episode.3

オークションから助け出された私は、私を助けてくれた人物の豪華な馬車に揺られ、忌まわしきパーティ会場から抜け出した。


その人は馬車の中でも私を大事そうに膝に抱えてくれている。


来る時は馬車の外で寒さに震えていたというのに、今は見知らぬ人の膝の上で、上等な毛皮に包まれているなんて……。



「さぁ、喉が乾いたでしょう?

果実水です、飲めますか?」


そう言ってその人が差し出してくれたグラスを受け取ると、私は直ぐに飲み干してしまった。

思っていたより喉がカラカラに乾いていたようだ。


「まだありますから、もう一杯いかがですか?」


私が頷くと、馬車に同乗していた侍女らしき女性がすかさずグラスに果実水を注ぐ。


それも一気に飲み干し、私はやっと人心地がついた気持ちで、改めてその人を見つめた。


私の視線に気付くと、その人はふわりと微笑み、仮面を外す。


夜道を走る馬車の中では、やはりその顔はよく見えない。


「失礼致しました。私は、ノワール・ドゥ・ローズ。

ローズ侯爵家の嫡子です」


そう言われて私は目を見開いた。

私の乏しい情報ではハッキリとはしないが、ローズ侯爵家は確か、王家にも重用されている名門の家。

他の侯爵家の中でもトップの家格で、ローズ侯爵は王陛下の側近中の側近だった筈……。


そしてこの方はそのローズ侯爵家の嫡子……。

つまり、次期ローズ侯爵となる方なのだ。


私は慌てて居住まいを正した。


「わ、私こそ失礼致しました。

私はテレーゼ・エクルースです。

エクルース伯爵家の……者です」


何故か娘、とは言えなかった……。

お父様はエクルース家の娘はお姉様1人で十分だと仰った。

なのに、自分がまだお父様の娘だと名乗ってもいいのか……分からなかった。


目を伏せる私に、ノワール様は痛ましげに私を見つめ、ギュッと体を抱きしめてくれた。


「テレーゼ、大変な目に遭ったのです。

どうか邸に着くまでこのままでいさせて下さい。

貴女の気持ちが少しでも落ち着くように……」


その優しい声に、私の瞳から堰を切ったように涙がポロポロと溢れ出た。

ノワール様の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくる私の背中を、ノワール様は優しく撫でてくれる。


向かいの席で侍女の女性がもらい泣きしている声が聞こえた………。








王都からほど近い郊外に建つローズ侯爵家の邸は、驚くほど大きく立派だった。

夜中だというのに、煌々と魔法の燈が灯されている。


「さぁ、テレーゼ、邸に着きましたよ。

今日から自分の家だと思ってゆっくり寛いで下さい」


魔法の燈に照らされて、やっとハッキリ見る事の出来たノワール様は、真紅の髪に、ボトルグリーンの瞳、白磁のような肌、この世のものとは思えない程美しい、女性だった。


こんなに美しい女性、今までに見たことが無い。

邸から出してもらえず、人とあまり会ったことの無い私だけど、それでも美しさの基準は間違ってはいない筈だ。


私はその美しさに思わず頬を染め、目を逸らしてしまった。


だってあまり見ていたら、その美しさに吸い込まれてしまいそうだったから。


ノワール様は少し寂しそうな顔をして、私を抱き抱えたまま邸に入って行った。


こんな時間なのに使用人達がエントランスに並び、ノワール様に向かって頭を下げる。


「彼女に湯と着替えを、それから消化に良い物を後で運んでくれ」


テキパキとそれだけ指示すると、ノワール様はエントランスを進み、階段を登ると、立派な扉の前で立ち止まり、その扉を開いた。


広い室内は扉からまずソファーセットのある応接室、その隣の部屋は衣裳部屋、更に浴室に続き、ベッドルームに分かれていた。


ノワール様が浴室の前で私を下ろすと、見計らったように数名のメイドが私を支え、入浴を手伝ってくれた。


お湯を使うのなんて何年ぶりだろう。

体が成長しきった頃に、もう子供の体では無いのだから、ちっとやそっとでは風邪も引かないでしょ、とお継母様に邸での入浴を禁じられて以来だ。


その前でさえも、皆が使った残り湯を使わせてもらっていただけで、こんなにたっぷりのお湯に浸かれるなんて、なんて贅沢な事をしているんだろう。


「テレーゼ様はお身体が万全では無いので、長湯は控えましょう。

お体が戻られましたら、その時は腕によりをかけて磨き上げさせて頂きます。

きっと誰よりもお美しくなられますわ」


メイド達はそう言って微笑んでくれたけれど、日頃からノワール様の美しさを見続けていて美に鈍感になってしまっているんじゃ無いかと心配になってしまった。



生活魔法で素早く髪を乾かされた時は、驚いてそのメイドを振り返ってしまった。

生活魔法を使えるメイドや使用人は他とは比べ物にならないくらいお給金が高い。

彼らを雇える事を一種のステータスと考える貴族もいる程だ。


エクルース家もお母様が生きていた頃はそんなメイドや使用人を雇っていたけど……。

お母様が亡くなってから、皆お父様に解雇されてしまった……。



寝着に着替えさせてもらい、ベッドルームまで支えてもらって行くと、そこにノワール様が待っていてくれて、私に気付くとサッと私を抱き抱えた。


「あらあら。氷の騎士様もテレーゼ様には形なしでございますわね」


古参の雰囲気のあるメイドが揶揄うようにそう言うと、ノワール様は恥ずかしそうに頬を染めた。

その可憐な表情に、私はギュッと自分の両手を握り合わせる。


気を抜くと、本当に吸い込まれてしまいそう……。



「揶揄わないでよ」


呟くように小さな声でそう言うノワール様を微笑ましそうに見つめながら、メイド達は食事の用意の為、部屋から出て行った。



「テレーゼ、疲れたでしょ?

