、拡充工事が完了するのは何年先になることやら。その頃には、儂らはとっくに土の下でございましょう。他の土地の方々から徴収している税金を、そのような無駄に費やすわけにはまいりません。この村は、このままひっそりと消え去る定めなのでございます」

 きっぱりと断ってから、「失礼」と立ち上がり大広間を後にする八ツ森村長。

 さつま芋ご飯の甘味と食感を味わいながら、私は改めて大広間の内装を見回した。

 江戸時代からの遺物と言えるだけあり、屋敷の造りは古風かつ和風であることは確かなのだが、私の背後の床の間に掛けられているのが洋風の風景画だったり、振り子式の柱時計が掛けられていたりと、所々に開国以降の趣を感じさせる装飾が施されている。

 ただ、四方に置かれた灯油ランプの弱い光では、大広間の隅々まで視認するのはとても叶いそうにない。

「先生、椀留わんる先生」

 ペンネームで呼ばれて、初めて自分のことだと気付いた私は、左へ顔を向けた。

 私が椀留有無わんるうむというペンネームの作家だということは、彼らには既に説明済みである。

「すいません。担当者以外に先生と呼ばれるのは、慣れていないもので」

「いいんですよ。それより俺、先生の小説を読んでいたことを思い出しましたよ」

「本当ですか?」

 小暮は自慢げに頷く。

「あのシーンがお気に入りなんですよ。ほら、主人公とヒロインたちが車で雨の東名高速を突っ切って、ホテルに向かうところ」

 そんなシーンを書いた覚えは無い。

「それ、多分違う作者の作品じゃないかなぁ」

「えっ、『中井戸二重不倫旅行』の作者さんですよね?」

「違う人です」

 背面に座る鬼平の表情まではわからないが、村長夫人は必至に笑いを噛み殺している。

「私が書いているのは、主にホラーですよ。怪奇ものです」

「ははあ。するとあれですか、テレビ画面の中から白装束の女が這い出してきたり、引っ越し先の一軒家に悪霊が憑りついていたりとか」

「そうそう、そんな感じの小説です」

 軽く答えたものの、あれだけの社会的一大ブームを生み出せるような文才など、私は欠片も持ち合わせていない。

「ホラーはなぁ……根が怖がりなもんで、女のコと一緒にいるときの話題程度にしか知らないんですよ」

 厳いかつい身体つきのわりに、気の弱いことを言う。

 もっとも、これ以上の失言を繰り返さないための防衛手段なのだろうが。

 それにしても、二重不倫旅行とは。普段はどんな小説を読んでいるのだろうか、この男は。

「鬼平さんはどうだい。先生の作品、読んだことある?」

 振り返った私の目の前で、鬼平は首を左右に振った。

「覚えが無い。最近の小説は読まないから」

「ホラーって、最近の小説かな?」

「昔の小説なら、どんなものを読んでます?」

 私の問いに鬼平は、そうだなと首を傾けた。

「怪奇ものなら森鴎外の『蛇』とか、谷崎潤一郎の『人面疽』あたりかな」

「えっ」

「聞いたことないねぇ」

 小暮の反応は当然だろう。

 どちらも著名な大作家だが、短編とはいえ怪奇小説を書いていたことは、あまり知られていない。

 鴎外の『蛇』は、ある寂れた村にて精神病を患った婦人の話で、谷崎の『人面疽』は、銀幕女優に纏わる怪奇譚である。

 どちらも昨今のホラー作品に比べれば派手さはなく、文豪の代表作と比較するとその知名度は月とスッポンと言えるだけに、物静かなカメラマンの口からその名が出たことが、実に意外だった。

「まあ、もし単行本が出たら購入していただけると有難いですね。そこら辺の本屋かコンビニで僕の名前を見つけた時に、ああこんな奴がいたな、と思い出して戴けるだけでも結構ですので」

 先の暗い状況で、望みの薄い仮定を語ってから、私は話題を切り替えた。

「実はですね、仕事の合間に人捜しを頼まれたんですよ」

「人捜し」

「ええ、Mという男性なんですがね。ここから北にあるH村が故郷だというので、そちらにお伺いする予定なんです」

 説明しながら、懐から取り出したMの写真を鬼平に渡す。

「ご存じありませんか?」

「こう暗くては」

 その乏しいランプの光源の下、鬼平の眉根が微かに動いたように見えたのは、はたしてこちらの気のせいか。

「小暮さんはどうです?」

 鬼平から手渡された写真を眺める小暮だが、こちらは大袈裟に首を捻る。

「見覚え……無い、かなぁ」

「Mさん、でございましたね?」

 手掛かりの声は、意外なところから飛んできた。

 私たちの会話を聞きながら黙々と食事していた、村長夫人である。

「その方なら、ふた月程前に当宅にお泊りになりました。なんでもH村に帰郷するのだと仰っていたようですが」

「そりゃ本当ですか?」

「ええ。大荷物を背負っていらっしゃったので、よく覚えております」

 やはり、Mは故郷に帰っていたのか。

 おお、と私が歓喜の声を上げたところで、一メートル近い巨大なランプを抱えた八ツ森村長が大広間に戻って来た。

「失礼しました。灯りが足りないようなので、これを、と思いましてな」

「貴方」

 大型ランプを大広間の中央に据えた八ツ森村長に、夫人が私の事情について説明する。

「おぅおぅ、それなら覚えております。確かに女房の言う通り、えらい大きな荷物を背負っておりましたな。なんでもH村の家族への土産物だとかで、結構な親孝行だと感心したものです」

