第三章 方向指示器 8
はたして、店の冷凍庫からカチンコチンの右腕が出てきた。
新聞紙にくるまって、冷凍庫の奥に詰まっていたのは保冷剤ではなかったのだ。
オカチンは腰を抜かしてしまった。自分が経営する店から死体の一部が出てきたのだから当たり前だ。
方向指示器の右腕は役割を終えたとばかりにすうと消えた。
腰を抜かし損なって、かえって冷静な精神状態でいられたおれは双葉の頭の上に声をかけていた。
「よかったですね」
生首はうれしそうに笑うと、細い煙に形を変えて双葉の胸ポケットに消えた。
心臓に吸い込まれたみたいに見えてびっくりしていると、双葉は胸ポケットからスマホを取り出して満足そうに画面を見ていた。
「幽霊は……どうなった?」
「執着がなくなってこの世から去りました」
「バラバラがそんなにイヤだったのか」
双葉はスマホの画面をおれに向けた。
画面にはたおやかな手のアップが映っていた。ハンドクリームの広告だった。
「生前はモデル事務所に所属して手タレをしていたそうです。自慢の手だったんでしょうね。内臓は諦めても手は取り返したかったんですよ」
こんなに美しい手がおれの肩に乗っていたのか。光栄だ。でも美しくなくていいから柔らかくて温かい手のほうが魅力的だと思う。
カチンコチンに凍っていた本物の腕は石膏像のようだった。
「なんでおれに憑いたんだろう」
「気づいてほしくて、見つけてほしくて、でしょうね。一途にそれだけを願ってましたから」
一方花音はカチンコチンを発見したあと、すみやかに所轄に連絡していた。
事情聴取をしたいので署に来て欲しいと刑事に促されたときにはもう、双葉の姿は消えていた。気まずい空気になったのもつかのま、連絡のつかないベテランアルバイターが容疑者として浮上するや、警察の関心はあやしいオカルトから離れていった。
慌ただしい一週間がすぎたころ、容疑者のベテランアルバイターが逮捕されたという朗報が花音からもたらされた。
除霊師が話していたとおり、被害者と容疑者は顔見知りではなかった。『誰でもいいから女性を殺してバラバラにしてみたかった』と自白したのだ。
計画はしかし途中で飽きてしまって、死体は近所に捨てた。先に捨てたパーツがすぐに発見されて大騒ぎになってしまったので捨て損なった右腕をバイト先の冷凍庫に隠した、というのが真相だった。
綺麗な手だったので捨てかねた、という理由ではなかった。
通りかかった女性がたまたま双葉だったら、彼女が犠牲者になっただろう。仮に花音だったらと思うと恐ろしくて震えた。
あれ以来双葉の姿を見ていない。幽霊の類も見ていない。だがおれの現実感が戻ってくることはなかった。
一緒に働いていた同僚が凶悪犯だという事実が、いつまでも尾を引いたせいではない。
一年が経ち、花音は刑事課に異動した。勤務先の所轄署もかわった。相当に忙しいらしく、部屋がちらかっていて足の踏み場がないとこぼしていた。やりがいがあるから刑事は続けたい、でも汚部屋の一線を越えそうだからなんとかしたい、とおれに相談をしてくるようになった。
おれは家事代行の家政夫を始めていた。だが警察の独身寮に立ち入ることはできない。
おれのやりがいは、だからこういう形になった。
今日、花音は警察の独身寮からマンションに引っ越した。おれが準備しておいたマンションに。
やはり現実感がない。足下がふわふわしている。
世帯主は花音。おれは主夫だ。『普通じゃない』て言葉はもう聞き飽きた。安易に口にするやつはきっと右腕だけの幽霊に会ったことがないんだろう。
あ、いけない、花音が好きなはちみつ黒酢ダイエットを冷やしておかなきゃ。柔軟剤をかえたけど香りを気に入ってくれるかな。そろそろスーパーの割引時間だ、急がなきゃ。
オカチンはいまでもカラオケ屋を続けているらしい。
つきあいはいまでも続いているが、もう手伝いには行っていない。
(第三章 了)
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