episode.9

「早速、頑張っているようだね」


ベットルームでマリサの淹れてくれた就寝前のお茶を頂いていると、ノワール様が続き扉から現れた。


「ノワール様、お帰りなさいませ」


私が立ち上がる前に、ノワール様が素早く私の肩に手を置き、椅子に座った。


「思っていたより時間がかかってしまって、何日も邸を空けてごめん。

母と仲良くしてくれているみたいだね。

母も妹が家を出てしまって寂しい思いをしているんだ。

テレーゼと話が出来て、すごく楽しそうだったよ」


五日ぶりのノワール様は、何だかお疲れのご様子だった。

私はノワール様にお茶を淹れようとして、やんわり手で制され、ノワール様は自分でお茶を淹れてしまった。


久しぶりに見たノワール様は、何だか一層美しく見える。

湯を浴びてきたようで、髪がまだ濡れていた。

それが尚更ノワール様の妖艶さを際立たせていて、私は胸をドギマギさせてしまった。



「ノワール様、失礼します」


私は遠慮がちにノワール様の髪に少しだけ触れ、風の生活魔法でノワール様の髪を瞬時に乾かす。


ノワール様は驚いたように目を見開き、乾いた自分の髪に触れた。


「テレーゼは生活魔法が使えるんだね」


感心したようなノワール様に、私は照れたように頬を染めた。


「家族と邸の為に、生活魔法を使っていましたから……」


そう言うと、ノワール様はその美しい顔を険しく曇らせた。


「あの忌まわし魔道具で魔力を抑え込まれている状態の君に、そんな事を強いていたのか……」


確かに、あの頃は生活魔法でさえ、使うだけで身体が軋むような痛みを感じていた。

だけど家族はそれくらいしか使い道がないのだからと、毎日私に生活魔法を使わせていた。


お継母様とお姉様は魔法が使えないから尚更、小さな事にでも生活魔法を求めてきた。


2人の髪を艶やかに乾かし、ベッドを温める。

深夜遅く帰ってくる2人の為にその力を使うだけで体力が削られるようだった。


でも、今は違う。

魔力が正常に体内を循環している事が自分でも分かるほどだ。

生活魔法程度ではもう身体は痛まない。


こんなに簡単な事が、あの頃は使った後立ち上がれなくなるほど辛かった。


這うように部屋を辞する私を、お姉様は芋虫みたいに無様ね、とよく笑ってらっしゃったわね……。



いけない。

私は頭をフルフルと振って、その記憶を振り払った。


今なら分かるわ。

私のあの処遇は不当なものだった。


例え私が後継ぎで無かったとしても、あんな使い方をされる謂れはない。

本物の召使いであれ、あんな扱いはするべきでは無いほどの事だったのよ。


健康な身体を取り戻した私は、やっと正常な思考を取り戻していた。


私の家族は、おかしいわ。

あんなの、高貴な貴族のする事ではない。

人を物のように扱うなんて。

決して、やってはいけない事よ。


ソニア様のお陰で教育を受け直し始めた私は、常識を取り戻しつつある。


そして、正しい貴族のあり方も。

当主になるなら、それ以上の知識が必要になる。

私は急いで全てを学ばなければいけなかった。


自分でも知らないうちに険しい表情になっていたのだろう、ノワール様が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。


「ごめんね、テレーゼ。

嫌な事を思い出させちゃったね」


悲しそうに眉を下げるノワール様に、私は慌てて手を振った。


「いえ、違います。

私は、学ぶ事が多いなと考えていただけで」


私の言葉にノワール様はふっと笑った。

そして私の髪を耳にかけながら、優しく微笑む。


「焦らないで、テレーゼ。

君は昔、神童と呼ばれるほど優秀だったんだ。

今からでも何も遅くはないよ。

君ならあっという間に全てを学んでしまうさ」


ノワール様の言葉に、私は目を見開いた。


「私が………ですか?