さっ、ベッドに降ろすよ?

どう?ベッドの寝心地は?

悪くない?」


心配そうに私を覗き込むノワール様に、私は首を横に振った。

ノワール様はホッとしたようにふわりと笑う。


どこか儚げな溜息の出る程美しい微笑み……。

この世にこんなに美しい女性がいるだなんて……。

ノワール様は女神様なのかも知れない。



ベッドの寝心地はとても素敵だった。

こんなにふわふわなベッド、私には使わせて貰えなかったから。


解雇されたメイドの部屋を与えられていたけど、沢山あった使用人達の部屋から少しづつ家具が消えて行ったのはいつ頃からだろう……。


私の使っていた部屋も例外ではなく、遂にはマットレスまで無くなり、剥き出しになった木の板の上で寝ていたのだけれど、直ぐにベッドも無くなった。

最近はずっと床の上で寝ていたから、こんなふかふかのベッドなんて夢のようだった。



ややして先程のメイドがスープと果物を持って戻ってきた。

やっぱり私達の事を微笑ましそうに見つめてから、部屋を出て行く。


「テレーゼ、無理はしなくて良いけど、少しでも口に入れて欲しい。

どうかな?スープなら飲めそう?」


気遣わしげなノワール様に私は頷くと、スープを受け取る為に手を伸ばした。

だけどノワール様はスープ皿は自分で持ったまま、スプーンでひと匙スープを掬うと私の口の近くに運ぶ。


「はい、あーん」


そう言われてやっと意味を理解した私は、顔を真っ赤にして震えながら口を開いた。

そこに流し込まれたスープの味は優しくて温かかった。


温かい食事がこんなに美味しいものだったなんて!

そんな事、とうに忘れてしまっていた。


ノワール様はゆっくりと私の口にスープを運んでくれる。

時間はかかってしまったけれど、全て飲み干した時には、泣きそうな顔で微笑んでいた。


「テレーゼ、果物はどうかな?

