第六章 ブラジャーフッド 3

 なんの感慨もなかった。

 会いたい人の顔も、やり残したことも思い浮かばなかった。

 未練のひとつもない、つまらない、クソみたいな人生。

 だがそのおかげで、こうやって穏やかにあの世へいけるのかもしれない。


 いや、待て。


 死ぬ直前って思い出が走馬燈のように駆け巡るんじゃないのか。

 おれは思い出のひとつもないのか。

 なんか思い出せ。親友……いねえな。親……親孝行できなかったけどおれが死んだときいたら喜ぶだろうな。元カノの顔……忘れた。ワンナイトの顔も覚えてないや。ああ、こんなもんか。あばよ、おれ。


 もう一度振り返ると、女の子は手を振っている。見送ってもらえるだけ、虫けらのようなおれには贅沢かもしれない。すっかり自己嫌悪に陥ったおれが女の子の背後に見たのは、救急隊員だった。

 通勤通学の乗客の邪魔にならないよう、通路ぎわにおれの体を動かしていた。


「心肺停止」「AED!」


 仕事とはいえ迅速で頼もしい。敬服に値する。駆けつけてくれてありがとう。

 でもそんなやつもうほっといて──

 そのとき、おれは重要なことを思い出した。


 ブラジャーとパンティ──!!!

 おれはダッシュで駆け戻ろうとした。

 ところが女の子は腕をひろげて通せんぼをする。


「どけ。まだ死ぬわけにはいかない」

「どうしてですか。あの世に行く気満々だったじゃない」

「恥ずかしい! まずい。やばい。笑われる!」

「はあ? 恥も外聞もないでしょ。死んだんだから」

「死者にも尊厳があるだろ。変態で死にたくない!」


 そんな押し問答をしているあいだに、救急隊員はおれのシャツを脱がせて金属を身につけていないか素早く確認した。

 そのうちのひとりが「ブラジャーははずさなくていい!」と大声をあげた。

 彼らはプロだった。てきぱきとやるべき作業をした。

 おれの身体がびくんと跳ねる。ブラジャーをつけた状態で。


「うあああああ」


 おれは絶叫した。

 だが魂の叫びは誰の耳にも届かない。


「あれ?」


 振り向くと、光の道が消えていた。


「あ~あ。消えちゃった。ぐずぐずしてるから……でも」


 女の子の顔が不気味な笑顔になった。よだれこそ垂らしてはいないものの、その目つきは赤頭巾を目にしたオオカミのようだ。


「ここからがわたしの出番ね」


 女の子はスマホを取り出して画面をおれのほうに向けた。


「これもあの世の入口だから。さっさと往生しなさい」

「だめだ、死んでも死にきれない。かっこわるい。……そう、おれはそれだけはこだわってきた。かっこよく生きる。かっこいい男たれ。後輩には『さすがっす先輩』って言われ、年配からは『心底うらやましい』と言われるような、一目置かれる人間になりたかった。真の男になりたかった。なのに……」


 ぱっつんぱっつんの女性用下着がすべてをぶちこわす。


「キワめれば変態ダッテかっこいいデスヨ」

「心がこもってない」

「ウソをつけないたちなので。自分に言い聞かせればいいかと思いましたが失敗しました。なんにしろ、真の男とはなにか、などと考えているほうがかっこ悪い。そんなものは存在しないの。幻想よ。裸の魂に性別はない」

「真の男ってのは中途半端じゃないんだ。中途半端が一番かっこわるい。くそう」


 おれはバスケの要領で右へ行くふりをして女の子を引きつけ、左に回頭した。女の子は小柄だ。おれは足の長さを活かして横をすり抜けた。


「あ……!!」


 担架に移されたおれの体。ブラジャーが鎖骨のあたりまでめくれあがった状態で死んでいる中途半端なおれ。

 このままで終わらせるものか。おれは生きる。生き返って強弁してやる。

 女ものの下着を身に着ける男で何が悪い。色黒で筋肉質な男らしさを強調するために、あえて身につけていたのだ。男らしい言い訳くらいさせてくれ。


 おれは手を伸ばす。手はぐんと伸びた。よし、この不気味な手で命をつかみ取ってやる。

 掃除機に吸い込まれるような感覚、そして暗転。


「あー……あ」


 意識がたゆたうなか、女の子の悔しそうな顔が語りかけてくる。


「……変態が露見したいま、生還するほうがつらくないですか」

「それはたしかに……」


 後悔という客はアポなしでやってくる。

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