「やりましたね、先生」

 小暮が、まるで自分のことのように喜ぶ。

「ところで、今日はもう遅うございます。今夜のところは、ひとまず当家にお泊りになって、出発は明日以降になされるべきだと思うのですが、いかがでございましょう」

 元から私はそのつもりだったし、小暮と鬼平も異存はないだろう。

 元号が昭和から平成に、西暦が二千年代になったからといって、夜の山道が危険であることに変わりはない。

「ぜひ、お願いします、しかし、一度に三名は」

「心配ご無用でございます。広いだけが取り柄も同然の屋敷でございます。それに客間以外にも、都会へ出たきり戻ってこない兄弟や子供たちの部屋もございます。泊っていただくには、少々手狭ではございますが」

 点火したランプの輝きに照らし出された村長は「ただ、まあ」と付け加える。

「ランプの数が足りないので、皆様方のお部屋には、行灯あんどんを置かせていただくことになりますが」

「行灯」

 ついに江戸時代にまで遡ってしまった。

「それはちょっと、困るなぁ」

 大型ランプにより、表情の変化がはっきりと見て取れるようになった小暮が、難色を示す。

「行灯なら見たことありますよ。でもあれって、木の枠に紙を貼っただけで、そこに蝋燭ろうそくを入れるんでしょう? 危ないなぁ。火事になったらどうするんです?」

「そちらも、御心配には及びません。行灯と言いましたが、そっくりそのまま昔の物を使うのではなく、土台を銅板にして、薄いガラスの火屋ほやを入れております。実質、これと似たようなものです」

 説明してから、八ツ森村長は大型ランプの火屋を軽く撫でた。

「これならば、余程のことがない限り火事は起こりますまい」

「それなら結構」

 鬼平が表情を崩さず了承する。

 小暮も、若干不安げではあるが、断るつもりは無いようだ。

「そうなると、火種を用意しなければいけませんねぇ。火打ち石はお借り出来ますか?」

「マッチがございます」

 私のジョークは、まったく受けなかった。



 あまり寝付けなかったのは、乱れ打つように屋根瓦を叩き続けた俄雨にわかあめのせいだろう。

 夜半過ぎぐらいになるだろうか?

 ゲリラ豪雨により生じた雨漏りは、奇跡的に私が寝ている布団を避けていた。

 朝食の際に村長からそのことを尋ねられ答えた私を、誰よりも大袈裟にうらやんだのは小暮だった。

「ああ、俺が先生の部屋に泊まっていればなぁ」

 彼が泊った部屋では、雨粒が顔面に命中したので、わざわざ起き上がって布団の位置をずらしてから二度寝したのだという。

 鬼平が泊った部屋も、雨漏りが布団にかかったので、やはり布団をずらし、こちらは滴が垂れる場所に自前のコップを置いて受け止めていたようである。

 朝食の献立は、ご飯に油揚げの味噌汁、目玉焼きに納豆と浅漬けと極めて質素なもの。

 鬼平は無言のまま、私は喜んでいただいたが、複雑な表情を浮かべたのが小暮だ。

「俺、朝だけは洋食派なんですよ」

 せめてコーヒーをと懇願したものの、夫人はすまなそうに頭を下げた。

「お茶ならございますが……」

 元から置いてないと言われてしまっては、小暮も己の非礼を詫びるしかない。

「ここまでもてなしてくれたのに、これ以上を望む方が悪いですよね」

 朝食を済ませ、一宿二飯の礼を言ってから出発の支度を始めようと腰を浮かせた私だが、八ツ森村長に呼び止められた。

「本日、御発おたちなされるおつもりでございますか?」

「ええ、まあ」

「それは危ない。雨上がり直後の山道は、土がぬかるみ大変滑りやすくなっております。村を出るのはお止しになって、もう一日だけ当家に泊まりなさるのがよろしい」

 今までにない、強い口調である。

「村長の仰る通りですよ、先生」

 同意したのは小暮だった。

「ぬかるんだ山道、特に崖や斜面は危ない。土が乾くまでは、迂闊に出歩かない方が良いですよ」

「まるで、実体験したかのような言い草ですな」

 鬼平の言葉に、小暮は両手を振り上げるオーバージェスチャーでそれを肯定する。

「そうです、そうなんです。実体験なんですよ。俺ね、雨上がりの山道を甘く見て、死にかけたことがあるんですよ」

「へぇ?」

「山の斜面を歩いていた時の話なんですがね、雨で柔らかくなった土を踏んで、あっと思った時には身体ごと滑ってましたよ」

 言いながら、上げた両手を斜めに振り下ろす小暮。

「滑落って言うんですかね、ああいうの。一旦滑り落ちたら、もういけない。いくらもがいて土をつかんだところで、ずぶずぶとぬかるんで指が抜けてしまう。途中に生えていた木の幹に受け止められて、九死に一生を得たようなもんですよ。そのまま俺が滑り落ちた先を見たら、待っていたのは崖っぷちでしたからね」

