第3話 (ワダイブ)魔術師ギルド屋上

 階段から屋上へ通じる鉄扉を開けると、温い風に煽られた。

 季節は春から夏になろうとしている。この国の農業はこれからが大事な季節だった。しかし、寒冷雲が北から動き出している。

 寒冷雲はこの大陸に存在する全ての国が抱える天災である。仮にこの国の上空で寒冷雲が動きを止めた場合、この国の今年の農業生産は致命的な打撃を受けるだろう。

 魔術師ギルドの喫緊且つ最優先の課題がその対策だった。


「こういうとき、風が強いのはよいな、管理官」


 待たせていた客人が先に口を開いた。


「余人に話が聞かれにくい」


 実際、それ程遠くない位置にいるにも関わらず、声は途切れるように聞こえてくる。それでもその声が発した人間の印象そのままの低音で、落ち着いた威厳を纏っていることは分かる。


 屋上の中心で、太陽を背にして頑健な体躯を持った壮年の男が立っている。ワダイブは軍服か鎧を身に着けた姿しか見たことがなかったが、今日は着慣れた様子の平服である。粗末ではないが上質とも言えない。市井の者が着るようなありきたりの服に見えた。


 茶に近いくすんだ赤の髪を兜を被るのに支障のないよう撫で付け、口元に豊かな髭を蓄えている。四〇の半ばを過ぎてはいるが、髪にも髭にもまだ白いものは見当たらない。双眸は大きく、穏やかに見える。だが、見つめられると何故か背筋が伸びるような気がした。


「お待たせ致しました、ラフェル将軍」

「娘のことで手間をかけさせている。すまぬな」

「とんでもありません」


 目の前にいる男は、ジャクリー・ラフェルである。リーパーク軍随一の将軍であり、いま、娘の誘拐により窮地に立たされているその人だ。


 レイビットには伝えなかったが、フォミ・ラフェルが国境付近で麒麟に拘束されたのは、やはり誘拐であった。正確には国境付近まで誘い出されたフォミが、誘拐犯に連れ去られるところで麒麟が横槍を入れ、そのまま身柄を確保した状態である。


 将軍の娘という立場ある人間が勝手に国境へ向かった理由も、何故麒麟が横槍を入れてきたのかもわかっていない。最初の誘拐を企てた者については十中八九、ゼブドの手の者であろうと推測できる。


 自分達の言葉を遮る風は、管理棟の屋上という高さがもたらすものだった。見下ろした景色の中で、木々の葉はそれほど揺れていない。高所でだけ風が強く流れている。

 

 なぜ、会話を始めて早々に目線を景色に移してしまったのか。ワダイブは考えそうになり、意識を目の前の男に戻すよう努めた。何の話もしていないうちから気圧されてしまっている。


 直属の部下として従っている二人は階段に通じる鉄扉の傍に控えている。誰かが不意に屋上へ上がってこないとも限らないからだ。

 ジャクリーは隠密でここにいる。手引きは部下の一人がした。話が終われば、また部下がギルドの外まで誘導する。誰の目にも触れないように出入りする、幹部だけが知っている道がギルドの中に複数用意されているのだ。


「私の知る中で最も適任と思われる魔術師に、ご令嬢の捜索を任せました。既に動いております」

「麒麟の下におる。それは?」

「伝えてあります。問題は麒麟とどう接触するかです。失礼ながら、将軍の情報が本当に正しいかの確認も取らせていただきます。現地での動きは担当者に任せておりますが」

「その者の名前は?」

「レイビット・レイナードと申します。それと、補佐にアイザック・ロンデル」


 ふむ、と口元だけで呟き、ジャクリーは右手を顎鬚に添えた。名前は、取り敢えず聞いたというところで、頭の中では別のことを思案しているように見えた。


「時間はどれ程かかると見込んでいるか?」

「それは」


 読めるわけがない。交渉相手との接触も、相手の要求もこの先の話なのだ。


「麒麟の影響下にある地域へ行くのに、本日を含めて三日程。そこまでしかお答えできません」

「で、あろうな。答えられない質問だとわかっていて訊いてしまった。平常心ではないのかもしれぬ。忘れてくれ」


 ジャクリーはやや自嘲気味に笑った。娘を誘拐されている。冷静でいられないのは当然であるが、そういった様子をワダイブに見せたのは初めてである。もっとも顔を合わせたのはまだ二回目であるが。


