第4話 聖女はみだりに触れてはならない

 聞いたよ、と静かな声で言葉をかけられて、奏は顔を上げる。そうして、斜め向かいに座るフェリクスを見つめた。

 朝、朝食の場として整えられた室内には、窓から差し込む金色の光が、優しくカーペットや家具を撫でている。大きな楕円形のテーブルには、見目も鮮やかな食事が並んでいた。パンにスープ、それと果物、サラダ、オムレツのようなもの――いわゆる軽食の類いである。


 量は、多い。ただ、これでも減らして貰った方だ。前はもっともっと多かった。テーブルを埋め尽くすくらいある食べ物を、もったいない精神で食べていった結果、胃と腸が悲鳴を上げたのはつい先日のことである。

 あれから、奏の食生活を心配したフェリクスによって、朝ご飯を共に食べる機会が多くなり――二週間ほど経つ、だろうか。今は実りの月、三十日。明日から、花々の季節、と呼ばれる月が始まる。


「――使用人の怪我を治したんだって?」

「……ああ」


 少しばかり平坦な声音で告げられて、奏は頷く。怪我を治した――という、ほどではない。

 昨日の昼頃、昼食の皿を下げるときに、使用人の手に怪我があることに気付いたのだ。恐らく本人すら気付いていないだろう、うっすらとした傷口だった。

 なので、奏は、「怪我してます。大丈夫ですか?」と声をかけた。その時、怪我の箇所を指さそうと伸ばした指先が、使用人の手に触れてしまったのだ。


 瞬間、体温がす、と僅かに下がるような心地がして――使用人の指にあった怪我が、治っていた。

 使用人はひどく恐縮したような面持ちで、なんども奏に謝罪と感謝を繰り返していたが、奏からしたら触れただけである。むしろ不用意に触れてしまってすみません、と謝罪をし、二人で頭を下げあって、笑い合い、それで終わった。


 ――と、思っていたのだが、その情報がどうやらフェリクスの元に届いていたようだ。

 フェリクスは奏を見つめると、美しい虹彩の瞳を揺らした。美形の心配する顔、というのは、とんでもない破壊力を持つなあ、なんて奏はぼんやりと思う。


「体調は? 大丈夫? 前に僕を治したときは、体温がぐっと下がって顔が白くなっていたでしょう」

「大丈夫ですよ、全然問題無いです」


 奏はぐ、と拳を作ってみせる。フェリクスは眉根を寄せたまま、奏の頭から爪先までをじっと見つめると、そっと息を零した。


「もし、体調が悪くなったら直ぐに僕を呼んで」

「本当に大丈夫ですって!」

「キミは大丈夫かもしれないけれど、キミに何かあれば保護している僕に責任がかかってくるからね。キミのためじゃなくて、僕のためだから」

「……了解です」


 奏のことを心配して――というより、あくまで自分に降りかかる火の粉を払いたい、というようなニュアンスで告げられた言葉に、奏は顎を引く。

 そういう性格であるということを、この一ヶ月半、充分に理解していたというのに、何だか心配されているように思ってしまった。勘違いにも程がある。

 思わず空笑いのような声が漏れそうになって、奏は一息でそれを飲み込む。フェリクスは瞬いた後、それにしても、と言葉を置いた。


「聖女の力っていうのは、常日頃からずっと発せられているものなんだね。使いたい時にだけ使う、ってことは出来ないの」

「……そうみたいですね。触れると、勝手に相手のことを治してしまうみたいです」


 だから、聖女として誰かを治療するな、と言われても、中々難しい。手の平というものは特に、何をしても動かす場所だし、人に触れる際も必ず使う場所だ。

 相手が怪我をしていたり、病気をしていたり、はたまた呪いをかけられていたとして――奏が触れると、その手は無条件に全ての人を救う。そして、奏の体温を奪っていくのだ。


 幸いなことに、フェリクスを助けた一件から、それこそ歯の根が合わなくなるくらい体温を奪われる、というような事態には直面していない。

 だが、これから先もそうである、とは言い切れない、というのが現状だ。


「ちなみに、手以外の場所で触れたときは? その時も怪我を治すの?」

「どうでしょう。でも、普通に触れられる分には今の所寒くなったりはしませんね……」


 奏の着替えは、使用人が手伝ってくれる。化粧もそうだ。肌を整え、美しく飾ってくれる彼女らの指先が、奏の肌に触れたことは何度もある。だが、その際に気分が悪くなる、ということはなかった。