 その時の光景を思い出したのか、大きな両手で顔を覆い、ああ嫌だ嫌だと呟く小暮と、それに同意する八ツ森村長。

「小暮様の仰る通りでございます。お客様のような方々が、村の近くでお亡くなりあそばされたのでは、村の者が、いやこの爺と婆の短い老い先が、より一層暗いものになってしまいます。安全のためにも、もう一日だけ当家に滞在してはいただけませんでしょうか。勿論、それに見合ったおもてなしはさせていただきますので」

「わかった」

 即答したのは、私ではない。

「実は自分も、昼頃に此処を発とうと思っていたのだが、中止しよう。撮影中に不帰の人となったのでは、せっかく撮った写真が泣く」

 思っていたより気障きざなセリフを吐く鬼平。

 こうなっては、私一人が強行するわけにもいかない。

「わかりました。僕も出発は明日に延期しましょう」

 代わりに、昨夜寝付けなかった分、昼寝するという手もある。

 言うなれば、已やむに已まれぬ特別休暇だ。

「その代わりと言ってはなんですが、村の中を案内いたしますので」

「へぇ!」

「ほう」

「えぇっ」

 情けない声を上げた私に、三人の訝しげな眼差しが集中する。

「いや。僕はですね、部屋で荷物と書きものの整理などを」

「申し訳ございませんが、雨漏りの修理などがございますので、昼過ぎまではお部屋から離れて戴きたいのです」

「あ、雨漏りの修理……」

 確かに、それでは部屋に居ては邪魔になるだけだ。

「面白そうじゃないですか。行きましょうよ、先生」

「撮影許可は下りますかね」

 乗り気な二人とは逆に、自由と休息の両翼をもぎ取られ悲嘆にくれる私だったが、もはや拒否権はないも同然だった。



「これが、村を守ってくださるミカシラサマの御社です」

 案内役の吉野よしのさんは、誇らしげに小さな社《やしろ》を紹介した。

「もう二十、いや十歳若かったら、絶対口説いてましたよ」

 小暮の見え透いたおべっかにも、嬉しそうに顔をほころばせる、いかにも人当たりの良さそうな、世間慣れした年配のおばさんである。

「これでも昔はね、バスガイドを目指していたんですけどね、やっぱり故郷が恋しかったったんだろうなぁ。結局戻ってきて、こっちで所帯持ったってわけ。んだからね、こういう時の案内役はあたしが任されてんのさ」

 村長の屋敷の前で、案内役として紹介された時から、この調子である。

「男の方が三人、しかも全員あたしより年下みたいですもんなぁ。案内するこっちが先に息切れしちまうかもしれんねぇ」

「いいから、さっさと案内しなさい。それに吉野さん、あんただって村じゃ善吉ぜんきちの次に若いのだから、勝手に老け込まれては困りますよ」

「善吉?」

「昨晩申し上げました、町への買い出しを担当しておる若者でございます」

 吉野のおばさんに向かって「くれぐれも粗相のないように」を繰り返す村長に見送られ、最初に案内されたのが、村の守り本尊とも呼ばれている「ミカシラサマ」の御社である。

 社と呼ばれてはいるものの、その外観は世間一般に周知されている神社や社とは大きく異なり、巨大な木製の円筒を縦に何本も並べ、重ね合わせたかのような不思議な造りになっている。

 この特異な形状に最も目を輝かせたのが、カメラマンの鬼平だったのは、ある意味自然な流れなのかもしれない。

「写真、撮っても構いませんかね?」

 ええですよ、と気兼ねなく承諾する吉野のおばさん。

 たちまち首からぶら下げた一眼レフを構えた鬼平は、瞬く間に社の前を左右に歩き回りながら、貴重であろう被写体を次々とフィルムに収める。

「すげぇ、まるで別人だ」

 感心する小暮はワインレッドの長袖にカーキのベスト、紺のジーンズと比較的軽装である。一方の鬼平に至っては白のワイシャツに黒のスラックスと、とても山登りに相応しい格好とは思えないのだが、それでも巨大な一眼レフを首からぶら下げることで、カメラマンらしさを辛うじて保っているようにも見える。

「それで、ミカシラサマの言い伝えというのは?」

 この村を守っているのは、ミカシラサマと呼ばれている神様である。

 案内されている道中、吉野おばさんからそう説明を受けてはいたが、その由来やご利益については、到着してから話して貰える約束だった。

 職業柄、私はこういう類の伝説には目が無い。

 次回作の構想に使えれば、という浅ましさもあるのだが。

「この村が大昔、北の災いから逃れた人たちによって作られたというのは、村長から聞いていらっしゃる?」

「ええ、まあ」

「それからしばらく経って、山の頂上でバケモンが生まれたんだとさ。そいつが何度も村を襲っては人を殺し、喰いもんを奪っていたんで、天から降りてきなすったミカシラサマが二人のお供と一緒にバケモンさ退治したんだけど、ミカシラサマたちも相討ちでお亡くなりになったんだそうです」

 意外と弱い神様である。

「それで、村では代々ミカシラサマを称え、その御霊をまつっているんですわ」

「祀る?」

「そうそう。ミカシラサマのお供は弱くって、バケモンに出会った途端に討ち取られちゃったから、祀るのに使う供物は腐りやすい物。逆にミカシラサマを祀るのには、長持ちするように乾燥した物を使うしきたりなんです」

