第一章 助産師と陰陽師③

 蓮花は眉を寄せて言葉の意味を考える。


「えっと……どういうことですか?」

「今から俺が君に憑依ひょういして鬼を祓おうと思う。意味はわかるか?」

「あ、つまり私がりましになるということですね」


 蓮花は頷いた。出産時、ものや鬼から妊婦を護るために、祝詞や鳴弦の他にもとり憑くのに身代わりとなる女性を控えさせることもあるのだ。


「まあ、この場合は鬼を君のもとにやるのではないから、少し違うかもしれないけれど」

「かまいません。どうか北の方様を救って下さりませ!」


 すると晴明は、蓮花の額に手をかざした。


「名を唱えてくれ。この術には呼び名ではなく、君の本当の名が必要だ」


 貴族の女性は通常、本名ではなく呼び名でお互いを呼び合う。本当の名を知っているのは家族や夫となる者など、極々親しい間柄にある者のみだ。

 だが、蓮花は躊躇うことなく告げた。


「蓮花と申します。はすの花と書いて、蓮花」

「わかった、――蓮花」


 じわりと、蓮花は体が温かくなるのを感じた。晴明のかざした手の平から、不思議な空気の波動を受ける。涼やかな風が蓮花を取り巻き、髪が、衣が、なびいた。

 やがて風がおさまり、蓮花は不思議そうに瞬く。特に何か身の内に異変が起こったようには感じない。


「今から君の目が俺の目になる。俺の動きが君の動きになる。気味悪く感じるだろうが、一時的なものだ」


 晴明の説明に、蓮花は頷いた。


「わかりました」


 そして蓮花は対屋まで引き返して庭と建物を繫ぐきざはしを駆け上がると、妻戸から産室内に滑り込んだ。晴明は対屋の外で待機している。

 産室では、鬼にとり憑かれた北の方の苦しむ声が上がっていた。それを他の者が口々に励ましている。


『これは……君の目からはこう視えるのか』


 頭の中で〝声〞が響き、蓮花は驚いた。紛れもなく晴明の声である。憑依するとは、こういうことが出来るのか。

 北の方からはゆらゆらと燐光りんこうを帯びた炎が立ち昇っている。炎を宿した細かな鬼が舞い、彼女の熱を上げているのだ。


『子を産んだ直後の体は弱ると聞いていたが、ここまで抵抗する力が下がるのか……』

「普段ならば何ともない鬼でも、お産直後はとても苦しめられるのです」


 体力も気力も何もかも、子を産む力へと変え、母親はまさに命をかけて出産に挑むのだ。


『なるほど。向こうで唱えた祝詞が効いていないのではなく、体の方が耐えられないのだな。他の者に影響があってはいけないから、一度必要な者以外はここから退避してもらってくれ』


 言われた通りに蓮花は、他の家人に下がってもらうよう声をかけた。

 彼女がこれほど苦しんでいるのにと心苦しいようであったが、鬼を祓うためならばと不承不承、家人らは簀子の方や建物の奥へと下がっていった。

 晴明はさらに蓮花に尋ねた。


『この君がまとうころも、依り代として置いてもらってもいいか』


 蓮花は自身の所々赤く――時間がっているので褐色に染まっている白いうちきを見下ろす。


『依り代は彼女が調伏ちょうぶくの時に受ける苦痛を、こちらに移して浄化する。君の衣には彼女の血が付着しているから、効果を得やすいんだ』


 この衣が染まった色は、生まれた赤子をこの世で最初に取り上げたあかし。血は不浄と言われているが、助産師の誇りに染まった衣だ。


「わかりました、この衣で助かるのならば」


 蓮花は躊躇いなく衣を脱いで単衣ひとえはかま姿になる。

 そして衣を彼女の枕もとに畳んで置くと、蓮花は彼女の傍らに座った。

 北の方は荒く息をつき、それに伴い炎も呼吸をしているように揺らめく。

 蓮花の指先がじんわりと熱くなった。そして己の意思とは無関係に、まるで動きを知っているかのように、印を結ぶ。両手の指を交互に組み、人差し指を立て合わせた。

 目の前の炎が一段と強くなる。


「『ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!』」


 それまで頭の中から響いていた声が、蓮花の喉を借りて発された。

 妻戸も格子も閉じられているのに、どこからともなく風が巻き起こった。単衣や髪がなびき、蓮花は目を細めた。ふと畳んだ衣を見ると、同じような炎に包まれて、揺らめいていた。

 対峙たいじしながら蓮花は、体中の気力がすさまじい勢いで消費されているのを感じていた。一人であれば、くずおれていたかもしれない。しかし今、この体を支配しているのは晴明だ。そのため蓮花の体幹はぶれることなく、まっすぐに背筋が伸びていた。


「これが、陰陽術……」


 蓮花の独り言は、風にあおられて消えていく。

 周囲の空気が震え、肌がぴりぴりとしびれるような感覚が走る。彼女の体内に潜む鬼がうなり声をあげるのを蓮花は感じとった。

 晴明は蓮花の声として呪文を放った。


「『悪鬼退散! 急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう!』」


 そして組んだ指を振り下ろすように縦に切ると、炎ははじけるように消滅していった。

 静寂が辺りを包む。

 蓮花は全身の力が抜けるような疲労に襲われた。


「終わった……?」


 蓮花はそっと北の方の顔をのぞき込んだ。

 彼女の呼吸は落ち着いており、体のりも見られない。

 その様子に、蓮花はほっと息をついた。


『もう大丈夫だ』


 その声と共に体から何か抜けるような感覚を覚えた。

 蓮花は両手を広げる。軽く曲げ伸ばししても、先程のようには動かなかった。


「もう終わりましたでしょうか……?」


 奥の屛風びょうぶの陰から、そろりそろりと女性らが現れた。

 どうやら彼女らには鬼の唸り声や炎の弾ける音は届いていなかったようだ。当然といえば当然だ。彼女たちにはえないのだから。

 だが、落ち着いた北の方の様子に、彼女らは心から安堵あんどしたように息をついた。


「まことに、まことにありがとうございます……!」


 礼を言われて、蓮花は慌てて首を横に振った。


「いえ、お礼なら陰陽師の方におっしゃって下さい。建物の外にいらっしゃるので」


 蓮花は庭にいるであろう彼を探して、簀子すのこに出た。

 しかし、庭には誰もおらず、月明かりだけが草木を照らしていた。

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