 初めて会ったのは、フォミ・ラフェルの消息が不明になり、ゼブドの誘拐が疑われるという情報が軍からギルドにもたらされた当日である。上層部により呼び出され、ワダイブが誘拐事件について直接対応を命じられた日の夜、帰宅途中に声をかけられた。


 管理官というワダイブの肩書は、軍でいえば将軍の下の上級将校と同等である。そんな男を待つために、リーパーク軍随一の将軍が塵芥に溶け込むようにして待っていた。

 そして軍にも伝えていない内密の情報として、自分の娘がゼブドではなく、麒麟という武装組織の拘束下にあることを伝えてきたのだ。


「ご足労頂き恐縮ですが、特段、まだお伝えできることは」

「それもわかっておる。王宮にいても軍にいても、やることがなくてな。娘を人質に捕られているような者に部隊の指揮は任されぬ故」


 現在、ゼブドの国境侵犯に対応して行動しているのは、このジャクリー直属の軍である。しかし調練中の突発的な対応であり、指揮は上級将校が執っている。本来ならば将軍であるジャクリーが兵を連れて進発しているはずだが、ジャクリー軍本体は待機命令のままである。他の将軍に救援の命令が出ているというが、ワダイブから見ても動きは遅い。


「それに、ギルドがどういうところかも一度見てみたかった」

「興味をお持ちですか」

「珍しいか?」

「軍に籍を置かれている方とは、比較的、疎遠になる傾向がありますので」

「軍人と魔術師はどうもな。歴史がそうさせる」


 かつては、魔術師が軍事にも参加していた。数少ない魔術師が、複数人で全体の戦況を動かすことも少なくなかった。そんな特異な力の存在が、やがて戦場から「敵の殲滅」以外の決着を排除することになる。


 魔術師は単独でも、素手でも、相手の軍全体に影響を与えるような攻撃することができるのだ。やりようによっては一人で敵の複数部隊を全滅させることもできる。

 勝敗の帰趨が決した戦場で、投降し、武装解除した兵の中に紛れていた魔術師により、勝利を手にしていた側が致命的な奇襲を受けるという事例が相次いだ。


 その結果として、一度戦端が開かれたら最後、降伏や投降は受け入れないという戦い方が一般化してしまった。戦場で生き残った敵の最後の一人が、全てをひっくり返す力を持つ魔術師かもしれない。その可能性がある限り、戦場にいる敵を全滅させるまで、矛を収めることはできない。

 人的な損耗は著しく、戦による国力の減退に歯止めがかからなくなった。


 やがて、魔術師は戦場から隔離された。全ての魔術師を統括する機関として魔術師ギルドが発足し、魔術師はそこに所属する。能力を活かした研究や要人の警護、諜報に携わる工作員としての任務には従事するが、軍と軍事には関わってはならない。大陸全土の王国により協定が結ばれた。


 古今東西、政治と軍事は密接に繋がっている。権力は、軍事的な力を背景に持たなければ実力を伴えないからだ。魔術師という存在は軍事から外されてしまったがために、王宮や朝廷と呼ばれる権威権力の世界でも力を失った。


 魔術を扱う素養は完全に先天性であり、才能である。本人の望むところは全く関係なく、素養を持って生まれた者は魔術師である。魔術師としての生き方を拒み、市井の人間として暮らすことはできる。しかし、ギルドには登録され、どんなに望んでも決して軍人にはなれない。王宮や政での立身も、望みは薄い。


 魔術師という人種のどこを切り取っても、温い停滞と鬱屈が澱の如く漂っているのは、そのためだった。その鬱屈を隠そうともしない男の代表が、レイビットだ。レイビットは子どもの時分には軍人として生きることを望んでいた。今はもう決して口にしないが、以前は自らの生まれを只管に呪っていた。


