序章 家 5

「お兄ちゃん、まだなの? 風呂が長い男って中で何してんの?」

「うるさいな。さらっと性差別すんな。あ、おい、そこから離れるなよ。絶対に動くなよ」

「あーはいはい」


 穂乃果は脱衣所の戸にもたれかかって座り、スマホを弄っている。幸太郎の長風呂につきあわされているようだ。

 孫がそばにいるのがうれしすぎて、盗み聞きばかりしてしまう。わたしの前だと二人とも本音が言えないだろうから仕方がない。


「こんな辺鄙へんぴなとこ、病院にも行きにくいよ。おまえだってそう思うだろ」


 幸太郎はまだ続ける気らしい。あるいは知らぬ間に穂乃果がいなくならないように話題を振っているのかもしれないが。


「送迎はするよ。車は持ってきたし」

「だってお前、下手く……いや、それも運命か……」

「幽霊がさ、なんか悪さするようなら対策とらないとって思うけど、ちょっと姿見せるくらいなら別にいいかなって」

「おまえは健康だから悠長なんだよ。おれは気が狂いそうだよ。もしかしてさ、おれが病院から霊を連れてきたんじゃないかな」


 少しだけ間が開いて、穂乃果が続ける。


「不安を感じるのは理解できるよ。なにか手を打とうかな」


 死を身近に感じている兄を、穂乃果は心配しているようだ。


「おれだって考えてるさ」


 幸太郎が早口で追いかける。


「へえ。どんな?」


 穂乃果の口調が少しとがる。兄妹喧嘩が勃発ぼっぱつするときの予兆だ。


「おまえから先に言えよ」

「お兄ちゃんから先に言ってよ。年上なんだから」

「おまえ、ずるいぞ。年上とか関係ないだろ」

「お兄ちゃんはいつもそう。わたしの提案を『おれだって考えてた。穂乃果がパクった』って言うじゃない。昔からそう」


 穂乃果は自覚していないようだが、さっきまで『兄さん』呼びだったのが『お兄ちゃん』になっている。子供の頃みたいで懐かしい。


「そんなこと一回もない」

「捨て犬を拾ってきてわたしのせいにしたじゃん。それからおばあちゃんの着物を燃やしちゃったときも」

「着物はおまえのせいだぞ」

「そうだっけ?」

「絹か化繊か木綿かは燃やせばわかるって。だから庭で実験しようって言いだして。端っこだけのつもりがまるまる燃えちゃって。びっくりして泣き出したから、おれがやったんだって言って、おまえをかばったじゃないか」

「あー、そうだったかも。でもおばあちゃんに叱られなかったんだよね。科学の実験とは偉いって褒められた」

「違うよ。頭にがつんとげんこつ食らったよ」

「あれえ、そうだったかな」

「年上は損だ。つくづくそう思った」


 懐かしい思い出だ。兄にげんこつを食わせたのは妹を止めなかったから。妹の目の前で兄を叱ったのは、自分の軽率な言動で兄が怒られることを痛みに感じて欲しかったから。

 ──だったと思うのだけど、昔のこと過ぎてよく覚えていない。


「それがわたしたちの伝統なんでしょ。だから、おにいちゃんからどうそ」


 脱衣所の戸が開き、パンツ一枚の姿で幸太郎が出てきた。胸に手術のあとがある。覗き見をやめて、聞き耳をたてた。


「お祓いをする」

「え?」

「ネットで見つけたんだ、霊媒師。除霊や厄除けをしてくれるってさ」

「……高いんじゃないの?」

「見積もりは無料。出張費の実費は別でかかるけど、見積もりに納得できなかったらその場で断っていいってさ。一度プロに見てもらおうぜ」

「詐欺じゃないの?」


 穂乃果の懸念はよくわかる。値段なんてあってないようなもの。断られて素直に帰るとはかぎらない。もめごとになれば幸太郎の心が余計にまいってしまうかもしれない。

 幸太郎は穂乃果の手を取って居間に引っ張っていく。そっとようすをうかがっていると、ノートパソコンとかいうものをひらいた。


「ほら、これこれ。まあ、まずは見てみろよ」


 幸太郎の声は奇妙に高揚している。穂乃果はしばらくのぞきこみ、小さく唸った。


「インチキには見えないね」


 穂乃果があちら側に傾いた。


「だろ。仙人みたいな見た目で霊験ありそうだよ」

「この白髯はくぜんのおじいさんは百戦錬磨ひゃくせんれんまの大ベテランって感じだけど、それよりも全体に地味なのよね、サイトの作りが。手作り感といいセンスの古さといい」


 お金儲けする気が感じられないと穂乃果は言う。


「メールで依頼できるぜ」

「じゃあ、こうしましょう。霊視してもらうときに一部始終を撮影したいと言う。都合が悪いと断ってくるなら詐欺の確率が高いから玄関でお帰り願いましょう。オーケーならスタートラインは合格。もちろん見積もり金額とかお祓い内容とかはその都度検討していく。それでいいかな」


 わたしの家に勝手にお祓いを呼ぶと決められて腹は立つものの、幸太郎の精神状態を考えれば穂乃果にまかせておくのがよさそうだ。

 わたしは口を出さないことにしよう。

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