第一章 助産師と陰陽師②

 時は平安へいあん朱雀すざく帝から村上むらかみ帝へと治政が移った天暦てんりゃくの頃。出産に携わる専門の職業があった。

 元を辿たどれば奈良なら時代の、宮中の医事を担う内薬司うちのくすりのつかさ所属の女医にょいが起源となる。その仕事内容は出産や医師くすしの補助などであった。その後、平安初期に内薬司が医療行政をつかさど典薬寮てんやくりょうに併合された時に女医の制度は廃止。しかし直後に皇室内で出産時の死亡が相次ぐ。そこで対策として新たに典薬寮管轄の産科に特化した『助産寮』が創設され、『助産師』という職業が生まれたのであった。


 蓮花は、素早く子と母がつながった臍の緒を糸で二か 結紮けっきつすると、臍帯用の刀で切断した。

 通常は臍の緒の拍動が止まってから行うが、今は待たずにすぐに切断した方がいと判断したのだ。幸い、赤子や臍の緒には炎をまとって蠢く鬼の姿はまだない。これ以上生まれた子に影響は及ばないはずだ。

 蓮花は突然の異変に恐慌状態に陥った女性陣らに告げる。


「すぐに、鬼を祓う者を呼んで参ります!」


 この鬼がえるのは、今この場では蓮花だけだ。微小な鬼は、普通の人間には視えないのだ。

 蓮花は妻戸から簀子すのこに出た。冷えた簀子が足先から体温を奪う。

 夜空には黄金に輝く丸い望月もちづきが見えた。時刻はとらの刻頃だろうか。


 突如起こった彼女の苦しみ。幼い頃より鬼が視えていた蓮花には、あの小さな鬼らが原因であることはすぐにわかった。

 あの鬼は胞衣だけでなく、彼女の中にうごめいているのだ。一匹が動くと、他の鬼も連なって動くのだろう。胞衣についていた鬼は分裂した一部にすぎず、体内に無数の彼らがいるのだ。一刻も早く、鬼を除去しなければならない。

 蓮花は寝殿に続く渡殿まで進むと、険しい面持ちであたりを見回した。

 今もなお、陰陽師の祝詞が響いている。


 しかし、蓮花の足がふと止まる。本当に、それで祓えるのだろうか。

 産気づいてから今に至るまで、ずっと祝詞は唱えられていた。それでも鬼を退けられないこともある。祝詞は鬼の力を弱めるのだろうが、体が弱っている妊産婦にとって、その弱い鬼すらも命とりになるのだ。

 蓮花は己の手を見た。母体に触れた時に付着したのだろう。微細な鬼が、手やその周りにふわふわとまとわりついている。

 蓮花はぐっと手を握り締めると、意識して呼吸を整えた。

 何もしないよりは動いた方が良いはずだ。けして諦めてはいけない。

 蓮花は面を上げて、渡殿の先にある寝殿に焦点を当てると、人を呼ぶために口を開いた。


「どなたか……!」


 その瞬間。空気を切り裂くように、弦を鋭く打ち鳴らす音が聞こえた。

 同時に、蓮花の手や周囲に舞っていた鬼が一瞬にしてかき消えた。


「えっ……」


 驚いて手元を見ると、弱った鬼がかろうじて一匹残っているだけであった。

 音のした方へ首をめぐらせると、屋敷の庭に弓を手にした一人の青年がいるのが見えた。

 年の頃は二十代後半くらいだろうか。憂いを帯びた目元が印象的な男性であった。通った鼻筋や薄い唇は繊細さを醸し出しており、肌は透けるように白い。烏帽子えぼしから流れる横髪は風になびき、藍を薄くしたはなだ色の狩衣かりぎぬをまとっているのだと月明かりから判別出来た。


「外は任せるって、俺の担当範囲広すぎだろ……しかも一人って……」


 整った見目に反して、渋い顔でそうつぶやいた青年は、何歩か歩くと弓の弦を引いて放ち、音を響かせた。

 彼が行っているのは鳴弦めいげんといって弓を用いて邪気を祓う作法だ。産室に向かって鳴弦してはならないので、建物を背にするように打ち鳴らしている。

 蓮花は顔を引き締めると、高欄に足をかけて、ひらりと地面に飛び降りた。非常識だが、今は急ぎのため躊躇ためらいなどなかった。

 蓮花はそのまま地面を駆けて、彼の方へ向かうと声を張り上げた。


「陰陽師の方ですか!? どうか助けて下さい……!」


 声をかけられた青年は振り向くと、蓮花を見て驚いたように目を見張った。

 蓮花はそこでふと自分の姿を思い出した。裸足はだしに、赤子を取り上げた時に付いた血で所々赤く染まった白い袿姿。

 無我夢中で駆け出してきたが、けがれを嫌う貴族の者が見たら、おびえられても仕方のない姿だ。


「どうした!? どこか怪我けがを!?」


 だが、青年は疎むことなく近寄った。

 勘違いされていることに気付いて、蓮花は慌てて首を振った。


「違います。私のではなく……この血は出産の障り、赤様を取り上げた時のものです。無事にお生まれになったのですが、北の方様の体に鬼がとりきました。どうか、助けて頂きたいのです……!」


 青年は産室のある対屋たいのやを振り返った。


「ちっ、だから心配していたんだ。まだ経験の浅い者一人に屋敷やしきを任せるなんて……」


 そして青年は何か気付いた素振りで蓮花の手を取ると、じっと見つめる。


「あの……」


 蓮花が戸惑っていると、青年は人差し指と中指を立て、横に一文字を引くように線を切った。

 すると、蓮花の手の平に残っていた微細な鬼が一瞬にして消えた。

 蓮花は感嘆する。


「すごい……」


 すると彼は、蓮花の反応に目をしばたたかせた。


「君は鬼が視えているんだな。この屋敷の女房か?」

「いえ、私は助産師です。本日は北の方様のお産を介助するために、呼ばれました」

「ああ、何か評判のあるという助産師が来たと、誰か言っていたな」


 青年は納得したようにうなずいた。


「俺は陰陽師おんみょうじ賀茂かもの忠行ただゆきの弟子で、安倍晴明あべのせいめいという。本日は他の陰陽師の追従として訪れた」

「安倍、晴明様ですね」


 賀茂忠行の名なら蓮花も知っている。当代一と言われる陰陽師だ。

 ならばきっと彼も優秀な陰陽師なのだろう。蓮花は狩衣の裾を引いた。


「すぐにこちらに来て下さい。とても尋常ではない苦しみ方をされているので……!」

「もちろんすぐに助けてやりたいが、産室に立ち入ってもよいのか?」


 蓮花はぐっと言葉に詰まった。踏み入れて良いのは医師か屋敷の主人か。いずれにしても蓮花が勝手なことをするわけにはいかない。やはり今から寝殿まで戻って、許可をとってから動かなければならないか。

 晴明は少し考える素振りを見せた。そしておもむろに口を開く。


「……はらうのに君の体を借りてもいいか? それなら俺はその場に直接行かなくても祓うことが出来る」

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