 多分、奏から相手に触れる、というのが聖女の力が出てくるトリガーなのだろう。


「ふうん……それは良かったね。もしどこに触れてもそうなるなら、キミの髪や爪は恐らく売買されていただろうから」

「えっ」

「キミの何かに触れる、というのが聖女の力が発現する条件だったら、という話だ。そうじゃなくて良かったね」


 あっけらかんと言われるが、そうであったら、と思うと少しばかりぞっとしない。

 もし奏の何かに触れれば、それだけで何もかもが治る、ということであったなら、きっと今が比では無いくらい、体温を奪われ続けることになっていたのではないだろうか。

 そうなったら、行き着く先は決まり切っている。


「……以前の聖女はどうされていたんでしょう?」

「どうだろうね。前の聖女が来たのは百何十年も前だ。それ以前の聖女に関しても文献は残っていて、治療の際に使用した箇所は、様々なんだけれど……」

「えっ。なら、最初に触れて、って言ったのは結構博打みたいな感じだったんですか……!?」


 もしそれが不発だったら、奏は今頃保護もされていないし、悪ければ捕まっていたのではないだろうか。

 想像すると、背筋を氷塊が撫で落ちていくような心地を覚えた。手で治療出来る力の持ち主で本当に良かった。


「ふ。あは。そうだね。でも、手で触れて聖女の力を発現する聖女は多かったみたいだから。多分、今までにやってきた聖女の七割くらいがそうだよ。それに……キミ、クローゼットから出てきただろう?」


 フェリクスは笑いながら続ける。出会いの日を思い出しているのか、心底楽しそうに「服装も僕達とは違った」と続ける。


「聖女は急に現れる、というのはよく知られる話だ。もしかしたらキミが、ドルービス伯爵令嬢に雇われた誰かで、僕と彼女の関係を他者に証言させるために隠れていた可能性もあったのだけれど……それなら、あんな風に出てくる必要は無いし、クローゼットの中に必死で戻ろうとするのもおかしい」

「……誤解が一瞬で解けたようで何よりですが」


 あの日の奏が起こした行動が、どうやらフェリクスに『聖女である』という認識を持たせる根拠となったらしい。有り難いことではあるのだが、フェリクスがやけに楽しげに言うので、奏としては恥ずかしくなってくる。


 ――フェリクスはあの日のことを、「毒を盛られた」と言っていた。その後の調査で明らかになったのだが、盛られた毒は意識を混迷させるものだったらしい。奏が来なければ、フェリクスはあのまま相手の令嬢になすがままにされて、既成事実を作ることになっていただろう、とはフェリクスの言である。