 つまり、腐食に対する強さがそのまま神格の強さになるということか。変わった神様もいたものである。

 同時に、ミカシラサマなる名称もに落ちるものがあった。

 恐らく最初は別の名か、あるいは名前の無い三つの神格が、時と共に優劣を付けながらも、怪物退治の伝説をきっかけに一体化して「三頭みかしら様」、つまりは「ミカシラサマ」と呼ばれるようになったのだろう。

「そのミカシラサマに退治されたバケモンって、どんな奴だったんです?」

 小暮の、思いつくのは当然といえば当然の質問に、しかしおばさんは小首を傾げた。

「それがねぇ、よくわかっていないのさ。お客さんは、どんなバケモンだったと思う?」

「蛇じゃないかなぁ。ほら、ヤマタノオロチとか、昔話には結構ある話じゃないですか」

 正確には、ヤマタノオロチは古事記と日本書紀である。

「先生は、どう思います?」

「僕は猪に一票かな。此処は山だし、近くに水辺は無いようだし」

 大蛇に比べればマイナーだが、農耕民族の田畑を荒らす害獣である猪を怪物化し、それを退治する英雄譚は世界中に溢れている。

 水に乏しい山中であれば、爬虫類よりは哺乳類の怪物視の方が理に適っている。

 今回は猪を挙げたものの、猿もまた同じ理由で怪物視、あるいは逆に神聖視されることがあるが、こちらのケースはユーラシア大陸に多い。

「鬼平さんは、どう思います?」

「私は」

 それまで異質な社を撮り続けていた鬼平が、シャッターを押す指を止め、こちらを向いた。

「そうだな。山賊か地方の豪族、ひょっとしたら朝廷からの討伐隊だったんじゃないか……と思うな」

 これはまた、意外かつ大胆な意見である。

「動物じゃなくて人間だった、と仰る?」

「そんなにおかしな話かなぁ。朝廷に敵対する土豪が土蜘蛛と呼ばれ、山に棲みつく山賊が鬼と呼ばれていた時代があったんです。それに古代中国の神話には、三苗と呼ばれる悪神がいたんですが、それは西や南にいた民族を意味していた、という説まであるんです。日本に似たような話があっても、別におかしくはないでしょう」

 只のカメラマンとは思えない博識である。

 当の本人は、閉じられた円筒状の扉の前に立ち、その取っ手に手を掛ける。

「あ、ちょっと」

 驚きの声を上げ、おばさんは鬼平の腕にしがみついた。

「それは駄目です」

「入ってはいけませんか」

「村のもん以外が、この中に入ってはいかん。そういうしきたりになっているんですよ」

「ちょっとだけなら」

「いけません」

 こういう時、年上の女性に強くたしなめられると、男は弱い。

 小暮も、吉野のおばさんに同意する。

「鬼平さん。俺たち三人、村長のお宅に厄介になっているんです。言ってみりゃ、村の世話になっているも同然じゃないですか。その村の人間が駄目と言っているんだから、あきらめましょうよ」

 小暮の言うことは、もっともである。

 もっともではあるのだが――私がどちらの肩を持ちたいかといえば、鬼平の方だ。

 作家の好奇心という業が、我ながら遺憾に思える。

「おばさん。それじゃあ、おばさんが扉を開けて、我々は此処で中を見るだけ、というわけにはいきませんか。決して中には踏み込みませんから」

 私の提案に、しばらく難しい顔をしていた吉野のおばさんは、大きなため息を一つ吐いてから社の扉に手を掛けた。

「それなら、まぁええけど……そこから動いちゃいけませんよ?」

「約束します」

 後方に下がり、私の隣で足を止めた鬼平が同意する。

 時間帯が、私たちに運を授けてくれた。

 陽光差し込む社の内部は、半透明の帳が掛けられており、その左右と中央には月白げっぱくの台座が据えられていた。

 左右の台座に収められ、淡い輝きを放っている石は、翡翠だろうか。

 中央の台座に鎮座するのは紫綬しじゅ袱紗ふくさ。何やら梵字のような文字が金糸で縫い取られているが、それが意味するところまでは把握できない。

 大きく膨らんでいるところを見ると、御神体を包んでいるのだろう。

「驚いた。あれは翡翠ですね?」

 小暮の言葉で、私の推察が確信に変わる。

「さ、もうええでしょう?」

 早々と扉を閉じた吉野のおばさんに、うやうやしく一礼する鬼平。

「ありがとうございました。大変、掃除が行き届いているようで」

「まあ神様ですからねぇ、おろそかには出来ませんわ」

「しかし、見たところ宝石を納められているようですが、大丈夫なんですか? 誰かに盗まれたりしませんかね?」

 小暮の言葉に、おばさんはアハハと快活に笑う。

「この村で、ミカシラサマ相手に盗みを働く馬鹿なんておりゃせんよ。罰当たりどころの話じゃないもんな。一応、野良犬が入らないように、こうして扉は閉めてるけどな」

「なるほど。刑事罰より神罰が怖い、と」

「そうそう……あれ?」

 笑うのを止めた吉野のおばさんは、急にきょろきょろと辺りを見回し始める。

「お客さん、どこ行ったの?」

 いつの間にか、鬼平の姿が消えていた。

「こっちです、こっち」

 声と共に社の裏から姿を現した鬼平だったが、その両手に抱えていたのは、神様を祀る社にはそぐわない民具。

「裏手の写真も撮っておこうと思ったら、こんなものが落ちてました。これ、村で使っているものでしょう?」

「あれまぁ、なんでこんなとこに?」

「なんです、あれ?」

 あんぐりと口を開けた吉野のおばさんに代わり、私が説明する。

「押し切りですよ。牛や馬の餌にする飼い葉ってあるでしょう。あれの元となる藁を、食べやすいように小さく切る為の道具です。まあ、昔の裁断機、ペーパーカッターならぬグラスカッターですな」

