第32話:斯くも伝説は無慈悲なりて
「ヒヒッ! こちらだぁよー」
「待ちなさい!」
“笛吹き男”、思った以上に足が速い。
私も全力で追いかけているが、追いつくどころか少し距離を離され始めた。
走り方は完全に素人のそれなのにあの速度、本当に人間なのか?
あのローブの下はどうなっているんだろうか。
「鬼さんこちらー、手の鳴る方へー。ヒヒッ、ヒヒヒッ」
鬼ごっこのつもりなのか、こっちをおちょくりながら平原を走る。
ふざけた男だ、どこまでも。
この期に及んで遊びのつもりでいるというのが救いようがない。
不意に“笛吹き男”が立ち止まった。
これ幸いと近づくわけはない。立ち止まったということは、罠を警戒だ。
誘い出されたと思った方がよいだろう。
「さてさて、それでは開演させてもらうだ。ここなら広さも十分、周りを巻き込む心配もないべ?」
「……私への配慮ですか? それはどうも」
「ヒーローってのはやっぱり全力を出して抗う姿がかっこいいんだ。悪の手先が人質作って、殴られてはい終わりなんてしらけるべ」
さてはて、私に何を求めているのやら。
とにかく、魔物の準備は整っている様子。
“笛吹き男”はその場に種のようなものを投げ捨て、笛を吹き始める。
相も変わらず頭が痛くなるように頭の底に響く音だ。地面が揺れているような感覚すらする。
「せっかくだ、出し惜しみはなしとするだ。なぁ、全力出したいべ?」
「私としては、黙って捕まってくれるならそれに越したことはありませんが」
「ヒヒッ、釣れないこと言うなって。本当は剣を振りたくて仕方がないんだろう? あんたも獣なんだからおいらにはわかるさ」
勝手に決めつけないで頂きたい。
戦いと言うのは手段である。戦いを目的にしたら、それはただの修羅だ。
リリアンヌは修羅ではない。人を助けるべく助ける、そんな人でなければならない。
“笛吹き男”の笛の音に合わせて、地面が隆起していく。
先ほど撒かれた種が芽を出すように、魔物の形を作り出していく。
複数撒かれた種は一つの巨大な魔物の形を
それは誰もが知っている形であり、誰もが聞いたことがある姿。
ゆうに私三人分はありそうな長さの緑の尾を振り回し、巨大な羽は風車を彷彿とさせ、口から見える牙は下手な家屋すら砕いてしまうだろう。
魔物と言えばまず名前が挙がり、伝説にも事欠かさない見上げるほど巨大なその魔物の種類は――
「——ドラゴン」
“笛吹き男”の薄気味悪い笑みが更に深まった気がした。——実際には見えないのだが。
「ヒヒッ。驚いてくれただか? なら、用意した甲斐があるだよ」
驚いたなんて物ではない。下位の物でも町一つは滅ぼせる強大な魔物だ。
それが人に使役される? 悪い冗談だろう。
どんな兵器よりも頑丈で、どんな兵器よりも柔軟で、どんな兵器よりも火力がある。それがドラゴンと言う魔物だ。
戦う以前に逃げるという手段が正当化されるような魔物相手に、私一人で何をする?
