第5話 (クロックドーン)開戦②

 小刻みな呼吸音が耳朶を打つ。生温い息が頬を撫で、後方へ飛んでいく。自分の息だった。今までに馬上で自分の息など感じたことはなかった。


 五千の部隊の、指揮を執る。五千人の生命が掛かっている。どこまでの犠牲なら許されるのか。喉がひりついていた。僅かに口を開ける。埃立った空気が入り込み、気管に痛みが走った。


 咳き込みそうになるのを耐える。無理やり口の中に唾液を溜め、ゆっくり飲み込んだ。意味をなさない言葉を呟く。普段の自分の声とは全く違うしゃがれた声が出た。

 声が死んだ。こんな時に。こんな時だからか。タイミングを見極めた瞬間、声が出なければどうなる。そんな馬鹿な事態が起きしまったら。


 敵右翼の先頭が更に伸びる。もうすぐ、今走っている先が塞がれる。


「全軍、加速させろ。全力だ。遅れる者は、追い抜け。隊列を崩しても構わない」


 声を絞り出す。まだ進路は変えない。敵の、こちらを包もうとしている軍の腕は、まだ伸びる。今はまだ、敵もその腕を伸ばすために動いている。腕が伸び切り、こちらを包囲するという次の行動に移るその瞬間こそ、クロックドーンの狙っている時だった。しかし、それを見極められるか。


 二万の敵軍。接触するまで、あと距離六〇〇メートル程か。三〇〇メートルを切ったら、指示を出しても間に合わない。それまでに、タイミングを見極められるか。自分が瞬きをしているか、クロックドーンにはわからなくなった。敵の動き。腕を伸ばす動きと、包囲に移る動きの間隙。それが見えるのか。


「前方、塞がれました」

「まだ進路を変えるな」

「距離が五〇〇を切っています、クロック。正面の敵、厚みが」

「距離は三〇〇まで耐える」


 今の自分達の進路を塞ぐ位置にきた敵が立ち止まり、構えを取り始めた。飛び道具の攻撃はまだない。ゼブドもこちらの突進を受けるつもりなのだ。ただし、今の進路で。


 構え始めたゼブド軍の向こうに、動きを止めない部隊が見える。止まった部隊を追い越し、迂回するように進んでいる。向かってくる自分達の側面を攻撃できる位置へ移動しようとしているのだ。つまりまだ、敵の腕は伸び切っていない。


 騎馬隊の動きは見えない。やはり、いないのか。少なくとも敵とぶつかるまでに騎馬隊に襲われることはもうない。


「距離、四〇〇です」

「わかっている、フルーレ。右手側の動きはどうだ」

「敵の動きは止まっています。左手は私達の側面へ回り始めています。後方はわかりません。ただ、距離は詰められているはずです」


 既に、ゼブド軍の網の中に入り込んではいる。それはわかっていた。あとは、どこを突き破るのかだ。伸び切った腕が、自分達を包み込もうと動きの質を変えた瞬間、右翼の軍の関節となる部分を抜く。腕の例えで言えば、肘だ。


 敵の歩兵の中に、馬上の人間がいるのが見える距離になった。将校だ。自分と同じ、指揮をする立場の人間。


「迂回していた敵軍も、槍を構え始めました」


 フルーレの声。正面を見た。距離は三五〇。右手側、動きはない。まだか。いや、見逃したのか。正面、敵の将校と目が合った気がした。気のせいだ。しかし、その横に別の馬上兵が寄ってきたのは間違いなく見えた。


「進路を変える。先駆けに伝えろ。敵前面を逸れ右手側の、動き出した部隊を突き抜ける」


 携帯用の銅鑼が鳴った。旗の合図が掲げられる。音による合図で先駆けの指揮官に別の指示が出されたことを伝え、旗を確認させるのだ。


 訓練は積んでいる部隊だった。動きは速い。先頭の部隊がすぐに進路を変更し、五千の兵がひとつの体のように動きの向きを変えた。こちらを受けるつもりでいた敵の前面はすぐに反応できず、槍を構えたまま、動き出せずにいる。逆に、側面を突くつもりで移動していた右手側の軍は、正面からぶつかり合う心構えができていない。


 敵将校の元に寄ってきた馬上兵。何かしら連絡を伝えた瞬間だったはずだ。命令の変更か、指示か。とにかく、何かしらの変化を起こす直前だったはずだ。


「ぶつかり、突き抜けた後は」

「砦まで駆け、そこに拠る。敵に抑えられていたら森に逃げこむ」

「わかりました。私も前に行きます。先駆けと共に突破し、砦まで駆けます。砦は放棄されている代物で、補修しなければ使えないはず。ゼブドも無視していると期待しましょう」

