第一章 助産師と陰陽師⑨
几帳越しに
その声が徐々に遠のいた。
そして目の前に広がる光景に、蓮花は
蓮花は不思議な空間に立ち尽くしていた。
「ここは……」
蓮花は水に手を浸してすくった。透明で温かくて、普通の水のようにさらりとしているのにどこかとろりともする不思議な感覚がある。指を広げると、水は手の平から
『君の体を借りているから、君が描く心の風景が強く反映されているな。君が無意識に想像している体内や生まれる前の光景が、今視ているものを作り出している』
確かにそうかもしれない、と蓮花は思った。温かくて、水のようなものに満たされている。
空にあたる部分は脈を打っているようで、赤子が生まれる前の世界は、このようなところなのかもしれない。
と、水面に波紋が浮かんだ。そこから一匹、紫色を帯びた炎をまとう鬼が現れた。
「わっ!」
蓮花が声をあげる。
『大丈夫だ、夢の中にいるようなものだ。実際の君の体に影響はない』
「わ、わかりました!」
そして蓮花は炎をまとう鬼を指した。
「あれが原因の鬼です!」
「『オン!』」
晴明の意思で体が動き、指を立てて刀印を組んだ手を一文字に引いた。効果があったのか、鬼は動きを弱めた。まとっていた炎も弱くなる。
蓮花は鬼がよく
『これか……。快癒の呪文が効かないということは、他の鬼と性質が違うのか?』
蓮花は触れられないかと試しに手を伸ばしてみた。
不意に鬼は形を
「増殖するのが普通の鬼より早いですね……」
『それで術の効果も追いつかなかったのか』
鬼は一匹でも取り逃すと、再び分裂を引き起こし増殖していく。それによって幾度も体の熱が上がってしまっていた可能性がある。
『体が丈夫な者は普段、体内に鬼に対抗する力がある。快癒の呪文はそれを助けるように作用しているんだ。でも初めてかかる病に対してはその対抗する力――抗力が弱いと感じていたのだが……もしかして、鬼の種類によって抗力が異なるのか?』
晴明は自分の今までの経験を思い出しているようだった。
「それぞれ弱点が違うということですか? たとえばほら、この子は角が大きいけどちょっと
蓮花は増えた鬼を眺めながら、
『そんな馬鹿な……そうなると、鬼ごとに抗力が異なるから体が一々それに対応する力を生み出す、という
晴明は半信半疑ながらも、今言ったことを前提に呪を唱えた。
「『ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン』」
何か手応えを
「あの、大丈夫ですか。私の目から
蓮花が心配して声をかけると、晴明は『そういうわけじゃない』と返した。
声しかわからないため、細かい判断は難しいが、険しい言い方ではなかった。
『ただ、全ての鬼を一律に消滅させるのではなく、そういう種類がいるとわかったら、より
どうやら蓮花の目から視たことは、利点に
『ひとまず、産後の体が弱ったことと鬼の種類が違うことで、体が抗力を発揮しないと考えると……』
晴明は手を合わせて別の形に指を組んだ。
「『キリトラバセラバセキリトラカサカ』」
ふわり、と空間に蛍のような光が浮かんだかと思うと、鬼がその光に包まれた。そして透明な結晶へと変化していく。
「何をしたんですか?」
『単に
そして周囲を
「『ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カンマン』」
空間に同じような無数の結晶が現れたかと思うと、包まれた鬼が凍っていく。
晴明は蓮花の声を使って、高らかに唱えた。
「『
次の瞬間、鏡が砕けるかのように結晶が一斉に消滅していった。
◇
風が格子を揺らす音が聞こえてきて、蓮花は我に返った。
賀茂保憲の
触れていた手を通して、北の方の熱が下がっていることに気が付いた。
保憲は、先程の術をかける前よりもさらに疲労した様子であった。依り代として術発動時の、苦痛の肩代わりをしていた影響があるのだろう。だが、目を細めて心の底から
北の方がうっすらと目を開けた。
「体、楽になったか? 晴明と助産師殿が祓ってくれたんだよ」
保憲の言葉に北の方は淡く
彼女の様子に蓮花も安堵の笑みを浮かべ、もう大丈夫ですと告げようとしたところ。
「いや」
「これは産後の体の弱りが招いたことです。そして快癒したのは助産師殿のおかげですよ」
「――えっ?」
晴明の言い分に蓮花は困惑した。
「あの、晴明さ……」
蓮花が訂正しようとしたが、晴明は立ち上がり、
おろおろしていると、保憲が申し訳なさそうに口を開く。
「すまないなあ、あいつ元々自分が前に出てお礼を言われたりするのは、苦手なんだ」
保憲は晴明の出て行ってしまった方を見て、仕方なさそうに肩をすくめる。
「でも、助産師殿の力のおかげでもあるのは、紛れもなく事実だぞ」
ほっとしたのだろう。彼が生来持っている人の
「いえ、私は……」
「晴明に何か依頼したいことがあるんだろう?」
保憲に言われて、蓮花は驚いて顔を上げた。
「どうしてわかったのですか?」
「これでも
保憲は優しい顔で蓮花に告げた。
「あいつなら大丈夫。なんたって俺の
◇
蓮花が母屋から簀子に出ると、晴明は高欄にもたれかかるような姿勢で庭を眺めていた。
日は傾き、影が長く足元に伸びていた。
「あの、晴明様……」
蓮花が近付くと、晴明はこちらを振り向いた。
「女御様付の助産師になるのなら、あれぐらい大げさに言っておいてもいいだろう?」
「じゃあ……」
晴明はふっと口角を上げて笑った。
「ああ。助かった。俺は……保憲やその家族が苦しむ姿は見たくなかったからな。約束通り、女御様のお産の時は出来る限りの手を尽くそう」
蓮花はぱっと表情を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「ただ一つ。君も俺もどれだけ努力しても、どうしようもないことは起こる。力の及ばない範囲があることは、覚えておいてくれ」
蓮花は手を握り締めて
「わかっております。自分の力が微々たるものだということは」
この仕事を志した時に、痛感したことだ。
「それでも……」
蓮花は一度目を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、もう十年程前の出来事。白い面差しも、冷たくなった手も、今でもありありと思い出すことが出来る。
蓮花は顔を上げて、晴明を見据えた。
「救える命があるのなら、出来る限りお救いしたいです」
「じゃあ、大っぴらにするわけにもいかないから、秘密の取引だ。よろしく。蓮花殿」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ここまでお読みいただきありがとうございました。試し読みは以上です。
続きはぜひ書籍版でお楽しみください!
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