episode.4
ノワール様は私の魔力を吸い取っている魔道具である、お父様から頂いた指輪の破棄の為、私にこう言った。
「君に口づける、許可がほしい」
っと………。
口づけ……とは、唇と唇を合わせる事、よね?
私はぼうっとノワール様の美しい唇を眺めた。
あの瑞々しく形の良い唇に、私の唇を……?
そっと自分の唇に触れると、荒れてカサついていた。
そんな罪深い事、神がお許しになるのかしら?
でも、ノワール様からの申し出を断るなんて……。
ノワール様は私の為にその身を犠牲にして下さるおつもりなのね。
それを無碍にするなんて、出来ない……。
私は恐る恐るノワール様を見上げ、小さく頷いた。
ノワール様は頬を染めて、ゆっくりと私に顔を近付ける。
どうすれば良いのか分からず、ギュッと目を瞑っていると、唇に柔らかくて温かい感触が……。
ノワール様の唇と自分の唇が触れ合っているのだと思うと、顔に熱が集まってきてどうしたら良いのかますます分からなかった。
ゆっくり唇が離れていき、私は恐る恐る目を開くと、ノワール様も顔を赤くしていた。
その恥じらう乙女の仕草がとても可憐で、改めてこんなに美しい方と口づけを交わした事実に、顔の熱が治らなくなってしまった。
「あ、あの、今ので私の魔力が正常に戻った、んですよね……?」
一応聞いてみるが、体の倦怠感は相変わらずで、正常になったとは思えなかった。
首を傾げる私に、ノワール様は髪を耳に掬いながら俯く。
私同様、耳まで赤くなっていた。
「あっ、いえ、今のは、その……。
魔力を中和するには、もっと、深く……しなくちゃいけないから、その……。
その前に、清い口づけをしておきたかった、というか……」
しどろもどろに応えるノワール様が何だか可愛らしくて、私はついふふっと笑ってしまった。
「テレーゼ……」
ノワール様のうっとりとした声色に、ハッと我に返り、慌てて頭を下げる。
「お、お見苦しいものをお見せしてしまって、申し訳ありませんっ」
冷や汗を浮かべる私に、ノワール様が不思議そうに聞いてきた。
「見苦しい?何がですか?」
そう改めて聞かれると辛い事だが、これは真実なのだから、仕方ない。
「あの、私の笑い顔は醜くて見苦しい為、邸では笑う事を禁じられていました……だから……」
言い終わらない内に、私はノワール様の胸の中に抱きしめられていた。
「ああ、テレーゼッ!なんて事だ!
君の笑顔はこんなに可愛らしいのにっ!
醜くくも、見苦しくもない、君の笑顔は素敵だよ。
どうかこれからは、その笑顔を僕に遠慮なく見せてほしい」
そう言われて、私は信じられない気持ちで目を見開いた。
その私の顔を、ノワール様が懇願するようにじっと見つめる。
「は、はい、ノワール様がそう仰って下さるなら……」
上手に笑えるか分からないけど、努力してみよう。
ノワール様の為に………。
「テレーゼ、やっぱりこの忌まわしい指輪を今すぐ破棄しよう。
最初は少し辛いと思うけど僕を信じて。
僕に身を委ねてほしい」
真剣なノワール様の眼差しに、私は深く頷く。
ノワール様を信じて、全てを預ける。
何故かは分からないけど、そう出来る自信が湧き上がってくるのを感じる。
「じゃあ、指輪を破壊するよ」
ノワール様は私の左手を持ち上げると指輪に触れて、意識を集中し始めた。
私は息を呑んでその様子を見守る。
ややして、指輪にヒビが何本も入り、直ぐに真っ二つに割れて私の指から外れた。
瞬間。
身の内から燃えるような痛みが体中を這い回る。
「あっ、かはっ」
喉が一瞬で干上がり、息も出来ない程に苦しい。
「テレーゼ、すぐに助けるからね」
ノワール様が私に被さるように身を屈め、奪われるように唇が合わさった。
ノワール様の舌が私の中に侵入してくる。
水分を求め突き出していた舌を絡め取られ、クチュッと音が鳴った。
口内をノワール様の舌で隅々まで舐め尽くされていると、内から焦がされるような熱さが引いていき、痛みも消えてゆく。
脱力感に襲われ、ノワール様に体を預けると、ガッシリとした腕と胸に包まれ、今まで経験した事ない程の安心感を感じた。
