第一章 助産師と陰陽師⑥

 その日の仕事を早めに片付けた蓮花は、いそいそと助産寮の建物から出た。徒歩で外を移動する時は、頭に被衣かずきうちきはからげて裾をつぼめた装いだ。

 被衣を押さえながら天を見上げると、澄み切った雲一つない空が広がっていた。日はまだ高く、この時刻ならば多くの役人が勤めているであろう。蓮花は目的の場所へと向かって歩みを進めた。

 幾人もの役人が大内裏の通りを歩いている。皆が皆そうではないが、蓮花の姿を見て避けるように道の端に寄る者もいる。中にはあからさまに方向を変えて行く者もいた。

 助産師はけがれに触れるため、貴ばれると同時にいとわれることもあるのだ。

 最初の頃は戸惑ったが、助産師の先輩に「放っておきなさい。せっかく道を開けてもらっているのだから、堂々と通りましょう」と言われてからは、次第に気にしなくなっていった。

 蓮花は揺るぎない足取りで、目当ての建物の方へと向かって行った。

 目的地である陰陽寮おんみょうりょうは、大内裏の中でも比較的典薬寮から近い距離にある。

 蓮花は陰陽寮の役人らしき男性に、ある者への取次を願った。役人の男性は不思議そうな顔をしながらも、彼を呼びに行ってくれた。


「助産師殿……。何故なぜここに?」


 現れたのは安倍晴明であった。空の色を彷彿ほうふつとさせる浅縹あさはなだ色のほうをまとっている。蓮花の突然の訪問に、驚いた様子であった。

 顔を合わせるのはあの夜以来だ。あまりにも幻のような存在であったため、再び会えるのか心配であったが、ちゃんと陰陽寮に所属している青年であったようだ。


「晴明様。お呼び立てして申し訳ありません。先日のお礼と、そして少しご相談したいことがございまして」


 蓮花はそう切り出す。

 すると業務が終わり、それぞれの屋敷に帰るのであろう陰陽生らが、ひそひそと話をする声が耳に入った。あまりはっきりとは聞き取れないが、穢れに直接触れる者に、あまりうろついてほしくはないものだな、という言葉が聞こえる。

 蓮花がそちらを振り向く前に、晴明はさりげなく蓮花の姿を隠すように動いた。


「こちらへ参ろうか」


 蓮花と晴明は近くにある蔵の陰へと場所を移した。日当たりは悪いものの、ここなら人目につくこともほぼないであろう。

 晴明は溜め息まじりに言う。


「えっと……すまない。俺が謝ることでもないんだが」


 全く関係のない晴明にびられて、蓮花は慌てて首を振った。


「大丈夫です。血を見ただけで倒れるような人たちの言うことなど、気にしたことありません!」


 すると一瞬、晴明は噴き出すのを押さえるように口元を手で覆った。


「そ、そうか。それは、頼もしいな」


 反射的に出てしまった言葉であるが、蓮花にとっては事実であった。

 難産があった時に医師くすし陰陽師おんみょうじを産室、もしくはその近くまで呼ぶことがあるのだが、血液の混じった匂いや血に触れた布を見て、気分が悪くなったり倒れてしまったりした者を何度も見たことがある。だから、本当に気にしたことがないのだ。

 晴明は何とか堪えようとしたが堪え切れなかったようで、壁の方を向いてしまった。


「あの、失礼なことを申してしまい……」

「いや、俺も日頃の鬱憤があるからすっきりしたというか、そういう考え方、嫌いじゃない」


 肩が震えている。

 ひとしきり笑った後、晴明はようやく振り向いた。笑ったせいか、初めに会った時よりも柔らかい雰囲気になっていた。


「すまない、用があるんだったな」


 少し和んだ空気に、蓮花はほっとしながら口を開いた。


「はい、実は……」


 蓮花は先日の礼と、そして女御の担当として下知がくだったことを話した。


「つまり、女御様の出産の時も、もしも前のようなことが起こったら、力を貸してほしいということか」


 蓮花はうなずくと頭を下げた。


「お願いします。その代わりに私に出来ることがあれば、何でも致します。どうかご検討頂けませんでしょうか」


 晴明は眉を寄せながらうなった。


「ならば、他の正式な陰陽師に依頼をしたらどうだ」


 蓮花の脳裏に、初めて会った時、血を厭うこともなく近寄った晴明の姿が浮かんだ。


「今までも陰陽師の方に居合わせて頂くことはありましたが、あのように助けて頂いたのはあなたが初めてです。だから私は、あなたに依頼をしたいと思いました」


 晴明は困ったように額に手を当てた。


「俺は正式な陰陽師じゃないんだ」

「えっ!?」


 蓮花は目を丸くした。


「陰陽師の弟子だって……」

「そもそも俺は陰陽生でもない」


 蓮花は驚いた。陰陽師になるには、陰陽生として術に関する知識や作法を学ばなければならないはずだ。


「陰陽師である賀茂忠行の弟子だから、陰陽術を勉強させてもらっている。が、俺の役職としては下級官人で陰陽寮を含む中務なかつかさ省の雑使だ」


 優れた術を使いこなしていたので、てっきり陰陽生をすっ飛ばして陰陽師だと思っていたのだが、真相は違ったようだ。そういえば初めて会った時、陰陽師の弟子だとは言ったが、彼自身が陰陽師だとは一度も言っていない。


「そういうわけで、使い走りばかりなんだ。あの夜だって屋敷やしきで祝詞を唱えていたのは別の陰陽師。俺は陰で何かあった時のために、待機していたにすぎない」

「陰で、ということはやはり実力がおありなのですね」

「…………その辺の奴らよりは」

「やっぱりお願い申し上げます!」


 晴明はどうしたものか、と悩んだ様子で額に手をやった。


「でも、俺がいたところで」

「……わかっております。晴明様がいても、お産が無事に済むとは言い切れないということは」


 何ごとも起きなければ、それが一番良い。

 だが、お産に何も起きないという保証は断じてない。

 それはどれだけ出産の経験を重ねた女性も同じだ。


「ただ、避けられる危険性や、私の依頼で助かる命があるのなら、その可能性を見過ごしたくはないのです」


 蓮花は食い下がる。


「お願いします。万全を期すために、あなたの力をお借りしたいのです!」


 女御にょうごだから依頼したのか、と言われれば返事に窮してしまう。全ての命の重みは平等だ。だが、今回の身に余る下知は、蓮花一人で責任のとれる範囲を超えてしまっている。万が一にも力の及ばないことが起こり、自分だけならまだしも家族がおとがめを受ける可能性を減らしたい。それに、手が届く範囲でもいいから、生まれてくる命や母の体を守りたい。

 それらについて出来る手を全て打たないと、蓮花は前へ進めないと思ったのだ。

 晴明の目が蓮花の内面を見透かすように、見つめる。


「そういえば、君は鬼がえる助産師だったな」


 晴明は口を開いた。


「はい。あ、でも……基本的に口外していないので、内密でお願いします」


 魔に近いということで、妊婦やその家族が厭う可能性があるのだ。先程の役人らのような者になら何を言われても気にしない自信はあるが、さすがにお産の時にそのようなことを思われたら信頼関係に関わる。

 晴明は人差し指を立てた。


「……では一つ。取引として、君に見てほしい人がいる。俺の手伝いをしてくれないか」

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