「へぇ」

 説明しながらも、私はその押し切りのサイズに驚愕していた。

 本来の押し切りも、決して小さなものではないのだが、鬼平が両手で抱えているそれは、長さだけでも一メートル半をゆうに超え、刃の厚さも鋭さも並外れている。

 これならば、藁どころか丸太だって余裕で裁断できるのではないか。

「こいつは、村が共用で使っているやつだね。いつもなら作業場に置いてあんのに、どうしてこんなところにあったんだろう?」

「誰かが私用で持ち出してから、返しに行く途中でお参りして、何かの理由で置きっぱなしにしたんじゃないですかね?」

 そう思いたい、そうとしか思えない。

「まあ、ええわ。どっちみち次は作業場を案内するつもりだったんだから。ついでにそいつを返しときましょうかね」

「それなら、私がこのまま抱えて行きますよ。見た目よりずっと重いから、女性に担がせるのは酷だ」

「あらいやだ、やっぱりお客人は違うねぇ。村のもんと違って、ちゃんと女扱いしてくれるんだから嬉しいよぉ」

 吉野のおばさんは、また笑いながら鬼平の尻をぴしゃりと叩いた。


「此処はもう、ほんとに面白いもんなんか何も無いんだけどね」

 そういう吉野のおばさんに案内されたのは、キャンプ場の炊事場を彷彿とさせる作業場だった。

 小中学校の体育館並みの広さはあるが、壁や仕切りは存在せず、屋根と柱のみで建てられている。

 中央に井戸があり、それを囲うように炊事場や洗い場が作られているらしい。物置場らしき一角には、戦前の名残を残す様々な民具が置かれていた。

「此処は村の皆で使っているから、夜中以外は大抵誰かいるんですよ、ほら」

 自分で指さしておきながら、その相手の背中を見た吉野のおばさんは「ありゃ」と頓狂とんきょうな声を上げた。

「善吉じゃねぇの。あんた、なんでここにおるの?」

 声を掛けられ振り向いた善吉は、吉野のおばさんとは対照的に、終始不満を抱えているかのような、不貞腐れた顔をしていた。

「なんだよ、いちゃあ迷惑なのか」

「だってあんた、今日は買い出しの日じゃ」

「ゆんべの雨で中止になったんだよ。お陰で、今日は牛ささばいとる」

「牛」

「ああ。客人に出して、残りは干し肉にしろってさ」

 答えてから、善吉はおばさんの背後に並ぶ私たちに気づいたらしい。

「あんたらか、客人ってのは」

「どうも」

 代表というわけではないが、取り敢えず私が一歩前へ出て頭を下げる。

「あ、そうだ」

 思い出したかのように、鬼平が抱える押し切りを叩く吉野のおばさん。

「善吉。あんた、こいつをミカシラサマの御社のとこに置き忘れていかんかったかい?」

 善吉もまた、吉野のおばさんと同じように、ぽかんと口を開ける。

「俺じゃねぇな。むしろ、そいつを探してたんだ」

「あんたでもないとすると、誰が持っていったんだろうねぇ」

 もう一度押し切りを叩こうとしたおばさんだったが、その手は虚しく空を切った。

 鬼平が、無言のまま物置場に押し切りを戻していたのだ。

「これ、何に使うんです?」

 かまどの側に置かれた砂利入りのたらいと、砂の入ったたらいを指さしながら尋ねる小暮に、善吉はぶっきらぼうに答える。

「皮のなめしだ。せっかく捌いた牛だ。使えるところは徹底的に使わなくちゃなんねぇ」

「凄いな、なんでもある」

「逆だ。無いものばかりだから、自分でどうにかしなくちゃならねぇんだ」


 村長宅に戻り昼食を取っていると、雨漏りの修理が終わったとの知らせが届いた。

 吉野のおばさんは、午後も村の消防施設やいしぶみ、さらには自分の家や隣近所も案内しようと言い出した。

 しかし私は昨晩の寝不足と、慣れない山歩きで蓄積した疲労とで、もはやダウン寸前だったので、小暮の誘いも丁重に断り、創作のヒントが湧いてきたからと嘘を吐いて自室に戻ることにした。

 ついでに掃除もされたらしく、昨日に比べると掃き清められている室内を見廻してから襖で陽光を遮ってみると、これが昼寝には丁度良い塩梅の暗さ。

 これ幸いと仰向けに寝転んで大の字になった私の意識は、あっという間に闇の彼方へと飛び去ってしまった。


「早朝、でございますか」

 昨晩の松茸に続き、夕食は豪華にすき焼き。

 感情をストレートに出す小暮は素直に喜んでいるが、我々三人の為に村の牛をわざわざ捌いたのだという善吉の言葉を思い出した私としては、嬉しさより恐縮の方が先に出てしまい、食べてしまうのは勿体ないとさえ思えてしまう。

