第一章 愛犬 8
「此花さんは元カノさんよりザビエルを選んだのよ。でもザビエルはどうかしら。此花さんよりも元カノさんのほうが好きだったかもしれないわね」
「そ、そんなことはないですよ。ザビエルはぼくのことが大好きなんですから──」
ザビエルは仙師の前にちょこんと座り、尻尾をふっている。この浮気者が。だが仙師の影に隠れるように立っていた師匠に気づくと猛烈に吠えかかった。
「ザビエル、急にどうしたんだ。だめだよ」
「じゃあさよなら」
師匠は弟子の首根っこをひっつかむと逃げるように帰って行った。
窓から見ていたら仙師の車がゆっくりと去って行った。運転席が見えたわけではないがハンドルを握っているのは仙師ではなく双葉師匠のような気がした。
ここからさきは後日近所で聞いた話だ。
おばあさんとチロは、やはりあの日より二週間前に交通事故にあっていた。
認知症が進行していたおばあさんは散歩に出ては帰り道がわからなくなることが多く、家族から外出を止められていたそうだ。
事故に遭ったその日は家族の知らぬまにパジャマ姿のまま犬の散歩に出たらしい。早朝だった。
ちょうどあの電信柱のあたりで道がわからなくなり、困り果てていたのだろう。チロがリードをくわえて帰り道を戻ろうと懸命に引っ張ったが、年寄りとは思えない力で抗っていたのを近所の人が目撃していた。
酔っ払い運転の車が突っ込んだのはそのときだ。
動かないおばあさんの前に飛び出したチロ。あの大きな身体が数メートル跳ね飛ばされた。かばった甲斐なくおばあさんも
ザビエルの散歩を再開してすぐに近所の犬仲間に話しかけられた。姿を見せなくなったぼくらを心配してくれていたらしい。おばあさんとチロのことを教えてもらういい機会になった。
「おばあさんが子供のころに飼っていた犬が『チロ』で、柴犬だったらしいわよ。症状が出る前のおばあさんと話をしたことがあってね。『あの世からのお迎えはチロに来てほしい』って言ってたのよ。チロじゃなくてゲンゲンだったけど、おばあさんを迷わずに天国につれていってあげてるといいわね」
つまりゲンゲンはなんとも果てしなく優しい犬だったのだ。
電信柱の根元にお供え物はもうない。いまは犬のマーキング場所に戻っている。
帰る場所がわからなくなった幽霊のおばあさんはたまたま散歩していたぼくらにふらりとついてきてしまったのだ。ゲンゲンは懸命におばあさんを守りながら、ザビエルを威嚇しつつ、なすすべなくぼくの家に来ることになってさぞ困ったことだろう。まあ、これはぼくの推測だけど。
おばあさんの魂と一緒に大きなエネルギーに包まれて安らかにいてくれたらいいと願う。
一ヶ月が経ち、あれから何事もなく平穏な日々を過ごせているのは師匠のおかげ……仙師のおかげもちょびっとはあるかもしれない。感謝をこめて、せめて菓子折くらいもらってもらおうと事務所を訪ねたが、不思議なことに建物は影も形もなくなっていた。
(第一章 了)
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