第一章 愛犬 6
一カ所にとどまった輪っかはわずかに右に傾いて、小刻みにぶるぶると震えた。とくに左側が激しく揺れている。
なぜだ。なぜまったく怖くないのだ。
まるでその動きが、右側の首元を後肢で掻いている大型犬のようだからか?
「……大型犬……?」
犬の動きに似ていると気づいたら、薄ぼんやりとだが大型犬の姿が浮かびあがった。
秋田犬の姿に見える。
秋田犬といえば日本原産の大型犬。身体能力が高く、力も強い。闘犬や狩猟犬になれるほどの攻撃性を備えている。いっぽう、飼い主に忠実で番犬の適正に優れている。亡くなった主人を何年も待ち続けた忠犬ハチ公はとくに有名だ。
その大型犬が口を開けて舌を少し見せている。
「み、見える……なんで……?」
「双葉師匠の霊力の余波だよ」
仙師がさも当然といった顔で言う。
ザビエルはこの大型犬に怯えていたのか。散歩で大型犬と遭遇しても怯えることがなかったザビエルの性格を考えると、あの幽霊秋田犬がザビエルを威圧したにちがいない。
「我慢しろ、ザビエル。双葉師匠が除霊してくれるからな」
背中に話しかけた。
肝心の双葉師匠が秋田犬を見据えながら部屋に入ってきた。
『うー』
秋田犬が突然歯を剥き出して威嚇を始めた。あきらかに双葉師匠を敵視している。
動物にとことん嫌われる人がいるというのは本当らしい。
だが秋田犬が師匠に飛びかかることはなかった。首輪の霊力によるものか、ベランダから離れられないのだ。目に見えないリードがつながっているのかもしれない。
「双葉師匠、お願いいたします」
「うむ」
双葉師匠は秋田犬から部屋全体に視線を移した。なにもない部屋の角を見て首を傾げる。
「どうしました?」
双葉師匠が近づくと、まるで光に照らされたように人の姿が現れた。うなだれたようすで佇む、腰の曲がった、パジャマ姿のおばあさんだ。
おばあさんは双葉師匠を見上げて『あんた誰?』と聞いた。
「通りすがりの者です。おばあさんはどうしてここにいるんですか」
おばあさんはきょろきょろとあたりを見回してしょんぼりと答えた。
『わかんない。頭がぐるぐるして』
「ご自分の名前はわかりますか」
『名前……あたしの……?』
おばあさんは答えを探すかのように上を見て下を見て、溜息をついた。
『わかんない』
認知症だ。認知症の幽霊がぼくの部屋にいる。
「ここは自分のおうちですか」
『……どうだろう。わかんないね。ああ、でも……チロがいるから、あたしのうちだね』
おばあさんは秋田犬を見て相好を崩した。飼い主と飼い犬。
「ほんとうのおうちに帰りましょう。眩しい光が見えるでしょう」
『ほんとうのおうち……?』
秋田犬がワンワンと吠えだした。
『でもチロは』
「チロも一緒に帰りますよ」
『ああ、じゃ、帰ろう』
おばあさんはベランダに出てきて秋田犬のそばに近寄った。霊に触れそうになり、ぼくは思わず後退った。恐怖は感じないが肌が粟立った。関わってはいけないと本能が警告している。
背中からはザビエルの動揺が伝わる。
『チロ』
おばあさんの呼びかけに、秋田犬は尻尾をふって、お座りをした。
『一緒に帰ろか』
『ワン』
紙で作った輪っかを残して、二筋の淡い光のもやになった秋田犬とおばあさんは双葉師匠の持っていたスマホの画面に吸い込まれた。
「チョロいな」
双葉師匠はふんと鼻息を虚空に吹かした。
「どこに帰ったんですか」
おそろおそる訊ねた。
「本来行くべき場所、魂の根源に帰ったのよ」
スマホの中にそんなものがあるわけない。
「帰るとどうなるんです?」
「分解されてエネルギーに還元されて、新しい生命のもとになる」
「生まれ変わるんですか?」
生まれ変わりなんて信じていないけど、なんて答えるのか気になって訊いてみた。
「生まれ変わりは魂が濁っているのよ。未練が残ってるの。だから綺麗にして送ってあげないといけない。その手間があるぶん、まあ、お金になるんだけどね」
双葉師匠はにやりと笑った。
やっぱり請求する気じゃないか。ともかく助けられたのは事実だ。目に余るほど高額でなければ支払ってもいいという気になっていた。
だが師匠は首を振った。
「お代の代わりに教えてください。なぜ呪いだと思ったんです。呪われるようなことを誰かにしたからですか」
「え」
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