 とんでもないことを、まるで簡単に話す。フェリクスはそういう人だった。本当なら、驚いたり怖がったりするべき部分を、明日の天気を話すような気軽さで口にするのだ。

 ――そうなるまでに至った理由を、奏は知らない。そして多分、フェリクス自身も、話すことはないのだろう、と思う。


「まあでも、効いて良かったです。あの時」

「そうだね。あの時、キミは聖女としての力を使用したから、僕に保護されて、強大な後ろ盾を得ることが出来たんだから」

「そうじゃなくて。フェリクス殿下、辛そうだったので」


 フェリクスが瞬く。虹彩を揺らし、それから僅かに眉根を寄せた。何かを言おうとして、何も口に出さず、淡紅色の唇が引き結ばれる。

 実際、あの時のフェリクスはひどく辛そうにしていた。毒というくらいだし、意識が混迷するような作用を持っていた物を盛られたのだから、その時の辛さは想像出来ない。

 来て、と奏を呼ぶ声が、苦しさで濡れていたのを思い出す。

 縋るように伸ばされた指先を、奏は覚えている。

 奏の、少しの体温低下と引き換えに、フェリクスの体を蝕んでいたそれらが取り除けたなら、――まあ、聖女の力も悪くないな、と思ってしまうのだ。


「……そう」


 フェリクスは間を置いてから、静かに言葉を口にする。奏から視線を逸らし、咳払いのようなものをしてから「まあ、キミの聖女の力が無条件に使われ続ける状況は僕としてもどうにかしたい所ではあるから」と囁いた。早口だった。


「後でキミに見て貰いたいものがある。部屋まで持っていくから」

「わかりました。待ってます」


 何を見せたい、のだろうか。少し考えて、けれど一切内容が思い浮かばず、奏は首を傾げながらフェリクスの言葉に頷いた。



 朝食を終え、部屋で少し休みながら本に目を落とし、ノヴァリスの歴史を辿る。

 もちろん、ノヴァリスで使われている文字は日本語とは全く違うので、見ただけでは全く理解することが出来ない。

 ただ、聖女特権と言うべきか、転移特典と言うべきか、本に書かれた文字を指で辿っていくと、意味のある文言として、理解出来ることに先日気づき、そこからは出来る限りの本を読んでいる。聖女のため、と用意された私室に、子ども向けから大人向け、多岐にわたっていくつかの本が置かれていたのは僥倖と言えるだろう。


 この世界から、いつ、元の世界へ帰るのかはわからないが、それにしたって情報は大事だ。子ども用に編纂された本の文字を指で辿りながら、奏は一息吐く。

 それと同時に、扉をノックする音が響いた。本を閉じながら「はい」と応えると、「フェリクス殿下がいらっしゃいました」という声が返ってくる。奏は直ぐに入室の許可を出し、使用人が扉を開いた。


「こんにちは。本を読んでいたの?」

「そうです」

「読めるんだ、文字」

「指で辿ると読めるんです。見ただけだとわからなくて」

「へえ、便利だね。じゃあ、もっと本を用意しようか。知識は得て無駄になるものでもないしね。僕が常識を教えるのも、中々毎日する、というのは難しいから」

「殿下には常識どころか嘘ばかり教えられている気がしますが」


 少しとげとげしい声音で奏が返すと、フェリクスは呆けたような間を置いてから、楽しげに喉を鳴らして笑う。


「嘘ばっかり伝えている気は無いよ。ちゃんと真実も混ぜ込んである」

「だから……! むしろそれだから性質が悪い……!」


 全てが嘘なら、なんとなく奏も察することが出来る。流石に、二十数年生きて来ているのだから、多少なり相手の表情や目線から、察する能力は身についてきた。

 だが――フェリクスは別である。彼自身が言うように、フェリクスは嘘を吐くときに真実を混ぜ込む。カスの嘘には違いないのだが、それでもそこに信憑性があると、この世界のことをあまり知らない奏は、信じるしかないのだ。


「まあ、とにかく、今日はキミへの贈り物を用意したんだ。少し前から考えていたものなんだけど、昨日のことがあったからね。早急に用意させた」

「昨日のこと……」

「そう。キミが不用意に誰かに触れて、その相手の不調を抱え込まないように。特に、怪我なんて、誰もが無意識のうちにしてしまうものだ。触れる度にそうなっていたら、困るだろう」


 フェリクスは手に持っていた長細い箱のようなものを差し出す。奏が受け取ると、肩を軽くすぼめながら「開けて見てよ」と言う。

 まるで子どもが、用意した物に驚く姿を目の前で見たい、と思っているような声音だった。フェリクスはいつも大人らしく、どちらかというと嘘を吐いては楽しんでいる姿ばかり見てきたので、子どものような所もあるのだな、と奏は驚いた。