「娘の安全が確保されれば私も出陣することになるだろう。あとは、屋敷で吉報を待つことにする。宜しくお願いする」

「全力を尽くします。――お帰りだ」


 部下の一人が鉄扉を開けた。ジャクリーは上着のフードを上げ、口元も隠した。もう一人の部下が先導し、ジャクリーはゆっくりと付いて行った。


「敵に回したくはないな、ペイン」


 屋上に残った、赤毛の部下にワダイブは言った。ワダイブが管理官になった時から補佐に就いている男だ。ジャクリーの誘導を行っているのはゲトナという。藍色の髪が特徴の、部下についてから一年半程の男だ。どちらも寡黙である。


「フォミ・ラフェルを死なせるようなことになれば」

「善処した上での結果について、理不尽を言う御仁には見えなかった。しかし『死なせてしまった』か『死なせた』かの違いは、見抜くだろうな」

「ゼブドの手に渡るくらいならいっそ、と管理官は考えておいでですか」

「レイビットが命令をどう受け取ったかは、わからん。もちろん、全てが上手くいけばいいと思っている。しかし麒麟が相手だからな」

「将軍と、麒麟には繋がりがあるのでしょうか」

「探っておけ」


 ギルドの捜索が入る前から、ジャクリーは娘が麒麟の拘束を受けていることを把握していた。その情報をどうやって得たのかはわからない。麒麟から脅迫があったと考えるのが普通だが、ワダイブが脅迫の有無について質問すると、ジャクリーは明確な返事をしなかった。


 麒麟とジャクリーの間に繋がりがあるとすれば、隠密でワダイブに話を持ち込んだ理由にはなる。軍の頂点に立つ将軍が魔術師の軍閥と繋がっているとなれば、醜聞とは言えないまでも、問題視はされるはずだ。軍と魔術師、軍と王宮からの統治を拒む軍閥、これはお互いに相容れない存在だからだ。


 しかし、単純に良好な関係とも思えなかった。「救出」をギルドに依頼してきたことがその証拠だ。少なくとも、無条件に娘を送り届けてくれるような関係ではないということだ。

 そういう関係は、掴んでおいて損はないだろう。


 今回の件には他にも疑問がある。

 何故、フォミは国境へ行ったのか、だ。

 フォミは将軍の娘らしく、馬の遠乗りを好んでいた。その日も付き人と共に遠乗りに出かけたが、城下町を出て原野に出た後、付き人に戻るよう指示して単独で馬を走らせている。

 そして、そのまま戻ってこなかった。

 付き人への聞き取りでは、「想い人に会いに行く」と言われ、ついて行くのを無粋だと叱責されたという。付き人が聞き出していた想い人の屋敷とされる場所へ急行したが、そこには山裾の田園に農作業用の小屋が点在しているだけだったらしい。


 自らの意志で失踪している。何らかの方法でゼブドに誘い出されたと考えられているが、まだ明確な答えは出ていない。


 ワダイブは溜息を吐きそうになり、部下の手前であることを思い出して空を見上げた。雲が、思いのほか早く流れていく。西から東へ。上空、空高い風は本来、そう流れる。地表を見下ろすと、風はない。

 天候は西から東に流れ変わる。代々農業に従事する者や海上交易に携わる者は経験として知っていても、大半の人間はそんなことを意識もしていない。気象知識は魔術師ギルドが専門的に研究している分野だった。


 そんな上空の風向きとは関係なく、寒冷雲は移動する。今は北から南へ。時には人為的としか考えられない動きを寒冷雲はとる。

 自然現象ではない何かであることは明白であり、ギルドでは寒冷雲は魔術具的な装置、という考えが共通認識である。

 しかし、それもギルドの中の常識であり、一般的には寒冷雲は「そういう自然災害」として認識されている。


 閉鎖的な世界だった。

 寒冷雲の対策にしても、フォミ・ラフェル誘拐事件にしても、ギルドの中でだけで進む話である。陽の目は浴びない。ギルドの中で昇り詰めても、それは変わらない。

 

 ギルドはそれだけでひとつの国であり、世界であり、人の世の背面に寄り添う立体の影だった。

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