第27話 エピローグ 美里
千穂が娘の美里からの国際電話を受けたのは午後の10時を少し回った頃だった。彼女は今、水泳の世界ジュニア選手権に出場するためイスラエルのネタニアに遠征中だ。イスラエルと日本の時差はサマータイム期間の9月現在では6時間のはず。美里が出発する前に二人でそんな話をしたことを思い出す。だから現地ではまだ16時頃と言うことになる。電話を取った千穂は咄嗟にそんな計算をした。
「もしもし、ママ?もしかして寝てた?」
「まだ寝てへんよ」
一応そう答えたがこっちの答えなんて聞いていないような勢いで美里は喋りだす。
「勝ったよ!私、優勝した!」
「そうか!おめでとう。清美先生にもお礼言わんとな」
ついさっき行われた50m自由形で優勝したらしい。競技が終わってすぐに電話をしてきたからか、まだ息が乱れている。興奮しているからかもしれない。100mと200m自由形にもエントリーしているが、それも決勝まで進んでいるらしい。その他にも最終日に行われる400mメドレーリレーの代表にも選ばれているから大変そうだ。
「また電話する」
そう言うとさっさと電話は切れた。切れた電話を見ながら千穂は幼い頃の美里のことを思い出していた。
美里は物心ついた頃には清美先生のもとで水泳を習っていた。水をまったく怖がらない子で幼稚園時代にいきなり競泳用のプールに自ら飛び込んで周りの大人を慌てさせた経歴を持つ。
清美先生は現役時代には日本代表として数々の国際大会にも参加した経歴を持つ選手で、引退後はコーチとして多くの有力選手を育て上げた実績のある有名な先生である。私の夫の慎吾と幼馴染であることから美里が小さい頃から水泳を教えてもらっている。でも本当ならそんな簡単にコーチしてもらっていいような人ではない。
彼女の所属するスイミングスクールには日本中から彼女の指導を受けようと子供達が集まってくる。すべての子の指導をすることはできないから、やはり入校に際しては選抜テストが行われる。そのテストに合格した優秀な子だけが清美先生の指導を受けることができる。だから幼い頃からの延長でなんのテストもなしで清美先生の指導をずっと受けている美里は本当にラッキーだと言える。
当の美里も水泳が大好きで清美先生の指導にもよく応えていると思うのは親の贔屓目かもしれないが。小学校5年生から参加したジュニアオリンピックという水泳の競技大会ではいつも勝てないと泣いていた。ジュニアオリンピックは年齢別の区分があって、その区分毎で順位を競う。実は清美先生はその大会に美里を年齢より上位の区分で参加させていたのだ。だから勝てないのはあたりまえなのだが、普段は自分より遅い子が優勝して表彰されているのを横目に、表彰台にも上がれない自分が情けなくて美里はいつも悔し涙を流していた。清美先生は常に上を目指すように美里を導いていたのだと思う。
そんなわけで小学生のときはまったく無名だった美里が中学校に上がった最初の年、8月に行われた全国中学校水泳競技大会、いわゆる全中の50m自由形で優勝したときの美里の喜びようといったらなかった。これまでの悔しかった思いを一気に爆発させたように、表彰台の一番高いところでメダルを首に掛けてもらいながらずっと号泣しっぱなしだった。
それからの美里の活躍はめざましく、中学3年生のときにはジュニアオリンピックのCSクラスの100m自由形で優勝するなど一躍競泳界のジュニア選手として注目を集めた。
高校生になって初めて出場したインターハイでは100m自由形で優勝しただけでなく、高校生記録を52年ぶりに更新するという快挙も成し遂げた。そして今年16才になった美里は、高校2年生になってすぐの4月に開催された日本選手権に初めて出場し、優勝こそできなかったが上位の成績を 納めて世界ジュニア選手権への切符を手にしたと言う訳だ。
ちなみに52年前に100m自由形の高校生記録を作り、美里に破られるまでの記録保持者の名前は『水城千歳』である。つまり今、目の前にいる千歳さんなのだった。
夏のこの時期、美里とその両親である慎吾と千穂、それに美里の水泳コーチの清美が和歌山南部の山と海に挟まれた村にある千歳の家で顔をあわせるのは毎年恒例のことである。美里の母親、千穂は今は晩ごはんの買い物に出かけている。
千穂は千歳が慎吾の姉の里子であることは知らない。でも慎吾は美里には本当のことを伝えてあるらしい。
「52年も前に高校1年生でこんなタイムで泳いでたなんて信じられへんわ。千歳さん、まじバケモンやわ」
美里は千歳さんと清美先生を相手に今年のインターハイの話をしている。千歳さんは記録を破られて悔しがる様子は全然なくて、そんな美里の話をにこにこと微笑みながら聞いている。その話に清美が加わる。
「うちは小学校のときに海で競争して里ちゃんに大負けしたやろ。それからインターハイの県大会でも大負けしたやろ。結局、高校のときは里ちゃんの記録を破れへんかった。そやから美里に私のかたきを取ってもらおと思ってん」
「じゃあ、私、ついに清美先生のかたきを取ったってことか!」
清美と里子を交互に見ながらそう言うと、美里は誇らしげにガッツポーズをとった。そんな美里を里子と清美は愛おしそうに目を細めて見つめていた。
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主人公は美里ではないですが、競泳のジュニアオリンピックのことを題材にして書いた短編です。よろしければこちらもお読みください。
https://kakuyomu.jp/works/16818093081671899954/episodes/16818093081671933694
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