 もちろん、美味いことは間違いないのだが。

 具は牛肉の他に葱、白菜、しらたき、焼き豆腐、椎茸、そしてフランスパンを輪切りにしたようなもの。

「なんですか、こりゃ?」

「麩でございます」

「フ?」

「左様、揚げ麩、油麩などとも言われております。小麦粉に塩水を入れて練り、揉みながら濾して作るのが麩でございます。これを蒸せば生麩、生麩を煮てから丸く千切り干したものが豆麩。そして生麩を油で揚げたものが、こちらの揚げ麩でございます。すき焼きの残りが少なくなったところにこれを入れると、脂と割り下を吸い上げ、大変美味しゅうなります」

「へえぇ」

 溶き卵を肉に絡め頬張りながら、翌朝出発の件を切り出そうと試みはするものの、なかなか踏ん切りがつかなかった私が、どうにか決意を伝えたところ、目を見開いた八ツ森村長の第一声が、先程のそれだった。

 さすがに、向こうも想定外だったらしい。

「はい。それも、日の出と同時に出発したいのです」

「それはまた、随分とお急ぎで」

「M氏の足取りがつかめましたからね。私としては、一刻も早く出発したいのです。運が良ければM氏を発見できるかもしれませんし、彼が何処かへ行ってしまったとしても、彼の事を知っている人間は少なくないでしょう。行き先も目的もすぐにわかるはずですから、追いつくのも不可能ではないだろうと思いまして」

「しかし、道が」

「今日は一日カンカン照りでしたから、さすがに道も乾いたでしょう。お心遣いは感謝いたしますが、私としてはどうしても時間が惜しい。これ以上時間が掛かってしまっては、M氏本人どころか手掛かりすら見失ってしまうかもしれない。M氏の足跡が消えないうちに、H村に辿り着きたいのです」

 説明しながらも、落ち着きを取り戻すために一服したいところではあったが、さすがに人前での喫煙は憚られる。

 私たちの会話を聞いていた小暮が、箸を止め牛肉を呑み込んでから口を開いた。

「俺も、ご一緒しましょうか」

「小暮さんも?」

「いや、先生が仰ってくれなかったら、俺の方から切り出していたところだったんですよ。俺も明日、ここを発つつもりだったんですよね。ただ、出発の時間は昼頃にしておくつもりだったんですけど、一人で昼に発つよりは早朝でも二人連れの方が心強いや。H村に着いてから別行動を取りましょうや」

「ほ、小暮様も?」

「ええ。俺は俺で仕事がありますし。鬼平さんは、どうします?」

 小暮と私、村長夫妻の視線を一身に浴びた鬼平は、涼しい顔で意外な言葉を口にした。

「私は、もう何日か此処に御厄介になりたいですな」

「それはそれは」

 客人の滞在が嬉しいのだろう、老夫婦は相好を崩して鬼平の申し出を喜んだ。

 反対に不思議そうな顔をしたのが小暮だ。

「そりゃまた、どうして」

「吉野さんに村を案内してもらったじゃないですか。あの時、面白い被写体を幾つか見つけましてね。明日からは泊りがけで、腰を据えて撮影したいんですよ」

「被写体?」

「ほら、ミカシラサマのお社とか碑とかですよ」

 成程、それは確かに魅力的かもしれない。

 私とて、Mの件が無ければ小説の為にしばらく滞在したい、という気持ちが無いわけでもない。

 それに住民として暮らすのであれば話は別だが、客人として滞在するだけなら、電気も通らない辺境での日々もまた静かで乙なものである。

「一緒に行きましょうよ、せっかくの縁なんだから」

 名残惜しそうに動向を促す小暮だが、鬼平の意志は固い。

「我々が此処で出会ったのも縁なら、私がこの村に辿り着いたのも縁だ。私はしばらく残り、貴方たちは出発する。それで良いじゃないですか」

 それでもまだ何処か不満げな小暮を宥めるかのように、八ツ森村長はまあまあと皺だらけの両手を上下に振る。

「御三方、それぞれの事情がございましょう。ここで、この老いぼれの我儘を押し通すわけにはまいりませぬ。小暮様と椀留様には、明日の出発前に握り飯をお渡ししましょう」

 そう言って八ツ森村長が目配せすると、心得たとばかりに夫人が立ち上がって大広間から退出する。

「すいません」

 礼を言ってから、すき焼きの残りが少なくなってきたので、勧められたとおりに油麩を入れてみる。八ツ森村長のいう通り、肉の脂や野菜の旨みをたっぷり吸い上げて柔らかくなった油麩は、独特の食感と噛むたびに染み出す割り下が、得も言われぬ美味を生み出していた。

「いやいや。しかしそうなりますと、御二方には今宵がこの村で最後の晩餐になりますな。最後のおもてなしとして、別れの盃を用意させていただきますので、しばらくお待ちを」

「酒ですか!」

「酒ですか?」

 小暮と私、異口同音の反応だが、そのニュアンスには天地の差があった。

「いや、嬉しいな。麓に下りたら真っ先に一杯やろうと思っていたんですが、それより早く望みが叶うなんて……おや先生、どうかしましたか?」

「僕、その、お酒は駄目なんですよ」

 大学に入学して間もない時期の話である。

 サークルの新歓コンパとやらで酔った先輩に一気飲みを強要され、急性アルコール中毒により病院に担ぎ込まれた挙句、そのサークルにはいられなくなって交流の場を失った過去がある。

