第6話 斎無さんは冴えてない

 僕は今、一大決心をしようとしている。自分から話しかけるなんていつぶりだろうか。こんなことで怯えているなんて僕もまだまだ子供だな、なんて気楽にいられたらどれだけ幸せだろうか。実際はどうやって話しかけよう、相手は不快に思わないかなと不安に思っている。

 けれどそんなことで迷っているわけにはいかない。昨日はあれだけお世話になったのだ。僕の感謝の気持ちを伝えなくちゃいけない。自分から話しかけるんだ、勇気を出せ僕! と勇気を振り絞って僕はあの人に声をかけた。


「あ、あのっ!」

「……なに?」

「き、昨日はありがとう。おかげで助かったよ」

「なんのこと?」


 相手は僕のことなど知らないとでもいうような顔をしている。少し傷つくがそれも当然だと思うしかない。だって僕は影が薄い存在なのだ。それならそれで仕方ない……と思うことにしよう。少し傷つくけど。


「椅子のことだよ。僕の椅子、あれだよ」

「ああ、そのことね。全然いいからそんなこと」

「でもお礼は言っておこうかなって思ったんだん……ありがとう」

「気にしないで。それより君はええと……」


 誰だっけ……? と言いたそうだ。だがそれを言わないだけの優しさがある。なるほどこの人は優しい人なんだなと僕はその時ようやく気づいたのだった。

 思えば昨日、僕自身が気づかなかった椅子のことをいち早く気付いていたのもこの人だったんだ。つまり見た目のクールさとは裏腹に、優しさの塊で出来ている人間だということがわかる。話しかける前は緊張したけど、こうしてみるといい人なんだなと安心した。


「僕は玄間、いちおう昨日名前を言ったんだけど……」

「ごめん、忘れてた。玄間くんね、うん……覚えたわ」


 相手の申し訳なさそうな表情から、僕のことを忘れたふりをしていたわけじゃないということを知りほっとする。改めて僕は目の前の相手に礼を言った。


「ほんと、ありがとうね……佐藤くん」


 サッカー部に入部希望らしき人物、佐藤くんに礼を言わなければ失礼というものだろう。彼は僕の椅子の交換を先生に頼んでくれたのだ。なんと善人なのだろうか。彼は僕にとって救いの神に等しい存在だ。先生にお願いをするなんて、僕のメンタル的にハードルが高い行動を、代わりにしてくれたのだ。恩人と言っても過言ではないだろう。


 そんな佐藤くんだが、僕の礼を受けて軽く微笑んで、友達との談笑に戻っていった。若干の寂しさを覚えつつも、僕はやるべきことをやった充実感に満たされ、自分の席へ戻ることにした。

 交換された新しい椅子の置いてある、僕の席へ……。



 ◆ ◆ ◆



「ねえ、おかしくないかしら」

「うわ、斎無さん……。おはよう」

「おかしいわよね、これは」


 朝から斎無さんに話しかけられるなんてめんど……もとい幸運だなあ。こんな美少女に話しかけられるなんて僕の高校生活は薔薇色に染まっているのかと錯覚しそうだ。

 実際はサイケデリックな色合いに塗れていると昨日確信したわけだけど。


「おかしいって何が?」

「お礼を言う相手がおかしいって話よ。普通私に言うんじゃないかしら」


 斎無さんはジョークが上手らしい。昨日の椅子すり替え事件を経験して、彼女は自分が礼を言われる側だと思っているらしい。もしかしたら彼女の中では昨日のあれは美談にでもなっているのかもしれない。


「おかしいのは……いややめておこう」

「玄間くん。ねえ玄間くん私今すごく傷ついたのだけれど」

「ごめん斎無さん、悪気があったわけじゃないよ」

「余計タチが悪いと思うのだけれど。玄間くん、昨日私がしてあげたこと覚えてるわよね」

「もちろん覚えてるよ。迷探偵っぷりを遺憾なく発揮してたよね」

「怒ってるの? あんなに楽しんでおいて」


 ふんっと鼻を鳴らす斎無さん。怒ってるのは斎無さんの方じゃないだろうか。昨日の別れ際、僕は斎無さんから逃げて自転車で爆走した。その時のことで彼女に何を言われるか、朝目覚めてからずっと気にしていたのだ。

 斎無さんの様子をみると不機嫌なのは確かだ。だがどうやら自転車で逃げた件について怒っているようでもなさそうだ。まさか本当にお礼を言って欲しいのだろうか。


 昨日のあれが楽しかったかと聞かれると、そうだと言う他ない。確かに僕は昨日の探偵ごっこを楽しんでいた。認めるしかない。だが家に帰って夜飯を食べて、風呂に入って冷静になると、僕はなんて恥ずかしいことをしていたんだろうと思うようになった。

 あんな妄想お披露目ごっこを高校生にもなってやっていたなんて、恥ずかしすぎて恥ずか死んでしまうレベルだ。斎無さんは仮にも探偵役だったからまだいい。僕なんか容疑者役で犯人でもないのに慌てていただけだ。ごっこ遊びにしてもダサすぎる。

 そんな風に考えて、一夜明けて僕は斎無さんにお礼を言う気なんて一ミリほどしか残ってなかったのである。その一ミリも今の会話で消えてしまった。


「玄間くん、犯人役の玄間くん。ほら言ってごらんなさい、本当は楽しかったんだって。斎無さん、素敵な時間をありがとうって」

「斎無さん」

「うん? 素直に言う気になったのかしら」

「ジュース奢ってくれてありがとう。おいしかったよ、いろ◯す」

「そこじゃない! お礼を言われたいポイントからズレてるわ!」


 昨日の探偵ごっこの間、斎無さんはずっとクールな表情だった。今もクールの範疇ではあるけど、昨日よりも表情が豊かだ。果たして僕の表情筋は彼女のものと同じくらい動いてくれるのだろうか。緊張か無表情の二パターンしかないんじゃないか。


「そもそもい◯はすはジュースじゃないわ、水よ」

「そこはどうでもよくないかな……」

「そうやって言葉の選択を間違えると、また昨日みたいに疑われるわよ」

「勝手に疑ったのは斎無さんなんだよなあ……」

「ちなみに食品衛生法では清涼飲料水の中にミネラルウォーターも含まれているわ」

「じゃあジュースでいいじゃないか」

「不正解よ。ジュースと清涼飲料水はまた別だもの。炭酸や乳酸菌が含まれていないものが清涼飲料水よ」

「クイズ番組かな?」


 なぜ僕は斎無さんに朝から清涼飲料水について解説を聞かされているのだろう。なぜ斎無さんは学校に黒革の手袋なんてキマッたファッションをして来ているのだろう。なぜ斎無さんは銀髪なのだろう。なぜ斎無さんは僕なんかに話しかけるのだろう。

 わからないことばかりで僕の頭は朝のホームルームを迎える前にカロリーオーバーしてしまい、その後のことはあまり覚えていない。


 ただ一つ覚えているのは、一時間目の休み時間に佐藤くんが「玄間、椅子の調子どうよ」と話しかけてくれたことだけだ。僕はどんな返事をしたのか、覚えていない。ただその後佐藤くんが話しかけてくることはなかった。

 僕の返事がよっぽどおかしかったのか、横にいる斎無さんが何かしたのか。それはもうわからない。

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