【01-2】最初の事件(2)

「あの、すみません」

振り向くと天宮刑事が立っていた。


「てんきゅうさんだったか。どうした?」

鏡堂は、小柄な若い女刑事を委縮させないよう、気を使いながら返した。

180cmを超える自分の身長が、相手に威圧感を与えることを、よく知っていたからだ。


「あちらに事故の目撃者の方を待たせているのですが、もうお帰ししてよろしいでしょうか?」

「ああ、ちょっと俺からも訊きたいことがあるから、そっちに行こう」


そう言って鏡堂は、現場の規制線近くで、所在なさげに立っている、中年夫婦の方に向かった。

彼が警察手帳を示しながら、「県警の鏡堂です」と名乗ると、二人は顔を見合わせた。

天宮刑事が、「目撃者の鈴木さんご夫妻です」と、相手を紹介する。


「何度も同じことを訊いて申し訳ありませんが、事故当時の状況をお聞かせ願えますか?」

彼が出来るだけ温和な口調で言うと、夫の方が頷いた。


「今日は、事故車の後ろを走っておられたんですか?」

「すぐ後ろではないんですけど、一台置いて、二台目でした」


「事故車の後ろに別の車が走ってたんですね?」

「そうです。でも、その車、薄情というか何というか」


そう言いながら顔をしかめる相手に、鏡堂は「どうしました」という顔を向ける。

「いや、目の前を走っていた車が事故起こしてるのに、助けもせずに、知らん顔して走り去ったんですよ。まったく不人情な奴ですわ」


「まあ、最近の風潮かも知れませんね。

それでご主人は車を停めて、助けに入られたんですね?」

鏡堂は、憤慨する鈴木を宥めるように言った。


「そうです。

結構なスピードでぶつかりましたからね。

こりゃ大変だと思って」


「なるほど。それで事故の前なんですが、車が蛇行運転をしていたというのは事実ですか?」

「ええ、そりゃもう。センターラインはみ出すくらいに揺れてましたよ」


「申し訳ないですけど、鈴木さんのお車にドライブレコーダーがあれば、録画された画像を見せて頂けませんか?」

「ああ、ごめんなさい。うちの車はドラレコ付いてないんですよ」


鈴木がさも申し訳なさそうに謝るので、鏡堂は笑顔で遮った。

「とんでもない。もしあればの話ですから。

それで、車がぶつかった後、ドアを開けられたのも鈴木さんですね?」


「はいそうです」

「その時、車内から水が溢れてきたとか」


「そうなんですよ。開けた途端にザバンと来て、ズボンがびしょ濡れになっちまいました」

鈴木はそう言いながら、自分のズボンを指した。

確かに紺色のズボンはかなり濡れている。


――この濡れ具合だと、帰りは大変だろうな。

鏡堂は心の中で、人の好さそうな男に同情した。


「ドアを開ける前に車内の様子は見られましたか?」

「いや、焦ってたんで、ちゃんと見る余裕はなかったですね」


「車に近寄る時に、何か気がついたことがありますか?

例えば、被害者以外の人が車から出てきたとか」


「いやあ、それはなかったと思いますよ。

どうしてそんなこと訊かれるんですか?」


「いや、念のためです。

他に何か気づかれたことはありますか?」


「そうですね」と言いながら、少し考え込んだ鈴木は、事故車両を見て言った。

「あの車、フロントガラスとか、ドアウィンドウが割れてるでしょう?」


鏡堂は鈴木に肯いて、先を促した。

「割れた所から、結構水が溢れ出てたように見えたんですよ」


「水が、ですか」

「はい、多分中に溜まってたのが、ガラスの割れ目から漏れたんでしょうね」


「車の中に水が溜まってたと?」

鏡堂の念押しに、鈴木は大きく頷いた。


彼の表情に嘘はないと感じた鏡堂は、そこで事情聴取を切り上げることにした。

「鈴木さん、どうもご協力ありがとうございました。


今日はこれでお帰り頂いて構いませんが、また何かお聞きすることがあるかも知れませんので、その際にはご協力をお願いします」


鏡堂は鈴木夫妻に丁寧に礼を述べると、天宮刑事を促してその場を離れた。

そして現場を仕切っていた、班長の熊本達夫警部補に近づいて行く。


現場に制服警官に何事か指示を行っていた熊本は、鏡堂に気づくと手招きした。

そして傍らに来た鏡堂に、渋い顔を向ける。


「厄介そうな事件やまだぞ、これは。

話を聞いてるだけでは、まったく筋書きが読めん」


「同感ですね。こんなややこしいのは初めてです」

鏡堂は、同じく渋い表情を作って答えた。


「お前もそう思うか。まあ、こっちとしては、事実を積み上げていくしかないんだが。

ところで、ガイシャは二人とも大学病院で司法解剖に回されることになった。


これから、そっちに回ってくれんか」

熊本の指示に、「分かりました」と、鏡堂は頷く。


「捜査会議は、明日ですかね」

鏡堂の問いに、今度は熊本が頷いた。


「もう少し事実関係を洗い出さんと、捜査方針も決まらんだろうな。

そもそも、今の段階では事故か事件か判断できんからな」


「そうですね。

こう言っちゃあなんですが、事故であって欲しいですよ」


鏡堂は、それが願望に過ぎないと思いつつ、苦笑いを浮かべて言った。

熊本も、それに苦笑で返す。


熊本の元を離れた鏡堂は、少し離れた場所に停めた、自分の車に向かって歩いて行く。

――この事件やまはかなりやばいぞ。とんでもないことになりそうだ。

彼の頭を過るのは嫌な予感ばかりだった。

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