これまで町を攻撃しに来た大型の魔物なんて数に含まれない。
この一体で、全て蹂躙できる。
本当に遊びだったのだ、この男にとってこれまでの魔物は。
ドラゴンの口が開かれた。何をするつもりだ。ドラゴンのすることなど決まっている。
目の前にいる脆弱なるものを、蹂躙するのだ。
膨大な熱量の火炎が目の前を掠めていく。
僅かな反応速度の差が生死を分けた。ぎりぎり、直撃を避けることができた。
体に染みついた生存本能が体を勝手に動かし、吐き出された火炎を避けた。
地面が灰まみれ、炭となる。
直撃すれば当然命はないだろう。
背筋を冷汗が垂れていく。これを牽制のように無作法に打ち出すのだ、生物としての格が違う。
「どうしただ? 戦意喪失しちまっただか?」
「……冗談を。むしろ、奮い立っていたところですよ」
強がりだ。体は全力で恐怖を感じている。
目の前にいる存在は死そのものだ。英雄が挑みて幾多と散り、何事もなく叫ぶ怪物。
「伝説に挑む。これ以上の事がありますか。その笑っている面、笑えなくしてやりますよ」
「ヒヒッ、ヒヒヒッ! そうこなくっちゃあなぁ! じゃあ本気で行くから、どうか死なないでおくれよ!」
引きつった口を広げたまま、私は剣を構える。
伝説に挑むは戦士の誉れとは誰が言った言葉だろうか。
その言葉が正しいのならば、やはりリリアンヌ・ディリットは戦士足りえない。
この状況に、本能的に恐怖しか覚えていないのだから。
私は逃げ出さない様に体を全力で制御する。
勝算はあるか。わからない。今から全力で探す。
何か一つ掛け違えば即死する相手だ、瞬き一つすら命がけで行わなければならない。
「三日目だったか? でかいトカゲを送っただよ。それの強い奴だと思えばどうだべ?」
私の恐怖を見据えているのか、“笛吹き男”は言いたい放題だ。
勝ちを確信している。負けを想像もしてないと言った方が正しいか。それもそうだ、人が勝てるような相手ではない。
これを相手にするには、人と言うくくりを一つ越えなければならない。
私は地を駆ける。
ドラゴン相手に最も危惧するべきは、空に飛ばれてこちらの手が届かないところから一方的に嬲り殺されることだ。
有翼種の常套手段であり、地を這う生物にとって最も取られてはならない手段。
ならば、地上にいる今のうちに、狙うべきは翼膜。広大な大空に逃げられる前に、飛行手段を奪う。多少切った程度で影響があるかはわからないが、飛びづらくはなるだろう。
私がいくら走っても、ドラゴンは首を一つ動かすだけで私を顔の正面に捉えることができる。
体の大きさが影響している。大きさで劣っている分、既に大きな不利を背負っている。
あの顔から逃れることができなければ、いつでも火炎が飛んできて黒焦げにされる危険性が残されてしまう。
一人で挑む相手ではないのは重々承知。だが、今頼れるのは己の体一つのみ。
前世でもここまでの無茶をしたことがあるだろうか。格上に挑んだことはあるが、ここまで死を間近に感じたのは、それこそ転生直前の死の間際ぐらいだろう。
笑ってしまう。いっそこのまま走って逃げてしまおうか。
逃げきれるような相手ではない。無意味な考えだ。
翼を狙うにしても、一度あの体に飛び乗らなければ私の剣は届かない。
何とか側面を取り、体を駆け上る。
横に走っても意味がないと悟った私は、意を決して真っすぐドラゴンへ突っ込む。
ドラゴンは即座に切り替え、その前足の爪で私を迎撃する体制に入った。
狙いは一瞬、ミスれば即死。上等だ。覚悟を決めろ。
ドラゴンの爪が振るわれる。隙を残してはいけない、最小限の動きでそれを避ける。
そのまま、スライディングの要領でドラゴンの腹下を滑りぬけ、前足を横切り側面へ斜めに躍り出た。
この一瞬だけは、ドラゴンの顔がこちらに向いていない。
私は即座にドラゴンの横腹に剣を突き刺しては、無理にでも体に飛び乗る。
剣を引き抜き、ドラゴンの翼膜に突き立て――剣が弾かれた。想定外の硬さ、まるで鉄の板に剣を突き立てたかのような感触だった。
同時に、大きく胴体が揺れ、私の体が中空に浮く。
まずい、空中では身動きが取れない。
視界の端に長くしなる尾が見える。
骨が砕ける音が聞こえた気がする。肺に入っていた空気が全て外に叩き出される。
尻尾を鞭の如く叩きつけられた私は、そのまま地面を転がっていく。
呼吸がままならない。受け身も取れなかった。
体が痺れて、まともに動かせない。
それでも何とかと上体を起こした私が見たのは、視界を埋め尽くすほどの煌々と輝く美しい炎だった。
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