 それを説明したところ、小暮はヒュウと口をすぼめた。

「やっぱり、そういう人はいるんだなぁ。酒好きな俺にはわからない感情だけど」

「いえ、私にはよぅくわかります」

 ゆっくりとした口調で賛同してくれたのは、戻ってきた夫人から見事な瓢箪を受け取っていた八ツ森村長だった。

「私も妻もお酒が弱い、いえむしろ椀留様と同じく、吞めないといった方が正しいくらいでございます。それで、御二方が明日早朝に出発なされると聞いて、ようやくお酒の事を思い出したくらいでございますから」

 それでは、と小暮が受け取った朱塗りの盃に、瓢箪の口から湧き出たかのような、独特の匂いがある液体が注がれる。

 間違いなく、酒だ。

 しかし私は酒よりも、八ツ森村長が抱えている瓢箪の大きさ、色つや、そして形の調和に驚嘆した。

「見事だ……ここまで見事な瓢箪には、今までお目にかかったことがない」

「村の、瓢箪でございます」

 八ツ森村長が誇らしげに答えるのも無理はない。

 もっとも、私は実物の瓢箪にお目にかかったことが少ないのだが。

「それでは、申し訳ないけど、先生の分もまとめていただきます」

 私としては、逆にありがたいくらいである。

 あまりすまなそうにも申し訳なさそうにも見えない、というより嬉しさを隠そうともしない小暮は、盃に並々と注がれた酒を一気に呷ってから、ぷはぁと息を吐いた。

「いやあ、美味うまい!」

 私には、一生わかりそうにない感想である。

 さらに盃を酒で満たされ、次第に酔いが回ってきた小暮は、まさに無敵だった。

「いや、今は冬にもオリンピックが開催されているんですよ。ねぇ先生」

 都会は今、どうなっているのか。

 村長夫妻の質問に、すっかり酒臭くなった息を吐きながら、ジェスチャーを加えて楽し気に解説する小暮に、私と鬼平はすっかり呑まれてしまった。

「ですからイナバウアーというのはですね、こうですよ、こう」

 立ち上がっておもむろにブリッジしながら、顔だけを八ツ森村長の方へと向ける。

「このまま氷の上をスーって滑るんですよ。これが高得点の秘訣です」

 もはや宴会芸である。

 それにしても、ブリッジはやり過ぎだ。イナバウアーは本来、上体を逸らすだけなのだ。

 これではまるで、有名な悪魔祓い映画に出てくる少女である。

「これからは、冬のスポーツと言えばフィギュアの時代ですよ。フィギュアスケートの時代がやってきます、絶対です。ねぇ先生」

「そうなる可能性は高いですね」

「ですよね!」

 どうして、いちいち私に同意を求めるのか。

「あの、そろそろ部屋に戻りたいんですが。ほら、明日は早いですし」

「何を言ってるんですか、もっとおしゃべりしましょうよ!」

 これだから、酒の席は嫌なのだ。



 自分に充てられた客間に戻った私は、ポケットからマイルドセブンの箱を取り出し、元より客間に置かれていた灰皿を手元に引き寄せた。

 それからマッチで行灯に火を灯し、ついでに残り火で煙草に火を点けて吹かす。

 最近は、メンソールという爽快感のある煙草が発売され、売れ行き好調なのだそうだが、私が試したことはない。このマイルドセブン本来の味わいが好きなので、セブンスターやハイライトが消えたとしても、マイルドセブンだけは残り続けて欲しいと切に願っているくらいである。

 紫煙を肺に溜め込んだところで落ち着きを取り戻した私は、改めて薄暗い室内をぐるりと眺めまわす。

 仄かな灯に照らし出された十畳間は室温も心地よく、聞こえてくるのは虫が奏でる音ばかり。

 排気ガスに塗れ、騒音と喧騒が絶えぬ都会の安アパートに比べると、本当に同じ日本なのかと疑いたくなってまう。

 ここでなら捜索も執筆も捗るだろうが、電気も通らず車も通れぬ不便さでは、残念ながら作家という職を捨てねばならない。

 作品を書くことと作品を発表することとは、まったくの別物である。

 それに、ここで書き上げた作品はどうしても古臭いものになりそうで、現代の日本――平成時代で通用するかと問われれば、力強く頷くだけの自信は無い。

 ここは、昭和の匂いを残す村である。

 それを実感できるのは、私が昭和から平成への変遷を体験してきた人間だからなのかもしれない。

 私が少年時代を過ごした昭和と、今の平成という世の中を比較してみると、変わったのは年号だけに限った話ではないと、つくづく実感させられる。

 電車は国鉄から私鉄――JRに変わったし、この村に一台だけある原付も、平成に入ってから数が一気に増えた。

 車だって、もう十年もすれば電気自動車が公道を走る日が来るだろう。

 町にはコンビニが並び立ち、若干割高ながら金さえあれば大抵の食料や生活用品が手に入るし、逆に酒や煙草の自動販売機はめっきり減ったような気がする。

 子供の遊びも、また大きく変化した。

 時代はアナログからデジタルへ。そこら辺にある物を使い、近所の友達を相手に楽しく時間を潰すための遊びから、正式なルールに則り専用の機器を使った、メジャーとローカルの隔たりが無い遊びへと移り変わりつつある。