ノワール様は昔の私を知ってらっしゃるんですね」


自分でもそんな事、覚えていないのに……。


「そうだね、君のお母上が亡くなるまでは、よく両家や王宮の王妃様の宮でお茶会をしていたから。

僕達はいつもそこで一緒によく遊んでいたんだけど……。

テレーゼは覚えていないよね。

それも君のその後の境遇を考えれば仕方のない事だけど」


そう言われて私はノワール様の顔をじっと見つめた。


その鮮やかなボトルグリーンの瞳を………。


最初から、ノワール様にはどこか懐かしさを感じていたような気がする……。

それは、私達が幼い頃よく会っていたからだろうか……。


吸い込まれそうなほどに美しいその瞳を見つめていて、私はハッと口元を両手で覆った。



……えっ!ノワール様……ノアに似ている。


その考えに震えながら、改めてノワール様をまじまじと見つめる。


……に、似ているわ、ノアに……。

そのボトルグリーンの瞳も真紅の薔薇のような髪も……美しい顔も……。


そう気付いた瞬間、私はカッと顔を赤くした。


……嫌だ、私……まさか……。



「……あの、私、ご一緒にいる時……その、ノワール様に変な事を言っていませんでしたか?」


恐る恐るそう聞くと、ノワール様はこめかみを指の爪で掻きながら、気まずそうに目線を逸らした。


「……あ〜……と、そうだね。

変な事って訳ではないけど……。

その、僕と妹の事を……妖精の姉妹に見立てて、よく遊んでいたかな……」


私はその瞬間、ブワッと全ての記憶が蘇り、恥ずかしさに穴に入ってしまいたいくらいのショックを受けた。



そうだわ!ノアとテティは、ノワール様と妹君のキティ様の事だったのよっ!


当時私とノワール様は6歳、キティ様は4歳だったわ。


うちの邸で初めて紹介されて、私が2人を庭園に誘ったの。


あまりに可愛らしく美しいご姉妹だったから、私、同じ人間とは思えなくて、2人は妖精なんだって心から信じ込んでしまって……。


だってあんなに可愛い2人の存在に、頭がパニックになっちゃったの。


私は当時6歳だというのに滑舌が悪くて、キティってうまく言えなくて、どうしてもテティになっちゃって、キティ様がプンプン怒ってた。


その姿もとても可愛らしくて私は大好きだったんだけど、やっぱり名前をちゃんと呼べないのは申し訳なくて落ち込んでいたら、ノワール様が僕もノアって呼べばいいよって。


それから、ノアとテティは私達だけの秘密の呼び方になったんだったわ……。


2人は妖精の姿になると、ノアとテティになるの。

そして花の咲き誇る庭園の中では妖精の姿に戻る……。


そうして私達3人はいつも妖精ごっこをして遊んでいた。



そうよ……どうして私、忘れていたのかしら。

あんなに大事な思い出だったのに。


ノワール様とキティ様の存在を忘れて、私は3人での思い出を全て、ノアとテティとの思い出に書き換えていた……。


でも……何故……。



お母様が亡くなって、邸の様子がどんどんと変わってゆき、不安だった事を覚えている。

3人でよく遊んだ庭園も荒れ果て、すっかり姿を変えて……。


変わっていったのは、邸や庭園だけではなかった。

私もみるみる痩せ細り、元の姿の見る影もなくなって……。


そうよ、幼心に、もうノワール様とキティ様とは会えないんだと察していた。


2人には会えないけれど、ノアとテティならいつでも空想の中で会える。


いつしかそれが私の心の拠り所になって、現実から目を逸らしてしまったのね。


あんなに仲良くして頂いたのに、私はなんて薄情なのかしら。

ノワール様は今でも覚えていて下さっていたというのに……。



「あの、ノワール様、私思い出しました。

今まで忘れてしまっていて、ごめんなさいっ!」


恥ずかしさに消え入りたい思いで頭を下げると、すぐにノワール様に頬を両手で包まれ上向かされる。


「思い出してくれたんだね……。

それだけで僕は十分だから、気にしないで。

それよりテレーゼは、自分の健康を取り戻す事を優先して、ね」


ふわりと微笑むノワール様に、私はじんわりと手のひらに汗を掻く。


そう、思い出したのだ……。

あの頃、私は……。


「ノ、ノワール様、あの、健康を取り戻す、とは……以前のような、ですか?」


まさかと思い聞いてみると、ノワール様はうっすらと頬を染め、昔を懐かしむように瞳を潤ませた。


「そうだね、そうなったら僕も安心かな」


その答えに、私はいよいよ背中に冷たい汗が流れた。


以前の、ノワール様とキティ様と仲良くしていた頃の私は、少し……いや、大分ふくよかな子供だった。


お母様やメイド達に甘やかされ、よく食べよく寝て、運動が苦手で、邸で勉強したり空想したり……。

大変に太っていた。


ノワール様にとっては、あの頃の私が通常の私なのだわ。

今はかなり健康を取り戻して、少し痩せ型くらいにまで回復したのに、それでもまだ心配ばかりなさっているのは、あの頃の姿とは違うからなのね。


でも、私は別にあそこまで戻りたいとは思っていないのだけれど……。

出来れば健康的な身体を取り戻すだけにしておきたい、というか……。


私はおどおどと、ノワール様の顔を見た。


「あ、あの、ノワール様はあの頃のような私をお望みでしょうか?」


そう聞くと、ノワール様はカッと顔を赤くして、手の甲で自分の口元を隠した。


「……僕はテレーゼが1番ベストな状態であれば、何でも……見た目は気にならないけど……その、君は僕の初恋だから……」


そのノワール様の言葉に、波のような衝撃が私を襲った。



……えっ?

私がノワール様の、初恋?

あの、太ましかった頃の私が?


では、ノワール様はふくよかな女性がお好きなの?


