第8話 あのこと

 フェリクスの様子がおかしい、ということに確信を得たのは、花々の季節における祭が終了してから七日目の朝のことである。

 日課のようになった朝食の場で、奏はまじまじとフェリクスを見つめた。


 普段であれば、嘘を吐いたり、はたまた奏をからかって嬉しそうにしているフェリクスが、今日は楚々として食事を進めている。

 時々奏に話しかけてくるが、それも近況を聞くようなもので、普段のようなからかいが混ざっていることも全くなかった。毒舌がなりを潜めている、というべきだろうか。


(……おかしい、気がする)


 最初の頃、それこそ祭の次の日は全くもって、そういった片鱗も見せなかったのだが、二日、三日、と過ぎる内に少しずつ口数が少なくなっている。

 ただ、それらの変化は微細で、多分、奏がこの数日、フェリクスを気にしていなければ、気付かなかったほどの些細なものだった。実際、ステリアや、使用人たちがフェリクスの様子を気にしている素振りを見かけることはない。他者からすると、フェリクスの対応は普段通りに見えるのだろう。


 ただ、気付いてしまうと、日を追うにつれてそれらの変化を無意識に追ってしまうものである。

 完全に何かがあったのは明白だ。そして、それを奏に悟らせないように繕っている、というところも、分かってしまった。


 実際、今も、フェリクスは普段通りを装っている。奏に軽口を言い、笑う。だが、なんというか――その全てが、上滑りしているような感覚があった。普段とは違う。心がここに無い、という表現が一番近しいかもしれない。


 何があったのだろうか。奏には全くわからない。多分、使用人たちに聞いても、わからないと答えられるだろう。

 だから、奏は、直接、尋ねることにした。



 朝食を終え、その後本を読んで過ごし、太陽が空の真ん中にさしかかった頃、奏はフェリクスの執務室を訪ねた。ノックをすると、中から侍従らしき人の声が返ってくる。名前を問う声に、奏は自身の名前を告げた。程なく、室内の扉が開き、中に足を踏み入れることが出来る。


 フェリクスの執務室だ。扉を開けて真っ直ぐ、線を引いた所に、大きな机がある。フェリクスは手元の書類に視線を向けながら、「悪いけれど、ソファーに座って少し待っていてくれる?」と静かに囁いた。奏は言う通りにして、ソファーに座り、そこからフェリクスを伺う。


 フェリクスはいつも忙しそうにしている。外交的な物事は、兄であるアレウスが行うことが多いこともあってか、フェリクスは内政の手伝いをするべく、動いているようだ。積まれた書類は、彼が有能であることを示していると言えるだろう。


 さらさらと動くペンの音が静かな室内に響く。

 処理を終えた書類を侍従がフェリクスから受け取り、一礼をして部屋を出て行くのが見えた。その背中を追いながら、奏はフェリクスを見つめる。

 執務をしている最中は普段通り、のように見える、のだが。なんだか、普段より元気が無いように見えるのは、違和感を覚えたからこその見方になってしまっているのかもしれない。


 フェリクスはいくつかの書類を処理すると、ふ、と息を吐いた。椅子が軋むような音を立てて、フェリクスが立ち上がる。そしてソファーに座っていた奏の元に近づいてきた。


「それで? 奏はどうかしたの?」


 フェリクスは奏の隣に座ると、軽く首を傾げて見せる。


「今日は僕もあまり暇ではないから、キミの話し相手に、ということであれば少し難しいのだけれど」

「話し相手になってほしくて来たわけではないんです」

「そう? 何かあった? 今日は何も教えていないはずだけど」


 からかうような口調だ。普段、奏がフェリクスの執務室を訪れる時は、嘘を吐かれた時だけである。怒りながらやってくる奏を、フェリクスは嬉しそうに歓待し、宥めるように言葉を続ける。

