第一章 助産師と陰陽師⑤

 晴天の霹靂へきれき、という言葉が今の蓮花にぴったりの言葉であった。嫌な予感がしたのは事実だが、まさか本当に自分に下知がくだると思っていなかったのだ。

 蓮花はけして、助産経験が多いわけではない。

 さらに蓮花は上流に関わるほどの身分ではなく、また女御との間に特別な縁や所縁ゆかりがあるわけでもない。異例の抜擢ばってきである。


「産神の祝福を授ける、というあなたの力に期待をしているのでしょうね」

「元々評判はあったけど、まさか大臣おとど様や女御様の耳にまで届くとはね」


 先輩助産師らが呟く。その声には同情の色がにじんでいた。


「あ、あの噂の影響ですか……!」


 蓮花は真っ青になって頰に手を当てた。


「蓮花様、おめでとうございます!」


 小鞠が目を輝かせて、無邪気に手を重ねる。蓮花が選ばれたことが余程 うれしいのだろう。

 だが、蓮花はとても喜ぶどころではなかった。

 蓮花は手をさ迷わせながら、申し出る。


「あの、助産頭様。私は下級の助産師で、とても女御様の出産の介助につける身分では……」

「それについては、あなたを藤原家の親戚筋の者に養女として迎えたい、と申し入れをなさるそうです」

「よ、養女……? ですか? わざわざこのために……!」


 予想以上の展開に、蓮花は血の気が引いて頭がくらくらした。


「蓮花さん、お気を確かに……!」


 小鞠とは反対側にいた先輩助産師に肩を支えられて、蓮花は我に返った。


「が、頑張って下さいね」

「そうそう。きっと……蓮花さんなら大丈夫よ。多分」


 戸惑いの含まれた励ましが、蓮花にかけられる。

 朝の集いはこれにて終わったため、きぬれの音と共に他の者はそれぞれの持ち場に戻っていく。報告をする者、担当の所へ赴くために支度をする者、妹弟子らの指導や勉強につく者など様々だ。


「蓮花、個別で話があります。少しよろしいかしら」


 助産頭は、いまだに衝撃が抜けず動けないでいる蓮花に声をかけた。

 言われた通り、蓮花はどこか現実感のない心地で彼女の卓のある方へと足を進めた。

 六十路むそじに差し掛かろうかという助産頭は、蓮花の方を向いた。

 髪を肩口でそろえた風貌で、その眼差まなざしは深くて優しい。

 かつて亡くした子を弔うために出家したが、人々を救うよう仏のお告げがあったことで還俗げんぞくし、今は助産師を取り仕切る任を担っているのだ。


「助産頭様、私にこの任は……」


 言いかけて蓮花は押し黙る。右大臣という高位の者からの下知に、出来ないとは言えないのだ。


「実は右大臣様からだけではないのです」


 助産頭は一枚の文を差し出した。

 料紙からは、ふわりと香の匂いが立ち鼻腔びこうをくすぐった。あまり高級な香に詳しくない蓮花でも、これは上質な代物だとすぐにわかった。


「これはもしや……」


 蓮花の文を持つ手が震えた。

 料紙には一流の教育を受けたと思われる、流麗な文字がしたためられていた。

 女御直々の文であった。女御ほどの身分となれば、仕える女房が代筆すると思われるのだが、記された内容といい、言い回しといい、間違いなく女房の書き方ではなかった。そこには是が非でも評判の助産師に訪れてもらいたい、という希望が書かれており、結びに健やかな若宮の生誕を願う旨が込められていた。表向きは右大臣の下知であるが、女御の意向が大きいようであった。


「蓮花……」


 文に目を落とす蓮花に、助産頭が静かに告げる。


「本当はこれほどの身分の方が、直々にこちらに文を書くことはあり得ないのです。もし希望があったとしても、表向きは女房が主を心配した体裁をとる……余程の覚悟と思いがあるのでしょうね」


 蓮花は無言で頷く。胸の内に様々な思いが渦巻く。それは不安であると同時に、まだ見ぬ彼女をおもんぱかる気持ちであった。

 助産頭は蓮花の肩を支えるように手を回した。


「私は蓮花なら大丈夫だと思っているわ。どうか産神うぶがみ様の幸運を」


   ◇


「お前を、藤原家の養女へ、か……」


 あまりにも突然のしらせに、蓮花の父は思い悩んだ風情で腕を組んでいた。

 七条の外れにある蓮花の実家。氏は清瀬きよせという。けして裕福とはいえないこぢんまりした屋敷やしきだ。もう日暮れの時間なので、高灯台に小さな明かりをともしている。

 父は、蓮花が助産師の道を志した時も一度も反対をせずに送り出してくれた心優しい人なのだが、今回のことばかりはさすがに受け入れがたいようであった。

 反対側には兄が真剣な面持ちで端座していた。蓮花より五つ年上で、検非違使けびいしという武官の任を担っている。蓮花には他に母と姉もいたが、二人とも既に亡くなっており、今はこの三人暮らしだ。


「大臣様の申し入れは下知も同然。当然断ることは出来まいよ。だが……」

「もし何かあれば、蓮花の身が心配ですね」


 父の懸念をすくいとるように兄は告げた。

 蓮花とて、父と兄を置いてこの家を出るのには、心苦しいものがある。

 藤原家の養女、とだけ聞けばこの上ない名誉な話だ。今や政治の中枢にいるのは多くが藤原家だ。それも右大臣の血筋であれば、たとえ末端であろうと、余程のことがなければ安泰だ。

 だが、今回の件は、その余程のことと隣り合わせになっているのだ。


「蓮花。お前の気持ちを聞かせてほしい」


 父は落ち着いた眼差しを蓮花に向けた。


「正直に申し上げますと、私は怖いです。大臣様、女御にょうご様の期待があり、ひいては主上の期待もかかるでしょう。お産に安全なものなどありません。私は偶々たまたま、本当に運が良かっただけなんです。鬼がえる体質というだけで……」


 鬼が視える力は、父にも兄にもなく、蓮花だけが持っている。


「でも、そのおかげで僅かでも助けられる可能性が高まるのなら、どんな命も助けたい。そう思っております」


 蓮花の心にあったのは、女御の文であった。特別なことが書かれていたわけではない。けれど、雲の上の存在である御人にも自分たちと同じように、子の命の無事を願い、助けを求める心があるのだと感じた。女御として、というより一人の人としての彼女に向き合った時、身分を理由にしり込みしたくないと思ったのだ。


「わかりました。もしも何かあれば、俺も最善を尽くします」


 兄は蓮花の心に抱いている緊張をほぐすように笑った。


「家のことは俺に任せて。それに家督のことなど、父上も今更こだわりはないでしょう?」


 父はいきをつきながら、頷いた。


「お前たちがそう言うのなら。蓮花、どこに養女へ行っても、お前は私の娘だ。いつでも帰って来てよいからな」


 本来ならば蓮花は既に結婚していなければいけない年齢だ。それなのに、父は婚姻を無理に進めようとはせず、蓮花のやりたいことを尊重し見守っていてくれた。

 蓮花の姉が結婚したものの相手の浮名に苦しみ、はかなくなった時に、もっと幸せな道があったのではないかと悔いていたからだ。


「ありがとう、兄様、父様……」


 自分を守り、育ててくれた家族に迷惑をかけるわけにはいかない。

 そして蓮花は一つ、心に決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る