いえ、それよりも、ノワール様は幼い頃から、女性がお好き………?


では、ノワール様の恋愛対象は、最初から女性で、私には本当に女性同士の友愛を求めていらっしゃるのかしら……。



もし、そうなら……。

私は………嬉しい。


私はもう、とっくにノワール様をお慕いしているんだもの……。


私、ノワール様の事が……好き。

性別なんて気にならないくらいに。


出来るなら、このままお側にお仕えしたい。

侍女でもメイドでもいいから。

そして、いずれ女侯爵となられるノワール様を微力ながらお支えしたい……。


でも、それは叶わない事と分かっている。

私には私のやるべき事がある。


お母様が守ったエクルース家をあのままにはしておけない。

正統なる後継ぎである私が、あの邸をお父様達から守らなければ。


方法はまだ分からないけれど、今のまま放っておけば、いずれエクルース家は廃れて潰えてしまう。

あの庭園のように。


そうなる前に、私が女伯爵として立つ。

そして邸をあるべき姿に戻さなければ。


でも、そうするならば、私は近いうちに婿を取り、結婚をして子をもうけなければならない。

後継ぎを残す事は、当主の大事な務めだから。


ノワール様だって、同じ事。

婿を取り、後継ぎを残す。


私達はお互い、同じ務めに邁進しなければいけない立場で、友愛を育てている時間など、本来なら無いはず。



……でも、後継ぎを作った後は?


悪魔のような考えが、私の頭に浮かび、自分の卑しさに身体が震えた。


いえ、そんな事……。

だけど……。


……女性同士の友愛は、不貞になるのかしら……。



駄目よっ!テレーゼッ!いけないわ。

そんなの、お婿様に失礼よ。

子供にも可哀想だわ。


いけない、いけないわ……そんな考え。

自分の気持ちなど、家の為を思えば、捨てるべきよ。

ノワール様にだってご迷惑がかかるもの。



……駄目よ、これ以上は。

望んでは、駄目……。



自分の醜さが恐ろしく、両手を握り合わせてカタカタと震える私を、ノワール様が苦しそうに見つめていた。


「……ごめんね、テレーゼ。

急にこんな事を言って困らせて。

初恋を引き摺って、こうやって君を自分の邸に囲って、隠して……。

僕が恐ろしいかい?」


そんなっ!

ノワール様の言葉に私は顔を上げて、フルフルと頭を振った。


「そんな事はありません、こうして保護して頂けて、過分なご配慮を頂いている身でそんな事っ!

そ、それに、私……嬉しいです。

ノワール様が私を初恋だと言って下さって……」


気恥ずかしさに顔を伏せると、また優しく上向かされる。


「本当に?僕が恐ろしくないの?

じゃあ、テレーゼは僕の事、その……少しは好ましいと思ってくれてる、かな?」


その瞳の奥に、拒絶される事への恐怖が揺らめいて、弱々しいノワール様の声色に私はハッとした。


ノワール様は、女性が恋愛対象である自分が私にどう思われるか怯えてらっしゃるのだわ。


人とは違う自分を私に曝け出すのは、どれだけ勇気のいる事だっただろう。

私はそんな事にも気付いて差し上げられなかった。


何て小さな人間なのかしら。

ノワール様は勇気を出して告げて下さったというのに。


私も勇気を出して、ノワール様の瞳をジッと見つめる。


「少し、などではありません。

私、ノワール様の事を……お慕い申し上げております」


道なき道かもしれない。

女性同士など不毛と笑われてもいい。

私は、ノワール様の事が………。



「テレーゼッ!」


次の瞬間、ノワール様にキツく抱きしめられ、息も出来ないほどだった。


だけど不思議とそれが心地よくて、私はうっとりと目を閉じた。


ややして、身体を起こしたノワール様はジッと私の顔を見つめた。


「テレーゼ……」


少し掠れたその声に、胸が震える。

愛しさで胸がいっぱいになって、溢れてしまいそうだった。


「ノワール……様……」


ノワール様の顔がゆっくりと近付いて、懇願するように言った。


「どうか、テレーゼ、僕の事はノワール、と」


恐れ多い申し出に、何て言えばいいのか分からない。

だけど、女性同士の親友なら、家格を気にせず呼び捨てを許す事は珍しい事ではない。


ノワール様が私にそれを望むなら……。


「……ノワール…」


恐る恐るそう口にすると、ノワールの唇で私の唇を塞がれてしまった。


クチュリと音を立ててノワールの舌が口内に侵入してくる。


その甘くて深い口づけに、すぐに私の身体が疼き出した。


5日ぶりのその舌の暖かさに、頭の芯がボゥっと痺れていくようだった。


「んっ、ふぁ……んっ、ん」


口づけの合間に甘い声が漏れると、ノワールが私を抱く腕に力を込めた。



その力強さに全てを委ねて、私はゆっくりと瞳を閉じる………。

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