「あっ、ふぁっ、んんっ」
熱を帯びたノワール様の舌に歯列をなぞられ、思わず甘い声が漏れる。
ノワール様はピクリと体を揺らして、ますます口づけを深くしていった。
やがて、体内に温かい何かが注ぎ込まれる感覚を感じて、私はビクッと震えた。
それは私の身体を内から少しずつ暖めてゆく。
血管一本一本まで、まるで息を吹き返していくようで、感じた事のない心地よさにうっとりと蕩けてしまいそうになる。
体に力が戻っていくようだった。
ぼんやりしていた体の感覚が、徐々に機能を取り戻していく。
体が正常になってくると、ノワール様の口づけが一層強い刺激となって脳を甘く揺らした。
「はっ、んんっ、あっ」
口づけの合間に甘い声を漏らし、チュックチュッという水音とお互いの荒い息が混ざり合い、気がつくとノワール様から与えられる快楽に夢中になっている自分がいた。
舌と舌を絡ませあい、夢中で口づけを貪る。
ノワール様の背中に回した手でギュッとシャツを握り、密着した体が熱く溶けてしまいそうだった。
やがてゆっくりと唇が離れても、お互いの唇を銀糸が繋げていた。
蕩けた表情でノワール様を縋るように見つめると、ノワール様も甘く揺らめく瞳でこちらをじっと見つめている。
「………テレーゼ……」
そう呟いて、またそっと顔を傾けると、私の唇を喰むようにチュッと口づける。
それからノワール様は、瞳の奥の熱をねじ伏せるように何度か瞬きをして、優しく微笑んだ。
「……ごめん、君の唇があまりに甘くて……夢中になってしまった……無理をさせたね。
体はどう?辛く無いかな?」
惚けていた私は我に返り、掴んでいたノワール様のシャツを慌てて離した。
「は、はい。嘘みたいに体が軽いです」
本当に、今まで常時抱えていた倦怠感が嘘みたいに消えてしまった。
体にやっと血が巡った気さえする。
「良かった。上手くいったみたいだ」
ノワール様は私の頬を摩り、親指でそっと唇に触れた。
「……あの、テレーゼ、その……。
この魔力の循環について……そうだな、治療って呼ぼうか。
その治療の事なんだけど……。
実はもう少し、続けさせてほしいんだ。
ちゃんと君の魔力を安定させたいから。
これから毎晩寝る前に、さっきみたいに治療しても、いいかな……?」
伏し目がちに告げられたノワール様の提案に、私は遠慮がちに頷く。
「はい、ノワール様にお手間をかけさせてしまい、心苦しいですが……。
そうして頂けると、私は助かります」
本当にさっきのような事を毎晩お願いするなんて厚かましい事だとは思うけれど、私には魔力の事は分からない。
ここは全てノワール様にお任せするしかないと思った。
ノワール様は私の答えに何故か困ったように眉を下げ、自分の口元を手で覆い、横を向いてしまった。
そのノワール様の態度に、私はビクッと震える。
やはり、厚かまし過ぎただろうか?
いくら治療の為とはいえ、女性同士であんな事をするのはノワール様だって気分が良くない筈………。
先程の私は、治療だというのにノワール様との口づけに夢中になってしまって……正直もっとして欲しくて……。
そんな気持ちが全て顔に出ていたと思う……。
きっと、同性同士でそのような欲望を向けられて、ノワール様は……気持ち悪く感じたのでは無いだろうか……。
自分が恥ずかしくて、情けなくて、目尻に涙が浮かんだ。
それに気付いたノワール様が慌てて私の頬を両手で包み、伺うように顔を覗き込んでくる。
「ああ、テレーゼ、治療の為といえ、嫌だったら断ってくれてもいいんだよ。
無理はしないで、君が嫌がる事はしたくないんだ」
その綺麗な顔を間近で見つめ、私はとうとう涙をポロポロと流してしまう。
こんなに美しい人を困らせて、こんな事を言わせてしまうなんて……。
「嫌だなんて……私は、思っていません。
ただ、ノワール様に申し訳なくて……」
そう言って頭を下げる私の顎を掴んで上向かせると、ノワール様は涙を指で拭ってくれながら、じっと目を見つめて、真剣な表情をする。
「僕に申し訳ないだなんて、思わないで。
君は君の事を優先すればいいんだ、良いね?