 ただ、奏としても中の物が何かは気になるので、フェリクスに促されるまま、包装を解き、蓋を開いた。


 中には、手袋のようなものが入っていた。

 繊細なレースが幾重にも編み込まれた、美しい手袋だ。思わず奏は息を飲む。

 恐らく高級な絹糸のようなもので作られているのだろう、レースの手袋には独特の艶めかしい輝きがあった。純白のそれが、光に当たると柔らかく色を変える。手首の部分が少し細くなっていて、そこに美しい小粒の宝石が縫い込まれていた。


「綺麗……」

「手袋だ。その手首の所にある宝石に魔法がかかっていて……、着用したものは魔法が使えないようになっている。聖女の治療が魔法かどうかはともかくとして、試してみるのも良いんじゃないかと思ってね」

「凄い。ありがとうございます。付けてみても良いんですか?」

「もちろん。キミのために用意したものだから。一対しか用意出来なかったけれど、近いうちにもう一対届く予定だよ」


 触れたら解けてしまいそうな、そんな見た目をしているから、触れる指が震える。もしまかりまちがって破ったり、穴を空けてしまったら――と思うと、背筋を冷たい指で撫でられるような心地がした。

 そっと息を零して、奏は手袋を着用する。見た目に反して、レースの手袋はしっとりと奏の肌に吸い付く。身につけている、というのを忘れそうになるほど、軽い手触りだ。


「凄い、綺麗ですね」

「良かった。――そうだ、怪我を治さないか、確認をしないとね」


 言うなり、フェリクスは視線を巡らせた。何をしているのだろう、と考えて、奏は直ぐに思い至る。

 多分、鋭利な物を探しているのだろう。ここには怪我人も病人もいない。そうすると、怪我を治さないことを確認するためには、怪我人を作る必要性が出てくるのだ。


 そしてそれは、例えば、とても深い怪我だったり、酷い毒を飲んでいたり、――呪いを受けている相手では、駄目なのだ。そういった相手に触れて、この手袋が奏の力を封じなかった場合、奏の体温がひどく奪われる可能性が出てくるから。

 いや、でも、だからって! 慌てて奏はフェリクスの腕を掴む。


「どうしたの?」

「どうしたの? ではなくて……! フェリクス殿下、自分の体を傷つけようとしていたでしょ!」


 奏は慌てて言葉を続ける。フェリクスは瞬いた。図星を当てられて、けれど一切怯む様子も見せないまま、「少しだよ」と囁く。


「少しでも駄目ですよ、絶対駄目、無理、やめて欲しい!」

「でもそうしたら、効果の程がわからないじゃないか。――ああ、安心して。後で治して、なんて言わないよ。キミの負担にはならないようにする」

「そ、っ、それでも――それでも、です。効果に関しては、この手袋を日頃からずっと着用していたら、いずれわかることでしょうから」

「まあ、そうではあるけれど。もし効果が無いなら、キミはその手袋をつけなくても良いのだから……そうすると、ほら、邪魔になるだろう?」


 もしかして、効果が出なければ奏に差し出したプレゼントをそのまま捨てるつもりだったのだろうか。奏は悲鳴のようなものを喉の奥であげる。き、金銭感覚狂っている……!? 