 こうやって、何も無いのに奏がやってくることなんて、ほとんど無い。


「フェリクス殿下、差し出がましいことを言うんですが」

「何?」

「何かありましたか?」


 フェリクスは瞬いた。美しい虹彩で、奏のことをじっと見つめる。微かな動揺が瞳に浮かび、瞬きと共にそれが消え去った。


「何か、って、何が?」

「だから、その……なんというか、なんだろう……元気が無い、というか」

「元気って」


 フェリクスが笑う。なにそれ、とでも言いたげな顔だ。軽く息を零すようにして笑い、フェリクスは顎に手を添えて、奏を見つめる。


「元気だよ。これで充分?」

「……」


 尋ねた所で、はぐらかされて終わる、というのは簡単に想像が出来た。だから、こうやって軽口で宥められる、という状況は、想像した通りのものではある。

 奏はじっとフェリクスを見つめる。美しい虹彩の瞳が、そっと奏を見返した。二人して逸らすことなく見つめ合い、――不意に、フェリクスが視線を逸らす。


「そんなに見つめられると少し困る」

「……元気、無いですよね」

「あるって。僕と押し問答をするために、ここへ来たの?」

「そういうつもりはなくて……」


 どう言えば良いのだろうか。どう口にしたら、フェリクスに伝わるのだろう。

 必死に頭の中で言葉を組み替え、奏は息を零す。婉曲に言うべきかどうか、考えて、奏は首を振った。

 婉曲に言えば、フェリクスはそれらを簡単に自分にとってやりやすい方へ変換してしまうだろう。なら、奏がすべき事は、真っ直ぐに言葉を伝えるだけだ。


「心配なんです」

「……」

「フェリクス殿下が、いつも通りじゃないと……なんだか、こう、もやもやとするというか……! 元気で居て欲しいんです」

「……なにそれ」


 フェリクスが笑う。


「口説いてる?」

「くっ……、口説いてない、けど、口説いてると取ってもらっても、良いです……!」

「どっちなの?」


 くすくすと喉を鳴らし、フェリクスは細く息を零した。視線を落とし、躊躇うような間を置いて、「キミって結構頑固だよね」と囁いた。


「それ全部気のせいだよ、って僕が言ったらどうするの」


 吐息と共に零れた声音は、呆れたような響きを宿していた。気のせいだよ、と言われたところで、奏としては引くことはないので、どうもしない。


「傍に居て、見張って、指摘する時を虎視眈々と狙います」

「ふ。何それ。もう、本当に……キミって僕の想像を超えてくるよね」


 肩をすぼめ、フェリクスは首を振った。机の上で手を組み、一拍、二拍、間を置いてから、室内の使用人に対し、「外へ出ていて」と声をかける。

 使用人たちが腰を折り、室内から出ていくのを眺めてから、ようやくフェリクスは細く息を吐いた。


「ドルービス伯爵の処遇が決まってね。爵位返上になったよ」


 ドルービス伯爵、というのは、フェリクスと奏が出会ったとき、フェリクスに薬を持って既成事実を作ろうとしていた人々のこと、だろう。

 やろうとしていたことを考えると、爵位返上という罰が、それに見合うものなのか、奏には判別がつかない。奏が何も言えずにいると、フェリクスはふ、と息を零した。


「それがあったから、というわけでもないけれど……前にも、この時期に、同じようなことがあって、それを思い出してしまったんだ。それだけ」

「前にも、……ですか?」

「そう。十四年前の……もしかしたら話を聞いたことがあるかもしれないね」


 フェリクスは静かに笑う。十四年前の、フェリクスの話。奏には想像がつかないが、もしかしたら、それは舞踏会の会場で聞いた『あのこと』に繋がっているのかもしれない、とぼんやりと思う。

 舞踏会で、令嬢が口にしていた『あのこと』。話を聞くに、『あのこと』が起こって以来、フェリクスは踊らなくなっていた、らしい。だからこそ、令嬢は奏とフェリクスが踊ることに関して、あんなに感動していたのだろう。


