第一章 愛犬 7

「事務所に依頼に来たとき、此花さんは『呪い』と言っていたでしょう」

「ああ……」


 あのときは呪いを疑っていた。いま考えると飛躍しすぎだ思う。


「高校のときかな、日本史の授業で習ったんです。平安時代は恨みを抱いて死ぬと怨霊になって祟ると信じられていたでしょう」

早良親王さわらしんのうとか菅原道真すがわらみちざねなんか有名よね」

「そうそう。怨霊って怖いじゃないですか」

「もしかして……誰か殺しちゃったんですか」


 なぜか双葉師匠の目がきらきらとしている。問いかけと表情が合っていない。


「いえ、まさかそんなこと。源氏物語の六条御息所ろくじょうみやすどころは生き霊だっけ」

「なるほど、うしろめたいこと、気が咎める出来事があったんですね。呪われても仕方ないと思えるほど罪悪感を覚えることが」


 双葉師匠がすっと目を細めた。お見通しだ。


「ザビエル、実は元カノが置いていった犬なんです。元カノに未練があるわけじゃないんです。浮気したのはアイツだし、浮気が本気になって、浮気相手が犬嫌いだから、もうザビエルはいらないって置いていったくらいだし、正直二度と顔を見たくないくらいなんですけど、でもザビエルは元カノが好きだったし、いまも好きだと思うし、なんか悔しくて」

「で、元カノを殺そうとしたんですか」

「いえいえ、してないですって。でも死ねばいいのにって思いましたよ。『ザビエルが面倒になってもこっちに連絡しないで、保健所にして』って最後にメールが来たときは」

「ああ……なーんだ」


 双葉師匠は力の抜けた声を出した。


「呪いって自分に返ってくるっていうじゃないですか。そのときは自分でも驚くほど憤っちゃって、いま思うと自分で引くほどなんです。ザビエルの具合が悪くなったのはもしかしてぼくのせいかと思ったんです」


 ぼくが誰かを呪ったせいで、ぼくのかわりにザビエルが苦しんでいるのかと思ったのだ。


「ザビエルはその元カノさんが飼っていた犬なんですね」

「同棲することになって元カノが連れてきたんですよ。ショップで目が合って運命だと思ったって。育てたのは二人でだけれど、もともとはぼくの犬じゃないんです」

「此花さんが犬好きなのを元カノさんは知っていたんですね」

「ええまあ。いつか飼いたいなってデートのときに話していたので」

「浮気相手の人が犬嫌いでよかったですね。そういう人をあえて選んだのかもしれませんけど」

「え、そうなのかな。だとしても……まさか彼女、犬好きのぼくに合わせてくれてただけだというんですか。犬好きのふりをしていた、と」


 散歩に行くのも病院に連れていくのも餌やトイレの世話も、最初は彼女がやっていたのに、いつのまにかぼくの仕事になっていた。


「そしてあなたも、元カノさんよりもザビエルのほうが大事になってませんでしたか?」

「…………」


 たしかに話題の中心がザビエルだったり、ザビエルを理由に外出しなかったりしたけど。

 二人の共通の宝物だと思っていたのはぼくだけだったのか。それどころか、元カノからしたらぼくのほうがザビエルに浮気しているように見えたのだろうか。

 元カノは実は犬が苦手だったとか?

 飼ってみたら好きになれるかもしれないと希望を抱いていたとか?

 だけどやはり犬を好きになれなくて、ぼくの関心がどんどんとザビエルに移っていったと思って絶望して見ていたとか?


「まだ元カノさんのこと憎いですか?」

「……いいえ」


 ぼくは困りはてて笑った。どんな表情をしたらいいかわからないとき、人は笑う。自分より十歳は年下に見える双葉師匠に悟らされてしまったのは少し悔しい。



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