……でも、嫌ではないなら、治療は続けさせてもらうよ?」
ノワール様の言葉に、私は厚かましくも頷いた。
次は、今日のように1人だけ夢中になるような事の無いようにしよう。
せめて、ノワール様に気持ち悪がられないように……。
「さぁ、今日は色々あって大変だったね。
今度こそ、もう休んで。
君が眠るまで僕が側にいるから、ね?」
そう言ってノワール様は私をベッドに横たえると、掛布をかけてくれた。
掛布の上からポンポンと優しく撫でられていると、急に眠気が襲ってきて、私は目を開けていられず、ゆっくりと閉じた。
眠りに吸い込まれながら、ノワール様の切なげな呟きを聞いた気がする。
……卑怯で、ごめんね……テレーゼ………と……えたのに……こんな……僕でごめん………。
でも………も……………がさない……一生……。
夢うつつに聞いたそれは、現実の事だったのか、夢だったのか……。
どちらにしても、何て言っていたのかは分からなかったから、同じ事かもしれない……。
翌朝、目覚めた時にはノワール様の姿は既に無かった。
こんなにゆっくり眠れたのは、いつ以来だろう。
もう、思い出せないくらい、昔の事だと思う。
顔を洗う為にベッドから起き上がる。
少し足がふらつくけれど、体調は今までにないくらいに良い。
こんなに体が軽いだなんて、夢のようだ。
ノワール様に治療を続けて頂ければ、いつかこれが普通の事になるのだろうか?
そうだとしたら、何てありがたい事だろう。
やはり神聖な治療を穢す行いは良くないわ。
次は欲望に流されないように、しっかり自分を律せねば。
寝室から浴室のある部屋に入り、洗面台で顔を洗う。
自由に水を使って良いのか躊躇われたけれど、この部屋を使わせて頂いている以上、身を綺麗にしておくべきだと思った。
洗面台に備え付けられた大きな鏡を見て、私はやっと、ノワール様や他の皆が私を痛ましい目で見つめていた意味を知った。
鏡に映った私は、痩せこけて、骨と皮だけの、まるで骸骨のようだった……。
お父様やお継母様やお姉さまが、私を醜いと仰っていたのも、無理がない。
自分では、まさかここまで醜い姿だとは気付けていなかった……。
邸でお継母様やお姉様の支度の手伝いの為、毎日鏡のある部屋に出入りはしていたけれど、何か無作法があれば激しく責められるので、いつも気を張っていて、自分の姿を鏡でちゃんと見た事など無かったから。
……ここまで酷かったなんて……。
途端に、昨日のあの行為について、堪えきれないほどの罪悪感に襲われた。
女性同士だからというだけではないわ、あの美しい人に、こんなに醜い者に口づけさせていただなんて……。
なんて罪深い!
顔から火が出そうな程に恥入り、私は何度も何度もその醜い顔を水で洗う。
それでどうとなる訳でもないというのに……。
「テレーゼッ!」
寝室からノワール様の悲鳴のような声が聞こえて、私は慌てて浴室を出た。
「はい、ここに!ただ今!」
自分の邸と同じように返事をして、寝室に飛び込むと、ノワール様が真っ青な顔でこちらに駆け寄り、私を抱き上げた。
「ああ、テレーゼッ!ベッドにいないからどこかに行ってしまったのかと、胸が潰れそうだったよ。
お願いだからそんな体で無理をしないで。
浴室で何をしていたの?」
心配そうに私の顔を覗き込むノワール様に、胸が潰れそうなのはこちらの方だった。
「あの、顔を洗っていました。
勝手に水を使って、ごめんなさい……」
申し訳無くて顔を伏せると、ノワール様が驚いたように目を見開いている。
「この寒いのに、水で顔をだなんて……。
テレーゼ、次からはお湯を使って、お願いだから。
それから、まだその体でベッドから起き上がっては駄目だ。
朝は湯をベッドまで運んで、僕かメイドが君の世話をするから。
ね、それも覚えておいて」
懇願するように眉根を寄せ、そう言うノワール様に、私は手を震わせた。
「そ、そんな!恐れ多いっ!」
ノワール様はそんな私の様子にクスクスと笑いながら、私をベッドに戻した。
「君のお世話をさせて頂けるなんて、こちらこそ恐れ多いよ。
僕の可愛いお姫様」
そう言って私の手を取り、指先に口づける。
そのまるで王子様のような所作に、私はクラクラと目眩がした。
こんな骸骨のような娘にそんな事言って下さるなんて、なんて心の清い方なのかしら。
同じ女性として憧れずにはいられない心根の美しさに、私はやはりこの方を穢す行為はやめにしてもらおう、と決意した。
私はベッドに腰掛けるノワール様をじっと見つめた。
「あの……今夜からの治療の事なんですが……」
おずおずと口を開く私の髪を掬って耳にかけてくれながら、ノワール様はんっ?と優しく微笑んだ。
「やはり、誰か他の方に代わって頂けたら、と思いまして……」
途端に、暖房魔法のよく効いた部屋が、震えるほどに冷たくなる。
「……僕以外の誰かと、口づけたい、と言うの?」
ノワール様の顔から表情が消え、底冷えするような冷たい目で見つめられ、私は反射的に身を縮こませた。
「あっ、いえ、口づけでなくても、そこはその方にお任せ致します。
ただ、やっぱりノワール様のお手を煩わせたくないので……」
恐る恐る見上げると、ノワール様はその顔を険しくさせて、どう見ても怒っていらっしゃるようだった。
「へぇ………ねぇ、テレーゼ。
君の魔力は人より膨大なんだ、僕だから口づけだけで何とか抑える事が出来た。
僕でない他の者なら、手っ取り早く君と交わろうとするかも知れないよ……?