 奏はそっと息を零し、首を振る。


「……しっかりと聞いたことはないです」

「そう? まあ、簡単に言うと、昔毒殺されかけたんだよね」

「……うん!?」

「なにその反応」


 息を零すようにしてフェリクスが笑う。どう考えても簡単にまとめて良い話ではないだろう。奏は首を振り、慌ててフェリクスの腕に触れた。


「あの、その、言いたくないことなら言わなくても大丈夫ですが……!」

「なにそれ。聞いてよ。……聞いてほしい。ああでも、大げさに反応はしなくて良いよ。もう終わったことだからね」


 フェリクスは弾むように言葉を口にして、吐息を落とす。わずかな間を置いた後、「僕が十歳の時に」と続けた。


「姉のように思っている人が居てね。その人に、ダンスに誘われたんだ。花を交換して、踊って、僕はもらった花が嬉しくて何度も触って、何も考えずに食事をして、倒れた」

「……」

「検査の結果、花から毒物が検出された。……その当時、僕を後継者として後押しする一派と、兄を後継者として後押しする一派に別れていて――まあ、僕は邪魔ものだったんだよ」


 紡がれる言葉があまりにも重くて、奏は閉口する。大げさに反応するな、終わったことだ、とフェリクスは言うが、本当にそうなのだろうか。

 フェリクスの指先が、痙攣するようにひく、と動くのが見える。奏は腕を握る手を下ろし、そのままフェリクスの指に触れた。低い体温のそれに、自身の体温を分け与えるようにして手を繋ぐと、フェリクスが首を振った。


「……大げさな反応はしなくて良いよ」

「手を繋ぐ、というのは、大げさな反応ですか?」


 吐息と共に紡がれた言葉に、同じような温度の声を返す。フェリクスが奏を見て、困ったように笑った。


「……大げさ、ではないか。まあ、そういうことがあって……、王族に毒を盛ったから、彼女と、その家族は処刑されることになった。それが祭りの七日後だったから、この時期になると、少し……」


 フェリクスは、それだけ言うと唇を閉ざした。

 ――ああ、と奏はフェリクスを見つめる。『終わったこと』だと、『だから大げさに反応するな』と、フェリクスは言った。けれど、そうではないのだろう。

 きっと、フェリクスの中では、終わっていないのだ。そして、簡単に飲み下したり、なくすこともできないほど、重たい過去として、彼の背に負われている。


 姉のように思っていた人から、毒物を盛られた花を渡されたフェリクスを想像すると、なんとも言えない気分になる。

 嬉しくて何度も花を触った、と言っていたから、その当時の喜びようは相当なものだったのだろう。その時の沢山の幸せが、すべて、裏切られてしまったのだ。


 舞踏会の日、フェリクスがあまり食べ物に手をつけない理由が察せられる。もちろん、出される食べ物に毒物が付着していない、ということをフェリクスは知っているだろう。

 それでも、十年以上前に毒の付着した花を触り、その手で食事をとって倒れたときのことが、トラウマのようになっているのではないか。


 飲み物は頼んでいたが、それも奏が頼んだものと同じものだ。一口飲んだ後、すぐにグラスを置いていて、奏は、好きなものを頼んだのではないのか、と不思議に思ったものである。

 多分、あれは、そうではないのだ。食べ物はまだしも、飲み物は人の手を経るにあたって、簡単に何かを潜り込ませることが出来る。フェリクスは、奏が頼んだものと同じものを頼み、口にすることで、――いわゆる、毒見のようなことを、しようとしたのではないだろうか。


 想像に過ぎない。発想が飛躍しすぎている、と言われたら、そうかもしれないと答えるだろう。

 けれど、ある種の確信めいた感情をもって、その考えは奏の胸中を巡る。

 もしそうだとしたら、この人は、どれほどの勇気をもって、飲み物を口にしたのだろう。


「……少し、ね」

「……フェリクス殿下」

「なに? ああ、慰めの言葉とかは本当にいいよ。何度も何度も聞いているから」


 奏は唇を噤む。ここ一週間の、フェリクスの不調。その理由が明かされた。奏からすると、願っていたことではある。だが、それでも、軽々に聞いていいことではなかった、という思いがじんわりと心中に滲む。