 確実にこの手袋は、沢山の人の手を経て作られた物だろう。高価な代物だ。それに何より、――この手袋は、フェリクスが奏のことを考えて、作り上げてくれたものである。

 例えフェリクスがどれほどにカスの嘘を吐く人であろうと、そのことだけは事実だ。奏のためにと作られたものを、使えない、という理由だけで、捨てられるなんて、フェリクスが許しても奏は許せそうにない。


「これは! 私が! 貰いました!」

「……うん、そうだね。どうしたの?」

「私が! 貰ったものは! 私が好きに使います!」


 区切るように言葉を言い切る。

 フェリクスは驚いたように目を瞬かせて、それからふ、と息を零すように笑った。


「何、キミ、変な所で必死になるよね」

「必死にもなりますよ……! これはもう私のものなので、大事にします。効果があっても、無くても」

「そう。まあ、気に入って貰えたなら良かったよ」


 フェリクスは喉を鳴らしながら笑う。楽しげで――それ以上に、嬉しそうな声だった。

 奏の行動の何が、彼の琴線に触れたのか、全くわからないが、納得はしてくれた様子なので、奏も言葉の矛を収めることにした。


「……怪我もしないでくださいね」

「善処するよ」

「その、治療は出来ると思うんですが、傷がついた過去は変わらないので……」


 奏はもごもごと言葉を口にする。ゆっくりと首を振り、真正面からフェリクスを見つめた。


「その時痛い、って思った気持ちまでを、私はどうにかすることも出来ないですから」

「……わかったよ、やめる。でも、そうだな、今後は本当に気をつけるんだよ。キミ、聖女の力がどれほど凄いものなのか、ちゃんと理解するべきだ」

「わかってます、気をつけます……」


 病気も怪我も、呪いすら、浄化してしまう力。それがどれほどに強大なものなのか、奏も理解は出来ている。フェリクスの心配も尤もなものだ。軽々に奏が治療を繰り返し、それこそ、無理がたたって体調を崩して寝込む、ということになれば、フェリクスに責任問題が行くだろう。そうなったら、フェリクスに重い罰が下されるかもしれない。


 それほど、この世界において、聖女は酷く価値があるのだ。そう思うと、フェリクスが奏を見て直ぐに「保護をする」と言い出してくれたのは、有り難いことで、――けれど、不思議なことでもある。

 聖女を保護することで手に入る得より、確実に損の方が大きいのではないだろうか。何せ聖女は何でも治してしまう。そしてその代わりに自身の体調を崩す。その上、ここでは聖女は瑞兆のようなものとして扱われていて、その体調が悪くなれば、責任は保護している人物へ向かう。


 まるで爆弾のようだ、と思う。いつ爆発するかわからない――そんな存在を、フェリクスはどうして、保護する、としてくれたのだろう。

 どうして保護してくれたんですか、と問いかけたら、多分フェリクスは「助けてくれたから」と言うのだろう、と思う。だがきっと、それだけではないのだろう、ともぼんやり感じる。嘘と本音を半々に忍ばせて、奏の問いかけをうやむやにするような答えを返してくるであろうことは、なんとなく想像がついた。


 心中でぐるぐると巡る疑問を飲み下して、奏は手袋を指で撫でる。とにかく、今は感謝を口にするのが先決だ。


「……とにかく! 手袋、ありがとうございます」

「どういたしまして。そうだ、奏は知らないかもしれないけれど、この国において、手袋を渡すというのは意味を持つから、僕以外の誰かから渡されたら断るんだよ」

「い、意味? ですか?」

「そう」


 フェリクスは頷く。そうしてから、奏の手の甲をすり、と指先で撫でてきた。


「魔法と共に生きてきた僕達が、魔法を使わないとしている日が二つだけあるんだよ。一つは子どもが産まれた時、もう一つは、結婚をする時だ」


 フェリクスの指がすり、と奏の指を撫でる。誘うような手つきに、むずがゆさのようなものを覚えて、奏は息を詰める。


「だから、僕達は婚姻の契約に手袋を渡し合う。そして、結婚の際には、お互いに手袋を付けて列席する。魔法が無くなったとしても、この人となら幸せになれる、という祈りを込めて」