 その代表が、テレビゲームのオンライン対戦だ。

 これもまた将来の電気自動車と同様に、子供が外で身体を動かすのはスポーツ競技のみ、家で遊ぶのはオンラインゲームのみに限られる時代が、もうじき訪れるのかもしれない。

 何よりITなるものが飛躍的に発達し、インターネットが登場する前からパソコンを使い慣れていたはずの私ですら、あまりの進歩に置いてけぼりをくらってしまうのではないかと不安になるほどだ。

 変わったのは文化だけではない。法律も然り。

 私が今、Mを探しているのも、その変化が原因と言えるだろう。

 私が依頼を受けて人捜しをしているというのは、半分嘘だ。

 いや。嘘は吐いていないが、捜しているMについて、実はまだ語っていないところがある。


 平成十九年から開始された報奨金制度により、報奨金が掛けられた強盗殺人犯。

 それがMの正体だ。

 Mは離婚したばかりの元妻と、その交際相手を殺害し逃走したという嫌疑が掛けられている。

 平成十三年六月、一方的に離婚届を突き付けられ慰謝料をふんだくられたMが、元妻の動向を調べているうちに交際相手の存在を嗅ぎ付け、男のマンションに入ったところを押さえつけ、犯行に及んだらしい。

 容疑に「強盗」が入っているのは、殺害した元妻の衣類から自分が買い与えたものを剥ぎ取り、ついでに交際相手の家から金目の品物を持ち去ったからだそうである。 それらの品々にも、Mの元妻が彼に買い与えていたものか、Mの自宅から持ち出したものであるとすれば、まあ納得はできる。

 その後、Mは首都圏周辺で潜伏と逃走を繰り返していたが、地元であるY県に向かったところを目撃されたのが、つい半月前のことである。

 報奨金は、制度に則り容疑の重さに関係なく、誰であろうと一律三百万円。これに被害者の遺族からの謝礼金がついた場合、五百万円前後になるだろう――と言われている。

 一般的なサラリーマンが転職し、生涯をかけて捜し出す報酬としては割りが合わないだろうが、借金の返済が差し迫っている三流文筆家にとっては、フィールドワークも兼ねたおいしい仕事である。

 八ツ森村長や小暮、鬼平らにこれを教えなかったのは、犯罪者を追う仕事ということで悪い印象を持たれたくなかったことと、Mの報奨金を横取りされる恐れがあったからである。

 不覚にも連絡用の携帯電話を忘れてきてしまったが、田舎であればあるほど、電話ボックスや公衆電話が置かれている可能性は高くなるだろうし、そのまま地方の警察署や交番に直行するという手もある。むしろMの発見と身柄確保にどれだけ時間が掛かるかが、当面の問題だ。

 そのためにも、出発は早い方が良い。

 三本目の吸い殻を灰皿に擦り付けてから、村長夫人が敷いてくれたらしい敷布団に身を横たえ、行灯の灯を吹き消そうと手を伸ばした、まさにその時だった。

「先生」

 外から聞こえたのは、男の声。

 聞き覚えがあるような気はするのだが、どうにも確証が持てない。

「先生、椀留先生。起きてるかい?」

 起き上がり障子を開けてみると、そこにいたのは膝立ちになった鬼平の姿。

「鬼平さん?」

 つい確認したくなるほど、目の前の鬼平はこれまでの彼に抱いていた印象とはかけ離れた格好をしていた。

 上下とも迷彩服に、ポケットが沢山ついた枯草色のミリタリーキャップ。ワークキャップに登山靴と、此処が日本でなければ従軍カメラマンと勘違いされるようないで立ちである。しかし肝心要のカメラは、高価そうな一眼レフを首からぶら下げてはいるものの、あまり大切に扱っているようには見えない。

「良かった、あんたはまだ無事だったか」

 軍隊風のファッションといい荒っぽい口調といい、先程までの物静かな鬼平とは別人のようである。

「村を出るぞ。すぐに支度しろ」

「村を出る? 貴方はしばらく村に……いや出発は明日の朝であって、今からじゃ」

「駄目だ、明日の朝じゃ間に合わない」

何に、間に合わないというのか。

「それに、夜の山道は危険ですよ」

「この村に居る方が、遥かに危険だ」

 一体、鬼平は何を焦っているのか。この村の何処に怯えているのか?

「先生、あんたは此処がどういう村か、まだ気づかないのか。あの村長から、村の名前を聞いただろう?」

「ええ、干河辺村でしょう?」

「ホシカベムラ?」

 私の返答に、鬼平はしばし口をポカンと開けて私の顔を凝視してから、何かに気づいたらしく、低い唸り声を上げた。

「そうか、発音か。あんたは村長の発音から聞き間違えて、そのまま勘違いしてたのか」

「勘違い、というと?」

「正しくは、この村の名はホシクベムラ。クベ、は首の発音が訛ったものだ、わかるか?」

「えっ」

 鬼平に質された村の正式な名称が、身の毛もよだつ恐ろしいイメージと化して、私の脳裏にへばりつく。

「此処は、干し首村だ」




(後編に続く)

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