 フェリクスの心についた傷口を、自ら開かせるような真似をしてしまった。

 慰めの言葉と、謝罪の言葉が、喉の奥をぐるぐると巡る。ただ、そのどちらも、口に出したら、とても軽いものとして響いてしまうような気がした。だから。


 そっと手を伸ばす。嫌がられたらすぐにやめる、というのを考えながら、奏はフェリクスの手を両手で抱きしめるようにして握った。

 フェリクスが息を飲む。なに、という声が掠れて響いた。


「……終わったこと、には、見えなくて」

「……終わったことだよ。もう、すべてね。僕は継承権を放棄したから、もう二度とああいうことは起こらない。それでも、ドルービス伯爵がしたように、王家に類する血筋ということもあって、狙われることはある。ただそれだけだ」

「フェリクス殿下は」


 奏はフェリクスを見つめる。美しい虹彩が揺れながら、奏を見返した。


「私には元気でいろ、体調を崩すな、というのに、自分のことは一切大事にしていないです」

「……何かおかしいことでもある?」

「大ありです。良いですか、今後――そう、今後、なんでもないみたいに、辛い過去や傷ついたことを口にしたら、私も、それ相応のことをします」


 フェリクスが瞬いた。問いかけるような視線を、奏は正面から受け止める。


「つまり、私も、自分のことを大事にしなくなりますからね!」

「……なんで?」

「なんでも、です! 私に自分のことを大事にしてほしいなら、フェリクス殿下も、フェリクス殿下のことを大事にしてください。良いんですか、暴食暴飲をしますよ、私は!」


 ぎゅ、と手のひらに力をこめる。フェリクスは奏の言葉を飲み下すような間を置いて、それから息を零すようにして笑った。なにそれ、という声が掠れて響く。


「意味がわからない。それ、キミに何かメリットでもあるの?」

「メリットはあります。フェリクス殿下が、フェリクス殿下のことを、大事にするようになる!」

「それは僕のメリットな気がするけれどね。ああ、もう。いいや。バカみたい。聖女ってそういうものなの? 昔話に聞く聖女は、品行方正なのに。キミは全然違う。最初の時も、クローゼットに逃げ込もうとするし」

「あれは……! だって、クローゼットから出てきたんだから、帰るのだってクローゼットに入ればどうにかなると思うじゃないですか!」


 確かに、はたから見たら異常行動に他ならないが、それでもあの時は必死だったのだ。奏は眉根を寄せる。

 フェリクスは喉を鳴らすようにして笑いながら、「はあ、本当、なんなの?」と続ける。呆れの滲んだ声音だった。だが、突き放すようなそんな冷たさは、そこには一切滲んでいない。


「僕が僕を大事にしないと、キミもキミを大事にしない、か。……困るな、それは」

「困らないでください。大事にして! 暖かくして寝て! いやなことがあったら布団に潜り込んでください!」

「じゃあ、見ていてよ」


 フェリクスが囁く。何を、と奏が問いかけるより先に、フェリクスの片手が、奏の手に重なるようにして添えられる。


「キミが。僕が、きちんと僕のことを大事にしているかどうかを、近くで」

「もちろん。見ています。大事にしていないと判断したら、すぐに私は暴食を始めますからね」

「責任が重いなあ。それ、ほとんど脅しだよ。キミって結構悪いひと、なんだね」

「今まで気づかなかったんですか?」


 奏が笑いながら声をかける。フェリクスは瞬いた。眦を色づかせ、ふ、と息を零すように笑う。


「気づかなかった。今後はキミへの対応をもう少し考えないとね」

「そうですよ。例えば嘘をつかないとか」

「ふ。どうしようかな。それは。――さて、中断していた仕事をしないと。キミはまだいるつもりなの?」

「今日は予定もないので……、宣言通り、傍で見てます。フェリクス殿下が、ご自分のことを大事にされるのを」

「そう。好きなようにして。何か食べたいものがあれば、言ってくれたら用意はさせるから」


 フェリクスは笑う。唇の端を持ち上げた柔らかな微笑みは、どこか憂いが拭い取られたようにも見える。

 奏の言葉や行動が、フェリクスを救う――だなんて、そんなことは考えられない。けれど、握る手が、かける声が、わずかでも、フェリクスの背を押すことが出来るなら。

 それはきっと、とても、幸せなことに思われた。

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