君は、それでもいいの?」
ノワール様の瞳の奥がギラリと鋭く光って、私はついにガタガタと震え出してしまった……。
「はい、あの、まじわる?が必要なら、お、お任せしたいと……」
震えながら答えると、ゴウッと音がして、何事かとノワール様を見上げると、その背に吹雪のような物が見えるっ!
こ、これが、ノワール様の力?
凄く強い力に見えるけれど、暴走しているみたい……。
な、何故かしら?
「ねぇ、じゃあテレーゼは、僕が君と交わりたいと言えば、許してくれるの?」
ノワール様の瞳の奥が妖しく揺らめく。
私は何故かその光に危機感を感じながら、コクッと頷いた。
「あっ、はい。どうぞ、まじわる?して下さい」
震える両手をノワール様に向けて広げる。
ノワール様は拍子抜けしたような顔をして、ガクッと肩を落とした。
「ごめん……君の置かれていた状況も、君にそんな知識が無いのも分かっているつもりだったのに……。
情けないね、ついカッとなってしまって……」
ノワール様の背後から吹雪が消え、部屋も元の温度に戻り、私はホッと息をついた。
「でも、なんでそんな事を言い出したの?
やっぱり僕との口づけが嫌だった?」
哀しそうに睫毛を震わせるノワール様に、私はブンブンと頭を振る。
「違いますっ!嫌だなんて、そんな……。
私は、ただ……こんな醜い私にノワール様が治療の為とはいえ、口づけるだなんて……。
お痛ましくて……耐えられそうにないんです」
素直にそう口にすると、ノワール様は驚愕して息を飲んでいる。
「テレーゼ、君は醜くなどない。
何故そんな風に思うの?
お願いだから、そんな風には思わないで。
君は、美しいよ、心からそう思っている。
僕の言う事が、信じられない?」
ノワール様は壊れ物を扱うように、そっと私の頬に触れ、目尻を撫でる。
何て心根の美しい方……。
この方がここまで言って下さっているのだもの。
いつまでも自虐的でいてはいけないわ。
真剣なノワール様の眼差しを受け止めて、私はゆっくりと頷き、同じようにその瞳を見つめ返した。
「分かりました。ノワール様を信じています。
もう自分の事を醜いなどとは言いません」
私がそう答えると、ノワール様は目の下をほのかに赤く染めて、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、テレーゼ」
お礼を言うのはこちらの方なのに……。
何故か礼を言われてモジモジしていると、ノワール様が私の髪を一筋掬い、そこに口づけながらこちらを見上げてくる。
「テレーゼ、それじゃあ、僕がしたいと言えば、昨日のような口づけを許してくれるの?」
色っぽいその仕草に、シーツをギュッと握りながら頷いた。
「は、はい。もちろんです」
私がそう答えると、ノワール様の瞳が甘く揺らめいた。
ノワール様はまるで獲物を狙うかのように、ゆっくりと私に近付き、耳元で囁く。
「……じゃあ、いつか僕が君と交わりたい、と言えば?どうする?」
低い甘い囁きに、胸が痛いほど高鳴って、背徳感に目の前が霞んで見えた。
「は、はい、まじわり、ます」
私がほとんど無意識にそう答えると、ノワール様はクスクス笑い出して体を離すと、大輪の花が咲き綻ぶように美しく微笑んだ。
「本当に?約束だよ?
いつか君がその意味を理解した時に、やはり無かった事に、なんて、言わないでね?」
そう言って嬉しそうに笑うノワール様に、私はコクコク頷いた。
ノワール様の背後に咲き綻ぶ大輪の黒薔薇が見える……。
……もしかして、これって、悪い笑顔ってやつじゃないかしら……?
ふとそんな風に思った自分を諌めるように、私は頭をブンブン振った。
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