「……っ、え?」


 それってつまり、手袋を付けていると大変な思い違いを受けるのでは――。

 奏はフェリクスを見る。フェリクスの瞳が揺らいで、僅かな喜色を宿す。一拍、二拍。間を置いて、フェリクスはふ、と息を零すように笑った。


「なんてね」

「――あ!? え!? 嘘!?」

「どう思う?」

「いや、さっき『なんてね』って言ったじゃないですか、絶対嘘でしょ!」


 完全に騙されてしまった。なんだかありそうに思えてしまったから、酷く動揺してしまったのだ。

 だが、フェリクスの様子を見るに、嘘だったようだ。カスの嘘過ぎる。なんだこの人は。何が楽しくて奏に嘘を吐くのか。全く意味がわからない。


「ふ。あはは。まあでも、嘘だけではないよ。少し本当が入っている」

「ど、どこに……!? どこに!? 何が!?」


 この世界の常識に詳しくないのだ。どこからが本当で、どこからが嘘なのか、奏には全くわからない。

 心中で悲鳴を上げながら、フェリクスの手を握る。このままでは、答えを得る間もなく、じゃあね、なんて颯爽と去られてしまいそうだった。

 フェリクスは奏が手を取ってきたことに、驚いたような声を漏らし、それから笑った。


「それはキミが調べないと。本も読めるみたいだしね。多分、キミが読んでいた子ども向けの本、百七十ページくらいに書いてあるよ」

「それも嘘では……」

「嘘だと思うなら、僕が去った後に読めば良い。もちろん、気になることがあったら、いつでもおいで」


 全く嬉しくない『いつでもおいで』である。

 おいで、なんて言われたら普通、嬉しくなったりほっとするものだが、今の奏に取ってしたら本当に『苦情は受け付けるよ』以上の意味を持たない。そして多分、奏が苦情を言いに来るのを、フェリクスはとても楽しみにしているのだろう。


 奏に握力が百あれば、確実にフェリクスの手を握り絞めて潰していたかもしれないが、そうではない。ぐ、と一度だけ強く握った後、奏はフェリクスから手を離した。

 フェリクスが、指先で、奏の掴んでいた部分を辿る。手の甲を指先で撫でてから、笑った。


「まあ、もう少し付き合ってよ」

「もう少しって……、絶対にもう少しじゃない気がするんですけれど!」

「ふふ。ううん。もう少し、だよ」


 フェリクスは弾むように言葉を続けて、奏を見つめた。美しい虹彩の瞳を柔らかく細める。


「キミとの会話は楽しい」


 そう思うのなら、出来れば嘘は吐かないで欲しい。

 様々な感情が、奏の喉の奥でとぐろを巻く。それらを一つ一つ飲み下して、奏は静かに息を吐いた。

 まあでも、と思う。奏がここへ来て一ヶ月半、フェリクスが居なければ、きっと異世界に来たということを受け入れられず、ずっと部屋の中で過ごしていたかも知れない。


 やり方はどうかと思うが、フェリクスの嘘は気安くて――話して居る時に、少しだけ楽になる、というのも、嘘ではない。


「……私もそう思います。ので、嘘は大概にしてくださいね」

「まあ、気をつけておくよ」


 のらりくらりとした言葉で、フェリクスは奏からゆっくりと体を離す。流麗な動作で礼を示すと、「それじゃあ、聖女様におかれましては、ご機嫌麗しく。失礼するよ」と礼を尽くす。

 普段の飄々とした感じからはまったく想像も出来ないほど、美しい所作だ。こういう所、本当に王子様なのだなあ、と思いながら、奏も同じように言葉を返す。


「フェリクス殿下におかれましても、ご機嫌麗しく! さようなら!」

「うん。またね」


 少しばかり語調の荒いそれに、フェリクスがふは、と息を零して笑いながら、奏の部屋を退室していく。

 嵐のような人だ。だからか、フェリクスが去ると、部屋の中がなんだか普段よりも寂しく思えてくる。

 奏は慌てて首を振り、そうしてからフェリクスに言われたとおり、百七十ページを開いた。


 フェリクスの言葉のどこが本当で、どこが嘘かを、確かめるために。

 

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