何か口に出来そう?」


正直、スープでお腹いっぱいだったのだが、ノワール様の気遣いが嬉しくて、私は小さな声を絞り出した。


「あ…の、い、苺を少し…だけ」


よく考えたら、人と話す事すら何年ぶりになるか分からない。

家族は一方的に私を責めるか罵倒するかで、会話らしい会話など無かった。

はい、や、只今、くらいしか言葉を発してこなかったので、こんなに自分を気遣ってくれている人にさえまともに話せない。


自分が情けなくて、目尻に涙が浮かんだ。


「分かった、じゃあ一個だけでも、ね」


そう言ってノワール様はやっぱり手ずから苺を食べさせようとしてくれる。


「テレーゼ、あーん」


また真っ赤になりながら私は口を開いた。

苺に齧り付くと、爽やかな甘さが口いっぱいに広がった。


ノワール様はじっと私を見つめている。

その瞳の奥が、一瞬甘く揺れたように見えて、その妖しい色気に私はピクリと体を震わせた。


「どうかした?」


花が風に揺れるようにノワール様が首を傾げる。


私は口に手をあて、齧った苺を飲み込むと、申し訳そうに下を向いた。


「あの……ごめんなさい、お腹がいっぱいで、もう……」


私がそう言うと、ノワール様は微笑み、首を緩く振った。


「気にしないで、無理はしなくていいんだよ。

じゃあ、これは僕が貰うね」


そう言うとノワール様は私の食べかけの苺をポンッと自分の口に放り込んでしまった。


「んっ、甘いね」


ふふっと笑うその表情の方がずっとずっと甘くて、私はクラクラと目眩を覚えた。



「じゃあ、今日はもうゆっくり休んで。

明日から頑張って食べられる物を増やしていこうね」


微笑むノワール様に、私は申し訳ないけれど、言わなければいけない事があった。


……ノワール様はオークションの途中から参加されたから、知らないんだわ……。



「あの……私は、明日には自分……の、邸に帰らなければ……」


自分の邸、とすんなり言えなかった。

あの場所は本当に私が帰っても良い場所なのだろうか………。


ノワール様はその瞳を険しくさせて、少しキツい口調になる。


「……それは、何故?」


その声色に私は少しすくみ上がり、声が上ずってしまう。


「あっ、あのっ、わ、私が出品されたのは、一晩私を自由に出来るという権利だけで……明日の朝には、邸に戻らないと……」



……そしてまた、あのオークションに私は出品されるのだろう。

商品として。

それは、私を後妻か妾に望む裕福な男性が現れるまで、何度も行われるのだ……。


掛布のシーツをギュッと握る私の手を、ノワール様が優しく撫でて包んでくれた。


「本当に、辛い目に遭ったね、テレーゼ……。

だけど心配しないで、もう大丈夫だから。

君はこの邸にずっといれば良いんだよ。

全て僕に任せて、ね?」


ノワール様の言葉に、私はえっ?と驚いて顔を上げる。


「もう、アイツらのいる邸には帰らなくて良い。

ここに居ていいんだ、ずっと……」


見上げたノワール様の優しい微笑みに、私の頬に涙が伝う。


「ずっと………?」


「そう、ずっとだよ」


ますます涙の止まらない私を、ノワール様はその胸にそっと抱きしめてくれた。


そのまま、私の涙が止まるまで優しく髪や背中を撫でてくれる。

この世の中に、こんなに優しくて美しい方がいるなんて……。

私は胸の内で、そっと神に感謝の祈りを捧げた。



「ねぇ、テレーゼ?これは、いつから付けているの……」


ノワール様が、私の左手の親指にはまっている指輪をじっと見つめて聞いてきたので、私はそっとその指輪を撫でながら、少しはにかんだ。


「これは……お母様が亡くなったあと、お父様が遺品だから肌身離さず付けておけと仰って……私に下さった物です」


お母様の遺品はこれだけ。

あのお父様が私に下さった唯一の物でもある。


「遺品が……これだけ?

………テレーゼ、残念だけど、これは君のお母上の遺品では無いよ」


ノワール様の言葉に、私は目を見開いた。


そんな……そんな筈は……。

お父様は、はっきりとこれはお母様の遺品だって……。


困惑する私をノワール様は哀しそうに眉を下げて、じっと見つめる。


「いい?テレーゼ、よく聞いて?

これは魔道具だよ。しかも違法なものだ。

これには魔封じの力が込められている。

はめた人間の魔力を封じるんだ。

だけど昔から、正しく魔力を封じる物は完成した事が無い。

これもそう。これは魔力を指輪に吸い取っているだけで、指輪の容量が超えるとはめた人間に今まで蓄積された魔力が一気に注がれる。

そしてまた同じ事を繰り返す。

今まで、急に胸が苦しくなったり、体が痛み出した事は?」


私は真っ青になって、呆然としてしまった。


「……あるんだね?」


ノワール様の言葉に、無意識のまま頷く。


定期的に、急に胸が痛んだり、体の内から燃えるような痛みを感じた事が、何度もあった……。


それが、この指輪のせいだったなんて……。



ノワール様は怒りを抑えているかのように、ギュッときつく目を瞑り、心を落ち着かせているようだった。


ややして、ゆっくりその瞳を開くと、私の目を真っ直ぐに見つめる。

その真剣な眼差しに、私は息を飲んだ。


「テレーゼ、こんな物をいつまでも付けていてはいけない。

だいぶ劣化してきているから僕でも処理出来ると思うんだ。

これからこの指輪を破壊して、吸い取られていた魔力を君に返す。

ただその時にリバウンドで魔力が君の体内で暴れ回ってしまう。

今君は、この指輪のせいで魔力枯渇を起こして、ただでも危険な状態だ。

そこに急に君の本来ある魔力を一気に注ぎ込むから、更に危険な状態になると思う。

これは応急処置的な対応なんだけど、僕の魔力で君の魔力を抑え込み、一旦中和して君の中にゆっくり注ぐから、君にはその僕の魔力を受け入れて欲しい。

どうかな?」


真剣なノワール様の眼差しに、私はゆっくり頷いた。

きっと、ノワール様は私を助けようとしてくれているんだわ。


私は、何があろうとノワール様を受け入れると心に決めた。


「ありがとう。今から直ぐに処置した方がいいんだけど……その、君の魔力量だと……直接交わるのが1番安全で効果的だけど……もちろん、そんな事はしないよ。

……だけど、その………」


何故か頬を染めて、手で口を押さえるノワール様に私は首を傾げた。


「まじわる……とは、どうすればいいのですか?」


私がそう聞いた途端、ノワール様はカッと顔を赤くして、しどろもどろな口調になる。


「ま、交わるっていうのは……そ、そうだね、あの、抱き合うとも言うんだけど……」


ノワール様の説明に、私はますます首を傾げた。

ノワール様はここまでも、何度も私を抱きしめて下さっている。


何でこんなに躊躇なさっているのだろうか……?


私はノワール様に向かって両手を広げてみた。


「あの、こうですか?」


その私にノワール様は何故かガクッと肩を落として、そっと私を抱きしめた。


「そうだね、今は、これで」


ギュッと抱きしめられて、私はその胸の温かさにまた涙が滲む。



「テレーゼ、それじゃあ指輪の破棄を進めよう」


ノワール様は体を離すと、私の頬をその手でそっと包み込んで、こう言った。



「君に口づける許しがほしい……」



その瞳が一瞬、甘く揺らめいたように見えたのは、ランプの燈のせいだったのかも知れない………。

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