「頼む、フルーレ」


 フルーレが馬を加速させ、離れていった。


 今は正面となった、右手側だった敵軍は移動を止め構えを取り始めている。しかし、備えは間に合わない。もう、速度の乗ったこちらの先駆け部隊と接触する。先駆け部隊の指揮を執る下級将校は、攻めることについては非凡だった。突破後の細かい命令は旗の合図では伝えられないが、それはフルーレが合流してフォローする。


 喊声が響いた。それが谺するのを打ち消すように、咆哮が連鎖する。

 先駆けがぶつかった。


「止まるな。交戦するな。敵を刺したらそのまま脇を抜けろ」


 始まった。声はしゃがれている。しかし、周囲には聞こえているはずだ。移動速度は落ちていない。前線。敵に捕まらず、突破しているのか。五千の兵。どれだけ失わずに抜けられるか。


 敵兵の壁が近づいてくる。移動速度はやや減速している。しかし、弾き返されてはいない。先駆け部隊は包囲しようとしていた敵兵の壁を突破しているはずだ。クロックドーンの目にも、はっきりと闘争の土煙が見えた。


 敵の壁。その一部が破れ、袋に空いた穴から水が零れるように味方の兵が駆け抜けていく。両側のゼブド兵は駆け抜けるリーパーク兵の勢いを遮れないでいる。

 クロックドーンが指示した通り、味方の兵は遮ろうとする敵兵が来た時だけ槍を突き出すが、それ以外はひたすら走り続けている。突き出した槍も、それが敵に刺さればすぐにその場で放棄している。そうしなければ足が鈍るのだ。


 クロックドーンがいる位置は、部隊の中央よりやや後方という位置だった。そのクロックドーンも間もなく壁を突破する。ほとんど無傷ではないか。

 このまま全軍が敵の包囲を突破し、砦まで進み籠る。当初、敵が開けるようにしていた場所とは別の場所になる。伏兵の危険性もかなり減るはずだ。


 クロックドーンも敵の壁を突破した。まさに駆け抜ける、といったかたちになった。周囲に味方の兵がいるとはいえ、右手に抜いていた剣を振るう必要もなく、両側の敵兵の動きをしっかりと見届ける余裕もあった。


 敵兵の壁はおよそ、五人から一〇人分程の厚さだった。突進してくる五千の兵を受けるには薄すぎる。移動途中の不意打ちになったことが功を奏したのだ。


 リーパーク軍は、先駆けの後に本体が続いた、ひとつの集団である状態を維持したまま直進を続けている。ゼブド軍が突破された軍をまとめて追撃してくる前に、ある程度の距離を確保する必要があった。

 こちらも、全力の移動と突破の戦闘のために、隊形は崩れている。移動しながら組み直しを図るべきだった。兵が散りがちになっている。隊形の緩みは全ての行動に影響するのだ。


 クロックドーンは馬上で腰を浮かせ、周囲を見渡した。

 後方の土煙は、走り続ける自軍が上げるもので、その向こうから追撃の動きは見えない。左側は森と丘陵が続く地形である。右側。なだらかな平原になっていて、かなり先まで見渡せる。


 敵の動きはやはりない。後方を見たときに気付いたが、太陽を背にして走っていた。敵は逆光で自分達の突破を受けたことになる。初夏のこの時間に太陽を背にしているということは、進路は東へ向いているということだ。


 これから左手に逸れて砦に入ると、敵の北側に位置することになる。北は、リーパークとゼブドの国境の方角であり、ゼブド軍にとっては退路の方向となる。敵の退路を塞ぐことの是非についてが、クロックドーンの頭に過った。


 衝撃が来た。


 部隊全体を揺るがすようなものではなかった。部隊の先頭が何かに衝突している。前方から喊声。そして二度目の衝撃が兵を伝播し、クロックドーンへ届いた。


 はっきりと見えた。騎馬隊の突撃。しかも、正面から。

 やはり、敵には騎馬隊がいた。姿を隠していた騎馬隊が、縦列で錐のように突っ込んできている。既に先駆けの部隊は接触し、隊列が断ち割られている。移動している歩兵に騎馬隊の突撃を止める術はない。


 見る間に、軍が左右に割られていくがわかる。敵の切っ先は、真っ直ぐに自分を目指していた。

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