第六章 ブラジャーフッド 2

 最寄り駅は混んでいた。軽く舌打ちする。朝の通勤ラッシュにぶつかっちまった。

 ホームに満員電車が入ってきた。


「ここ、女性専用車よ」

「ああ、すみません」


 ぎろりと睨まれてあわてて移動した。女性専用列車どころか、電車に乗ること自体がおれには滅多にないことだった。

 スーツ姿の会社員の隙間に派手な柄のシャツとデニムの遊び人風が身体をねじ込ませるのは少々うしろめたい。

 これからフルタイムの桎梏に全身を投じる社畜のみなさん、神経を苛立たせて申し訳ない。


『おれ、変態です!』


 心の中で叫んだ。


『女もののブラジャーとパンティを装着しています!!』

『ちょっとした遊び心です。誰も気づかねーだろ、ざまあみろ!!』


 おれは普段は親父が経営している喫茶店の手伝いをしている。儲けなんかほとんどない、ほとんど趣味と言える経営状態なので出勤退勤の時間はかなり自由にさせてもらっている。というか勝手にそうしている。親父はどこか人生を諦めた雰囲気をまとっていて、おれはものごころついたときから叱られた記憶がない。

 おれが三十にもなってふらふらしてるのは親父の血かもしれない。


 電車からおりて濁流にもまれながら階段をのぼる。

 ふと顔をあげると女の子が降りてくるところだった。

 ラッシュアワーを体験したことがないのか、よほどの田舎育ちか、人混みに困惑顔だ。急ぎ足のおっさんに肩を激しくぶつけられて──

 ヤバい落ちる。

 おれは小柄な女の子を両腕で受けとめた。


「大丈夫か」

「肩と肩がぶつかって謝罪ひとつないとは。わたしが武士なら手討ちにしてやるのに」


 ぶっそうな独り言。やばい奴かな。


「ともかく、ありがとう」


 そこは、かたじけない、でしょ。とツッコミをいれたかったが、危険な雰囲気に気圧されて軽口は飲みこんだ。

 学校は通ってないのか。あるいは通えないのかもしれないな、と振り返ったとき胸に衝撃が走った。

 心臓を鷲掴みになれたような圧迫感。


 階段を転がり落ちる。

 苦しい。胸をおさえて胎児のように丸くなる。

 誰か助けてくれ。

 声にならない呻き声しか出ない。

 なんとか開けた薄目の中、社畜のみなさんは倒れた通行人を無視して素通りしていく。一瞥を投げる者もいるが足が止まることはない。


「酔っ払いか」「邪魔だな」「迷惑な」


 心ない罵声を投げつけられる。


「ラッキー」


 細い足が二本、目の前に立った。

 視線をあげると、さっきの女の子がにやりと笑っていた。


「除霊師も歩けば幽霊に当たる」


 幽霊? なにを言ってるんだ。


 次の瞬間、ふわりと身体が軽くなった。

 女の子はその場にしゃがみ込んでおれの顔をニマニマと見ている。

 だめだろ、そんなかっこしたら。スカートの中身が見えちまうだろうが。


「光が見える? 見えるならその光に沿って行けばいいだけ」


 女の子の言う通り、目の前に光の道がひらけた。

 ここ、駅の構内だったよな。なんでキラキラしているんだろう。それに身体が自然と軽くなって道のほうに進んでいく。

 立ち上がった覚えがないのに、いつのまにか歩いている。


「そうそう。いい調子」


 進めば進むほど光の粒子に包まれる。

 意識がぼんやりとして眠くなる。

 睡眠不足だったもんなあ。

 なにげなく女の子を振り返ると、そばに倒れている男の姿が視界に飛び込んだ。

 おれだ。


 そうか、おれは死んだのか。

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